2 / 4
ノイズ 2話(雪広)
この時期は、会合が増える。
年度末。
金の匂いがする付き合いは、本音を言えば面倒だが、顔を出しておく必要があることは分かっている。
料亭を出たところで、タクシーを呼ぶ気にはならなかった。
マンションまでは歩けない距離ではない。
夜風に当たり歩く。通りをいくつか抜けると、客層が変わった。
若者の多いエリアだ。居酒屋やバーの看板が雑多に並び、呼び込みの声が途切れない。
なぜだか、今日はもう少し飲みたい気分だった。
理由はない。そういう日もある、と自分に言い聞かせる。
友と呼べる人間はいない。
だが、唯一、親友と呼べる男が一人いる。
司。
ポケットから携帯を取り出し、短くメッセージを打つ。
返事はない。
そういえば最近、生涯のパートナーを見つけたと報告を受けていた。今頃は、その相手との生活に忙しいのだろう。
愛だの、恋だの。
よく言える。
そんなものは、何の役にも立たない。
人の波を避けながら歩いていると、進むのも億劫になるほどの混雑に出た。
司とも連絡が取れない。
帰るか、と踵を返した、その時だった。
ドン、と肩に衝撃が走る。
「あ、すいません」
先にそう言ったのは、相手の方だった。
反射的に顔を上げる。ぶつかった拍子に、相手の体がわずかによろけた。
雪広は、とっさに手を伸ばし、
相手の肩口に軽く触れて支える。
「ああ、こちらこそ。大丈夫ですか」
自分の声が、思ったより柔らかく響いたことに、雪広は内心でわずかに眉を動かす。
仕事柄、こういう声が出る。
相手を刺激しないように、無意識に選んだ、穏やかな調子。
「ありがとうございます。あ……っ」
相手は一瞬、きょとんとしたように目を瞬かせ、それから小さく息を吐いた。
雪広はわずかに視線を止めた。
どこかで、見た顔だ。
「あの、この前の……」
相手がそう言って、少しだけ目を見開いたあと、思い出したように表情を緩めた。
古びたパン屋。
店の奥から出てきた、あの青年だ。
「……パン屋の」
雪広がそう言うと、青年は小さく頷いた。
「はい。あの時は、ありがとうございました」
声は落ち着いていて、余計な熱がない。
あの店で聞いたままの声だった。
「別に……大したことは」
そう答えながら、雪広は自分が足を止めていることに気づく。
いつもなら、ここで終わりだ。
会釈をして、それぞれの方向へ行く。
だが青年は、一歩踏み出した。
「あの、もしよければ、この前のお礼をさせてください」
唐突だが、押しつけがましくはない。
「一杯だけでいいので」
視線が合う。逃げ道を残した言い方だった。雪広は一瞬、返事を保留する。
断る理由はいくらでもある。
だが__さっきまで、もう少し飲みたいと思っていた。
「……一杯だけなら」
自分の口から出た言葉に、わずかな違和感を覚えながら、雪広はそう答えた。
青年は、ほっとしたように頷く。
「この辺に、静かなバーがあります」
そうして、二人は並んで歩き出した。
◇
店は通りから少し外れた場所にあった。
派手な看板はなく、扉も控えめだ。
カウンターに並んで腰を下ろす。
「何、飲まれます?」
「ウイスキー、もらおうかな」
グラスが置かれ、氷の音が静かに響いた。
一口含んでから、雪広は視線を正面に向けたまま言う。
「あの後は……大丈夫でしたか?」
我ながら、仕事用の声だと思う。相手を刺激せず、当たり障りのない調子。便利だが、少しだけ嫌気もさす。
青年は一瞬考えるように視線を落とし、それから軽く肩をすくめた。
「ああ、はい。いつもは、ああいうトラブルはないんですけど」
感情は、ほとんど乗っていない。
「たまに、いらっしゃるんです。ご自分の中で、もう答えが決まっている方」
雪広はグラスを傾けながら、静かに頷いた。
「……分かる気がします。いますね」
「ですよね」
間を置かず、青年は小さく息を吐く。
「話をしても、平行線だなって感じたら、それ以上、時間を使わなくてもいい気がして」
その言葉に、雪広はわずかに目を伏せる。
価値観は近い。だが、理由を深掘りする必要はない。
「……私も、好みではありません」
自分でも意外なほど、声が少しだけ柔らいだ。それを意識する前に、グラスへと視線を戻す。
青年が、ほんの一瞬だけ目を瞬かせた。
「……そう、なんですか」
「感情で引き止められて、無駄に時間を取られるのが苦手なんです。結果が出ていない段階で、分かってほしいと言われるのは」
青年は、しばらく黙ってから言った。
「……じゃあ、似てますね」
「そうかもしれません」
「深入りする気がないなら、聞かない方がいいって思うんです」
雪広は、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
「悪くない……合理的だ」
それは評価だった。
「賢い判断です」
青年は、ほんのわずかに目元を緩めた。
笑ったというより、そう見えただけかもしれない。
「……そう言われたの、初めてです」
声は軽いが、冗談めかしてはいない。
「大抵は、距離があるって言われます」
「距離を取れるのは、判断が早い証拠です」
青年は、その言葉を受け取るように、静かに頷いた。目元にわずかな笑みが残っている。
グラスの中身は、いつの間にか減っていた。
「もう一杯、いきます?」
問いかけに、雪広は腕時計を見る。
時間はある。
「そうですね……もう一杯いきますか」
それからしばらく、仕事の話でも、店の話でもない、どうでもいい会話が続いた。
気がつけば、グラスは二つ目、三つ目に変わっている。
ふと、青年が言った。
「……少し、お腹、空きません?」
雪広は一瞬だけ間を置いた。その言葉の裏を読むほど、経験がないわけではない。
__誘いだ。
それも、余計な期待を抱かせない、分かりやすい種類の。
雪広は正直に答える。
「……空きました」
「よかった」
青年は、どこか安心したように、ほんのわずかに口元を緩めた。計算というより、確認に近い表情だ。
「うち、近いんです。よかったら、パン、食べていきません?」
誘いは軽い。
含みはあるが、条件はない。
後腐れがなく、面倒も残らない。
__悪くない。
「……少しだけなら」
そう答えた自分に、雪広はもう違和感を覚えなかった。
青年がグラスを置くのを見て、雪広もそれに倣った。
言葉は、もう要らない。
会計を済ませ、二人は席を立つ。店内に残るのは、氷の溶ける音だけだ。
扉を開けると、夜の空気が静かに流れ込んできた。
並んで外へ出る。
距離は近いが、触れない。
それで十分だった。
雪広は、この選択を悪くないと思いながら、青年の歩幅に合わせて、歩き出した。
ともだちにシェアしよう!

