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ノイズ 2話(雪広)

この時期は、会合が増える。 年度末。 金の匂いがする付き合いは、本音を言えば面倒だが、顔を出しておく必要があることは分かっている。 料亭を出たところで、タクシーを呼ぶ気にはならなかった。 マンションまでは歩けない距離ではない。 夜風に当たり歩く。通りをいくつか抜けると、客層が変わった。 若者の多いエリアだ。居酒屋やバーの看板が雑多に並び、呼び込みの声が途切れない。 なぜだか、今日はもう少し飲みたい気分だった。 理由はない。そういう日もある、と自分に言い聞かせる。 友と呼べる人間はいない。 だが、唯一、親友と呼べる男が一人いる。 司。 ポケットから携帯を取り出し、短くメッセージを打つ。 返事はない。 そういえば最近、生涯のパートナーを見つけたと報告を受けていた。今頃は、その相手との生活に忙しいのだろう。 愛だの、恋だの。 よく言える。 そんなものは、何の役にも立たない。 人の波を避けながら歩いていると、進むのも億劫になるほどの混雑に出た。 司とも連絡が取れない。 帰るか、と踵を返した、その時だった。 ドン、と肩に衝撃が走る。 「あ、すいません」 先にそう言ったのは、相手の方だった。 反射的に顔を上げる。ぶつかった拍子に、相手の体がわずかによろけた。 雪広は、とっさに手を伸ばし、 相手の肩口に軽く触れて支える。 「ああ、こちらこそ。大丈夫ですか」 自分の声が、思ったより柔らかく響いたことに、雪広は内心でわずかに眉を動かす。 仕事柄、こういう声が出る。 相手を刺激しないように、無意識に選んだ、穏やかな調子。 「ありがとうございます。あ……っ」 相手は一瞬、きょとんとしたように目を瞬かせ、それから小さく息を吐いた。 雪広はわずかに視線を止めた。 どこかで、見た顔だ。 「あの、この前の……」 相手がそう言って、少しだけ目を見開いたあと、思い出したように表情を緩めた。 古びたパン屋。 店の奥から出てきた、あの青年だ。 「……パン屋の」 雪広がそう言うと、青年は小さく頷いた。 「はい。あの時は、ありがとうございました」 声は落ち着いていて、余計な熱がない。 あの店で聞いたままの声だった。 「別に……大したことは」 そう答えながら、雪広は自分が足を止めていることに気づく。 いつもなら、ここで終わりだ。 会釈をして、それぞれの方向へ行く。 だが青年は、一歩踏み出した。 「あの、もしよければ、この前のお礼をさせてください」 唐突だが、押しつけがましくはない。 「一杯だけでいいので」 視線が合う。逃げ道を残した言い方だった。雪広は一瞬、返事を保留する。 断る理由はいくらでもある。 だが__さっきまで、もう少し飲みたいと思っていた。 「……一杯だけなら」 自分の口から出た言葉に、わずかな違和感を覚えながら、雪広はそう答えた。 青年は、ほっとしたように頷く。 「この辺に、静かなバーがあります」 そうして、二人は並んで歩き出した。 ◇ 店は通りから少し外れた場所にあった。 派手な看板はなく、扉も控えめだ。 カウンターに並んで腰を下ろす。 「何、飲まれます?」 「ウイスキー、もらおうかな」 グラスが置かれ、氷の音が静かに響いた。 一口含んでから、雪広は視線を正面に向けたまま言う。 「あの後は……大丈夫でしたか?」 我ながら、仕事用の声だと思う。相手を刺激せず、当たり障りのない調子。便利だが、少しだけ嫌気もさす。 青年は一瞬考えるように視線を落とし、それから軽く肩をすくめた。 「ああ、はい。いつもは、ああいうトラブルはないんですけど」 感情は、ほとんど乗っていない。 「たまに、いらっしゃるんです。ご自分の中で、もう答えが決まっている方」 雪広はグラスを傾けながら、静かに頷いた。 「……分かる気がします。いますね」 「ですよね」 間を置かず、青年は小さく息を吐く。 「話をしても、平行線だなって感じたら、それ以上、時間を使わなくてもいい気がして」 その言葉に、雪広はわずかに目を伏せる。 価値観は近い。だが、理由を深掘りする必要はない。 「……私も、好みではありません」 自分でも意外なほど、声が少しだけ柔らいだ。それを意識する前に、グラスへと視線を戻す。 青年が、ほんの一瞬だけ目を瞬かせた。 「……そう、なんですか」 「感情で引き止められて、無駄に時間を取られるのが苦手なんです。結果が出ていない段階で、分かってほしいと言われるのは」 青年は、しばらく黙ってから言った。 「……じゃあ、似てますね」 「そうかもしれません」 「深入りする気がないなら、聞かない方がいいって思うんです」 雪広は、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。 「悪くない……合理的だ」 それは評価だった。 「賢い判断です」 青年は、ほんのわずかに目元を緩めた。 笑ったというより、そう見えただけかもしれない。 「……そう言われたの、初めてです」 声は軽いが、冗談めかしてはいない。 「大抵は、距離があるって言われます」 「距離を取れるのは、判断が早い証拠です」 青年は、その言葉を受け取るように、静かに頷いた。目元にわずかな笑みが残っている。 グラスの中身は、いつの間にか減っていた。 「もう一杯、いきます?」 問いかけに、雪広は腕時計を見る。 時間はある。 「そうですね……もう一杯いきますか」 それからしばらく、仕事の話でも、店の話でもない、どうでもいい会話が続いた。 気がつけば、グラスは二つ目、三つ目に変わっている。 ふと、青年が言った。 「……少し、お腹、空きません?」 雪広は一瞬だけ間を置いた。その言葉の裏を読むほど、経験がないわけではない。 __誘いだ。 それも、余計な期待を抱かせない、分かりやすい種類の。 雪広は正直に答える。 「……空きました」 「よかった」 青年は、どこか安心したように、ほんのわずかに口元を緩めた。計算というより、確認に近い表情だ。 「うち、近いんです。よかったら、パン、食べていきません?」 誘いは軽い。 含みはあるが、条件はない。 後腐れがなく、面倒も残らない。 __悪くない。 「……少しだけなら」 そう答えた自分に、雪広はもう違和感を覚えなかった。 青年がグラスを置くのを見て、雪広もそれに倣った。 言葉は、もう要らない。 会計を済ませ、二人は席を立つ。店内に残るのは、氷の溶ける音だけだ。 扉を開けると、夜の空気が静かに流れ込んできた。 並んで外へ出る。 距離は近いが、触れない。 それで十分だった。 雪広は、この選択を悪くないと思いながら、青年の歩幅に合わせて、歩き出した。

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