25 / 28

温度7 暦 (理央)

定休日の今日は、朝早くからパンを焼いている。 試作を何度も重ねているパンが、 一つあった。 ブールやカンパーニュでは、少しシンプルすぎる。かといって、焼き菓子に近いパンは、今回のリクエストから外れている。 何度も生地を触り、配合を変え、焼き色を見ては首を傾げる。答えが出ないまま、時間だけが過ぎていった。 __きっかけは、店によく通ってくれる常連客だった。 ある日、その人が恋人を連れて、少しだけ緊張した様子で店に来てくれた。 「今度、結婚するんです」 そう言って、彼女は照れたように笑った。 小さな式を予定しているのだと、静かな声で話してくれる。 「式は、本当に少人数で」 少し間を置いてから、続ける。 「だから……引き出物も、ちゃんと好きなものを入れたくて。もしよければ、ここのパンを使わせてもらえたら、って思ったんです」 言葉を選ぶように一度視線を落とし、それから、また顔を上げて言った。 「ここのパンが、すごく好きなんです。来るたびに、つい同じのを選んでしまって」 そう言って、少しだけ照れたように笑う。 理央は、どのパンのことを言っているのか、すぐに分かった。 棚の前で、いちばん最初に手が伸びる。あの柔らかくて、ほのかに甘いパン。 その言葉に、思わず目を瞬かせる。 ちゃんと食べて、覚えてくれている。 可愛らしくて、でも、ほんの少し緊張の混じる声が、胸の奥に残った。 その日から、理央の頭の中には、ずっとその話があった。 特別な日のためのパン。 けれど、派手すぎず、重すぎず。 その日だけで終わってしまわないもの。 やさしい甘さで、誰にでも食べやすい。 でも、ただ美味しいだけじゃ足りない。 何度も生地に触れ、配合を変え、焼き時間を調整する。理央は、なめらかに伸びた生地を細い一本にし、両端をそっと交差させた。 指先で輪を作り、きゅっと、しかし力を入れすぎないように結ぶ。ほどけないように、けれど締めすぎないように。 ミルクブリオッシュ・ノット。 焼き上がったそれは、結び目がふっくらと浮かび、まるで最初からその形になると決まっていたみたいに、自然に収まっていた。 ほどけないように。 結ばれたあとも、続いていくように。 そんな願いを、言葉にせず、理央はただ、生地に触れる手の中に、静かに込めた。 定休日の店内は静かで、オーブンの余熱と、甘い匂いだけが残っている。 カウンターの向こうでは、すでに来ていた奏汰が、椅子に腰掛けてその様子を眺めていた。 定休日と奏汰の休みが重なると、こうして店に来て、試作をつまみながらおしゃべりをする。気づけば、それもすっかり習慣になっていた。 「……はい、できた。まだ温かいよ。食べてみて」 少しだけ照れながら差し出すと、奏汰はぱっと顔を明るくして受け取った。 「うわ、いい匂い。これが噂のやつ?」 ちぎって、一口、ほおばる。 「……あ、美味しい」 即答している。 「ふわってしてるのに、ちゃんと甘い。重くない…これ、何個でも食べられそう」 その言葉に、胸の奥がじんと温かくなる。 「よかった……」 思わず、小さく息を吐いた。 「引き出物にするって聞いてから、ずっと考えてたんだけどさ」 奏汰は、もう一口かじりながら、理央の言葉にこくこくと頷く。 「ちゃんと特別なんだけど、特別すぎないのがいいなって。結婚式の日だけのもの、って感じじゃなくて」 少し考えるように視線を落とし、それから、ふっと笑った。 「あとで思い出すときに、ああ、あの日だったなって、自然に思い出せる味がいいなって」 手元のパンに視線を落とし、指先で結び目をそっとなぞる。 「それにさ……これ、リボンみたい。水引みたいで、ちゃんとお祝いしてる感じがするよ」 奏汰がパンを持ち上げて、そう言う。 結び目は、水引を思わせるかたち。 ほどけないように、でも、固く縛りすぎないように。そんな思いを込めて作ったものだった。 理央は、少しだけ視線を落としてから、 照れたように、でもはっきりと口を開く。 「……そう言ってもらえると、嬉しい」 胸の奥に、じんわりとあたたかいものが広がっていく。 __大丈夫。これは、自信を持って出せる。そう思えた。 「このパンの名前って……なに?」 はふはふと頬張りながら、奏汰が聞く。 「これは『暦』。これから続いていく日々……人生の時間の積み重ねの始まりを祝う、って意味」 「ふぇ〜……すご。やっぱさ、ここのパンって、味だけじゃなくて名前にもちゃんと意味があるよね」 奏汰は感心したように言ってから、にっと笑う。 「そうやって名付けてもらえるの、嬉しいだろうな」 ふふ、と理央は肩をすくめた。 褒められるのは、やっぱり嬉しい。 しばらく二人で、焼きたてのパンを頬張る。 「……そういえばさ」 ふと思い出したように、奏汰が言った。 「雪広先生の家の冷蔵庫って、何かあるの?」 「えっ!? なんで……知ってるの?」 思わず声が裏返る。まさか、奏汰の口からその話題が出るとは思っていなかった。 「いや、詳しくは知らないよ?でもさ、たまーに司さんが、大量に食材もらって帰ってくるんだよね」 「そうなの……? 食材、渡してる……」 「うん。で、理由聞いたらさ、『雪広が愛ゆえに蓄えてしまうんだ』って言うから」 奏汰は首をかしげる。 「なんかあるのかなーって思って」 「………実は…ね」 少しだけ迷ってから、理央は口を開いた。 雪広の家の冷蔵庫は、いつもぎっしりだ。 そのたびに「助けてくれ」と呼ばれて、理央が確認しに行く。 食材が減る気配はなくて、全部使い切れることもない。 だから、ほとんど毎日のように、冷蔵庫チェックを理由に雪広の家に行っている。 「まさか……使いきれない分を司さんに渡してたなんて」 でも、と理央は首をひねる。 「だけど、また補充しちゃう。どうして、あんなに毎回パンパンにしちゃうんだろう。前は、ドリンク剤くらいしか入ってなかったのに……」 事情を説明し、ぽつりと呟くと、 「それさ……やば」 奏汰が、真顔になった。 「雪広先生、本気だわ」 「え……? なにが?」 「だからさ」 少し身を乗り出して、奏汰は言う。 「理央くんを離さないために、毎日、家に来る理由をわざと作ってるんだと思う」 「……え?」 奏汰曰く、 「まずさ、雪広先生って、必要ないことはしない人じゃん」 指を折りながら、楽しそうに続ける。 「食材を無駄に溜めるのも、本当は嫌いなはずだし。管理できない量を買うとか、効率悪すぎる。それって雪広先生らしくないよね?」 「……うん」 それは、理央もよく知っている。 「なのに、冷蔵庫は毎回パンパン。で、助けてって、理央くんを呼ぶ」 奏汰は、そこでにっと笑った。 「呼ばれたら、行くでしょ?」 「……行く、けど」 「でしょ。しかも、冷蔵庫チェックって理由なら、断りにくいし、自然だし」 パンをひとくちにちぎり、そう言い切る。 「つまりさ。来てほしい。でも、束縛っぽくはしたくない。だから、必要とされる状況を作ってるんだと思う」 理央は、言葉を失った。 「……」 「ほら、毎日会いたいとか言われたら重いでしょ?でも、食材使いきれないから来てなら、優しいお願いじゃん」 奏汰は、少し声を落とす。 「それ、かなり考えてるよ。理央くんの負担にならない範囲で、ちゃんと自分のそばに置く方法」 胸の奥が、きゅっ、と音を立てた。 「え……」 そういうことなのか…と考える。 毎日呼ばれる理由。 必要とされている感覚。 無理をさせない距離の取り方。 「……」 理央は思わず顔を伏せる。 頬が熱い。耳の先まで、じわじわと赤くなっていくのが、自分でも分かった。 「それって……」 声に出そうとして、途中で止まる。 奏汰が、やさしく微笑んだ。 「うん。めちゃくちゃ、大事にされてると思う」 その一言で、胸の奥がいっぱいになる。 「……」 理央は何も言えず、ただ小さく息を吐いた。照れ隠しみたいに、パンの端をちぎる。 「……そんなの……もう……」 ぽつりと零れた声に、奏汰がくすっと笑う。 「でしょ。雪広先生、静かに囲うタイプだと思う」 パンを口に運びながら、理央は胸の奥で思った。 雪広に__愛されてる。 それも、音を立てずに、逃げ道を消さないやり方で。 顔の熱は、まだ引かなかった。 「理央くんさ……この前、そろそろ一人暮らししなきゃって言ってたよね?」 「あ……うん。今は両親と一緒だから、そろそろ独立しないとなって」 「それさ……たぶん無理だよ」 さらっと言われて、理央は目を瞬かせる。 「今の話、聞いたあとだと、なおさら」 奏汰は、少し楽しそうに続けた。 「一人暮らしなんてしたらさ、雪広先生の囲い込み、もっと精度上がると思う」 「え……」 「帰る時間は減るし、そのうち家賃が無駄だとか、どうせここにいるだろとか言われてさ」 パンをぱくっと口に放り込みながら、次を手に取る。 「結果、一緒に住む流れになると思う」 「……」 理央は、何も言い返せなかった。 かなり前から、雪広には「一緒に住まないか」と言われている。負担になりたくなくて、ずっとはぐらかしてきたけれど。 「だからさ」 奏汰は、最後にぽつりと付け足す。 「一緒に住むまで、これは続くね」 理央は、パンを噛みしめながら、そっと思った。 たぶん、もう始まっている。この囲い込みも、この温度も。そして、悪くないと思ってしまっている自分も。 焼き台の上には、残ったミルクブリオッシュ・ノットが並んでいる。 結び目の丸みを、指先でそっとなぞる。 ほどけないように。 結ばれたあとも、続いていくように。 「……暦、か」 奏汰が、小さく呟いた。 「これから先の時間を祝うパン、だよね」 理央は、うなずいた。 特別な一日だけじゃなくて、その先に続く、何でもない日々のためのパン。 こうして誰かと並んで座って、パンを分け合って。笑って、少し照れて。そんな時間も、ちゃんと積み重なっていく。 これも、暦の一日。 理央は、もう一度パンに触れた。 これから増えていく日々を、ひとつずつ数えるみたいに。静かで、あたたかい時間だった。

ともだちにシェアしよう!