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温度7 暦 (理央)
定休日の今日は、朝早くからパンを焼いている。
試作を何度も重ねているパンが、
一つあった。
ブールやカンパーニュでは、少しシンプルすぎる。かといって、焼き菓子に近いパンは、今回のリクエストから外れている。
何度も生地を触り、配合を変え、焼き色を見ては首を傾げる。答えが出ないまま、時間だけが過ぎていった。
__きっかけは、店によく通ってくれる常連客だった。
ある日、その人が恋人を連れて、少しだけ緊張した様子で店に来てくれた。
「今度、結婚するんです」
そう言って、彼女は照れたように笑った。
小さな式を予定しているのだと、静かな声で話してくれる。
「式は、本当に少人数で」
少し間を置いてから、続ける。
「だから……引き出物も、ちゃんと好きなものを入れたくて。もしよければ、ここのパンを使わせてもらえたら、って思ったんです」
言葉を選ぶように一度視線を落とし、それから、また顔を上げて言った。
「ここのパンが、すごく好きなんです。来るたびに、つい同じのを選んでしまって」
そう言って、少しだけ照れたように笑う。
理央は、どのパンのことを言っているのか、すぐに分かった。
棚の前で、いちばん最初に手が伸びる。あの柔らかくて、ほのかに甘いパン。
その言葉に、思わず目を瞬かせる。
ちゃんと食べて、覚えてくれている。
可愛らしくて、でも、ほんの少し緊張の混じる声が、胸の奥に残った。
その日から、理央の頭の中には、ずっとその話があった。
特別な日のためのパン。
けれど、派手すぎず、重すぎず。
その日だけで終わってしまわないもの。
やさしい甘さで、誰にでも食べやすい。
でも、ただ美味しいだけじゃ足りない。
何度も生地に触れ、配合を変え、焼き時間を調整する。理央は、なめらかに伸びた生地を細い一本にし、両端をそっと交差させた。
指先で輪を作り、きゅっと、しかし力を入れすぎないように結ぶ。ほどけないように、けれど締めすぎないように。
ミルクブリオッシュ・ノット。
焼き上がったそれは、結び目がふっくらと浮かび、まるで最初からその形になると決まっていたみたいに、自然に収まっていた。
ほどけないように。
結ばれたあとも、続いていくように。
そんな願いを、言葉にせず、理央はただ、生地に触れる手の中に、静かに込めた。
定休日の店内は静かで、オーブンの余熱と、甘い匂いだけが残っている。
カウンターの向こうでは、すでに来ていた奏汰が、椅子に腰掛けてその様子を眺めていた。
定休日と奏汰の休みが重なると、こうして店に来て、試作をつまみながらおしゃべりをする。気づけば、それもすっかり習慣になっていた。
「……はい、できた。まだ温かいよ。食べてみて」
少しだけ照れながら差し出すと、奏汰はぱっと顔を明るくして受け取った。
「うわ、いい匂い。これが噂のやつ?」
ちぎって、一口、ほおばる。
「……あ、美味しい」
即答している。
「ふわってしてるのに、ちゃんと甘い。重くない…これ、何個でも食べられそう」
その言葉に、胸の奥がじんと温かくなる。
「よかった……」
思わず、小さく息を吐いた。
「引き出物にするって聞いてから、ずっと考えてたんだけどさ」
奏汰は、もう一口かじりながら、理央の言葉にこくこくと頷く。
「ちゃんと特別なんだけど、特別すぎないのがいいなって。結婚式の日だけのもの、って感じじゃなくて」
少し考えるように視線を落とし、それから、ふっと笑った。
「あとで思い出すときに、ああ、あの日だったなって、自然に思い出せる味がいいなって」
手元のパンに視線を落とし、指先で結び目をそっとなぞる。
「それにさ……これ、リボンみたい。水引みたいで、ちゃんとお祝いしてる感じがするよ」
奏汰がパンを持ち上げて、そう言う。
結び目は、水引を思わせるかたち。
ほどけないように、でも、固く縛りすぎないように。そんな思いを込めて作ったものだった。
理央は、少しだけ視線を落としてから、
照れたように、でもはっきりと口を開く。
「……そう言ってもらえると、嬉しい」
胸の奥に、じんわりとあたたかいものが広がっていく。
__大丈夫。これは、自信を持って出せる。そう思えた。
「このパンの名前って……なに?」
はふはふと頬張りながら、奏汰が聞く。
「これは『暦』。これから続いていく日々……人生の時間の積み重ねの始まりを祝う、って意味」
「ふぇ〜……すご。やっぱさ、ここのパンって、味だけじゃなくて名前にもちゃんと意味があるよね」
奏汰は感心したように言ってから、にっと笑う。
「そうやって名付けてもらえるの、嬉しいだろうな」
ふふ、と理央は肩をすくめた。
褒められるのは、やっぱり嬉しい。
しばらく二人で、焼きたてのパンを頬張る。
「……そういえばさ」
ふと思い出したように、奏汰が言った。
「雪広先生の家の冷蔵庫って、何かあるの?」
「えっ!? なんで……知ってるの?」
思わず声が裏返る。まさか、奏汰の口からその話題が出るとは思っていなかった。
「いや、詳しくは知らないよ?でもさ、たまーに司さんが、大量に食材もらって帰ってくるんだよね」
「そうなの……? 食材、渡してる……」
「うん。で、理由聞いたらさ、『雪広が愛ゆえに蓄えてしまうんだ』って言うから」
奏汰は首をかしげる。
「なんかあるのかなーって思って」
「………実は…ね」
少しだけ迷ってから、理央は口を開いた。
雪広の家の冷蔵庫は、いつもぎっしりだ。
そのたびに「助けてくれ」と呼ばれて、理央が確認しに行く。
食材が減る気配はなくて、全部使い切れることもない。
だから、ほとんど毎日のように、冷蔵庫チェックを理由に雪広の家に行っている。
「まさか……使いきれない分を司さんに渡してたなんて」
でも、と理央は首をひねる。
「だけど、また補充しちゃう。どうして、あんなに毎回パンパンにしちゃうんだろう。前は、ドリンク剤くらいしか入ってなかったのに……」
事情を説明し、ぽつりと呟くと、
「それさ……やば」
奏汰が、真顔になった。
「雪広先生、本気だわ」
「え……? なにが?」
「だからさ」
少し身を乗り出して、奏汰は言う。
「理央くんを離さないために、毎日、家に来る理由をわざと作ってるんだと思う」
「……え?」
奏汰曰く、
「まずさ、雪広先生って、必要ないことはしない人じゃん」
指を折りながら、楽しそうに続ける。
「食材を無駄に溜めるのも、本当は嫌いなはずだし。管理できない量を買うとか、効率悪すぎる。それって雪広先生らしくないよね?」
「……うん」
それは、理央もよく知っている。
「なのに、冷蔵庫は毎回パンパン。で、助けてって、理央くんを呼ぶ」
奏汰は、そこでにっと笑った。
「呼ばれたら、行くでしょ?」
「……行く、けど」
「でしょ。しかも、冷蔵庫チェックって理由なら、断りにくいし、自然だし」
パンをひとくちにちぎり、そう言い切る。
「つまりさ。来てほしい。でも、束縛っぽくはしたくない。だから、必要とされる状況を作ってるんだと思う」
理央は、言葉を失った。
「……」
「ほら、毎日会いたいとか言われたら重いでしょ?でも、食材使いきれないから来てなら、優しいお願いじゃん」
奏汰は、少し声を落とす。
「それ、かなり考えてるよ。理央くんの負担にならない範囲で、ちゃんと自分のそばに置く方法」
胸の奥が、きゅっ、と音を立てた。
「え……」
そういうことなのか…と考える。
毎日呼ばれる理由。
必要とされている感覚。
無理をさせない距離の取り方。
「……」
理央は思わず顔を伏せる。
頬が熱い。耳の先まで、じわじわと赤くなっていくのが、自分でも分かった。
「それって……」
声に出そうとして、途中で止まる。
奏汰が、やさしく微笑んだ。
「うん。めちゃくちゃ、大事にされてると思う」
その一言で、胸の奥がいっぱいになる。
「……」
理央は何も言えず、ただ小さく息を吐いた。照れ隠しみたいに、パンの端をちぎる。
「……そんなの……もう……」
ぽつりと零れた声に、奏汰がくすっと笑う。
「でしょ。雪広先生、静かに囲うタイプだと思う」
パンを口に運びながら、理央は胸の奥で思った。
雪広に__愛されてる。
それも、音を立てずに、逃げ道を消さないやり方で。
顔の熱は、まだ引かなかった。
「理央くんさ……この前、そろそろ一人暮らししなきゃって言ってたよね?」
「あ……うん。今は両親と一緒だから、そろそろ独立しないとなって」
「それさ……たぶん無理だよ」
さらっと言われて、理央は目を瞬かせる。
「今の話、聞いたあとだと、なおさら」
奏汰は、少し楽しそうに続けた。
「一人暮らしなんてしたらさ、雪広先生の囲い込み、もっと精度上がると思う」
「え……」
「帰る時間は減るし、そのうち家賃が無駄だとか、どうせここにいるだろとか言われてさ」
パンをぱくっと口に放り込みながら、次を手に取る。
「結果、一緒に住む流れになると思う」
「……」
理央は、何も言い返せなかった。
かなり前から、雪広には「一緒に住まないか」と言われている。負担になりたくなくて、ずっとはぐらかしてきたけれど。
「だからさ」
奏汰は、最後にぽつりと付け足す。
「一緒に住むまで、これは続くね」
理央は、パンを噛みしめながら、そっと思った。
たぶん、もう始まっている。この囲い込みも、この温度も。そして、悪くないと思ってしまっている自分も。
焼き台の上には、残ったミルクブリオッシュ・ノットが並んでいる。
結び目の丸みを、指先でそっとなぞる。
ほどけないように。
結ばれたあとも、続いていくように。
「……暦、か」
奏汰が、小さく呟いた。
「これから先の時間を祝うパン、だよね」
理央は、うなずいた。
特別な一日だけじゃなくて、その先に続く、何でもない日々のためのパン。
こうして誰かと並んで座って、パンを分け合って。笑って、少し照れて。そんな時間も、ちゃんと積み重なっていく。
これも、暦の一日。
理央は、もう一度パンに触れた。
これから増えていく日々を、ひとつずつ数えるみたいに。静かで、あたたかい時間だった。
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