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温度8 夜明け (雪広)

「食べ物に罪はない」 冷蔵庫の前で、司が妙に真剣な顔をして言う。 「だからってさ……お前、これ、いつまで続けるつもりだよ」 扉の内側を覗き込み、賞味期限が迫ったものを次々と取り出して、エコバッグに放り込んでいく。 「毎日毎日、やり過ぎ。完全に供給過多だろ」 「理央が来る理由になるだろ」 雪広は悪びれもせず、淡々と答えた。 「仕方ないことだ」 その横で、何事もないように、続けて食材を司は手に取る。まだ封も切っていない肉。野菜。果物。 司は手を止めて、じっとそれらを見る。 「……なあ。また、新しいの、届くんだろ」 「届く」 雪広は迷いなく答える。 「今日、この後届く予定だ」 コンシェルジュに、保冷箱に入った野菜と、丁寧に梱包された肉の箱が届く予定になっている。鮮度管理まで指定した、いつもの業者だ。 「来る前提なんだな」 司は半笑いで首を振った。 「お前さ、俺が料理できるから引き取らせてるだけで、本当は何も解決してねぇからな?」 雪広は開いたままの冷蔵庫に視線を向けた。さっきまで詰まっていた棚には、ぽつぽつと空白ができている。司が袋に詰めて持ち出した分だけ、きれいに抜けた跡。 雪広は、その空間を一瞬だけ見つめてから、扉に手をかけたまま言う。 「だけど、お前なら、どんな食材でも無駄にしないだろ?」 「そこ褒められても嬉しくねぇわ」 袋を持ち上げ、重さを確かめてから、司はため息混じりに続ける。 「いいか? これは調整じゃなくて延命だ。愛ゆえに蓄えるのは分かるけど、そろそろ根本的にどうにかしろ」 「ああ……わかってる。ただ、今はそれが最適解だと判断している」 「ほらな」 司は、にやりと口角を上げる。 「仕事の判断は完璧なのに、恋愛になると途端に遠回りだ。雪広」 「静かに囲って、逃げ道残してるつもりかもしれないけどさ。理央くん、思った以上に手強いぞ?」 雪広は一瞬だけ、言葉を選ぶように視線を落とした。 「……だからこそだ」 司は吹き出した。 「はいはい。ほんと、合理性の塊が一番非合理なことしてるわ」 バッグを肩に担ぎ、振り返りざまに言う。 「ま、引き取るけどな。食べ物に罪はないし、お前の恋路も、見捨てる気はねぇから」 冷蔵庫の扉が閉まり、袋を提げた司は玄関へ向かった。 「司、これも持っていってくれ」 差し出したのは、昨日理央から受け取ったパンだった。 昨日は少し多めに持ってきてくれていて、食べきれずに残っていたものだ。 「おっ、パンか。理央くんのだよな。なんて名前?」 「『夜明け』だ。酒に合う。ワインでもいい」 司は袋を覗き込み、ふっと笑う。 「『夜明け』ね……眠れない夜のあとでも、ちゃんと朝は来る、ってやつか」 少し皮肉めいた口調で言ってから、肩をすくめた。 「じゃあな。次は引き取りじゃなくて、ちゃんと解決してから呼べよ」 そう言い残し、振り返りもせずに軽く手を振って、司はそのまま出ていった。 ◇ 「雪広さん……帰ってたんですね。早かったですね」 玄関の方から、少し驚いた声が聞こえる。 雪広はソファから立ち上がり、そのまま理央を迎えに行った。 「おかえり」 「た……だいま……」 腕を伸ばして抱き寄せると、理央は小さく息を吸ってから身を預けてくる。最近は、照れながらもきちんと「ただいま」と言ってくれるようになった。 軽くキスを落とし、名残惜しく離れると、理央はそのままキッチンへ向かう。 冷蔵庫の前で、しばらく言葉を失っていた。 中は、昨日より明らかに整理されている。 賞味期限の近いものは姿を消し、棚には一度、きれいな余白が作られた痕跡があった。 けれど。 その余白は、すでに埋められている。 新しく入れられた野菜。丁寧に包まれた肉のトレー。まだ触れられていない、冷たいままの食材たち。 一度、減らした。 その直後に、補充された。 計画通り、とでも言うような配置だった。 理央は、もう気づいているだろう。 けれど何も言わず、冷蔵庫の扉をそっと閉め、一度、深く息を吸った。 「……さあ」 声は、いつもと変わらない。 「ご飯、作りますね」 そう言って、エプロンを取る。包丁とまな板を出し、流れるように準備を始める。 雪広も、何も言わないまま、その隣に立った。袖をまくり、野菜を洗う。 しばらくは、包丁の音と水の音だけがキッチンに響いていた。 その沈黙を、理央が破った。 「……司さんに、食材、渡しましたね?」 責めるでも、探るでもない。 事実を確認するだけの、静かな声だった。 司に渡したことを理央は知っている。 雪広の手が、一瞬止まった。 「……ああ」 間があったのは、嘘を探したからじゃない。どう言えばいいか、迷ったからだ。 「期限が近いものをな。無駄にしたくなかった」 「ですよね」 理央は、包丁を動かしたまま、穏やかに続ける。 「最近……わかってきたかも…」 雪広は、ちらりと隣を見た。 「雪広さんが、どうして冷蔵庫をあんなふうにしてるのか」 胸の奥が、少しだけざわついた。 「……それは」 言いかけて、雪広は言葉を飲み込んだ。 ここで誤魔化すのは、もう違う気がした。 理央は、火をつけながら、続ける。 「僕、一人暮らししようとしてたんです」 その言葉に、雪広の動きが完全に止まった。 「……何だって?」 理央はフライパンを温めながら、こちらを見ずに続ける。 「パン屋も落ち着いてきましたし、いつまでも両親に甘えられないなって」 油の温度を確かめる仕草が、いつも通りだ。特別なことを言っているつもりはないのだろう。 だが__胸の奥で、何かが静かに崩れた。 「それで……でも、最近思ったんです」 理央はフライパンから手を離し、少し遅れて、こちらを振り返った。 「たぶん、一人暮らししても、今のままだと……」 小さく笑った。 「雪広さんの冷蔵庫、絶対またパンパンになるな、って」 その言葉に、雪広は返す言葉を失った。 理央が一人暮らしを考えていたなんて、知らなかった。自分が、回りくどく理由を作り続けてきたせいだろうか。 理央が離れていくかもしれない__ その可能性を突きつけられて、初めて胸がざわついた。 どうすればいい。 どう言えばいい。 必死になっている自分に、雪広自身が一番驚いていた。こんなふうに、誰かを失いたくないと強く思ったことは、これまで一度もない。 合理性も、計算も、全部後回しにして。 ただ、失いたくなかった。 雪広は、深く息を吸った。 「……理央。俺は、君が好きだ」 声は、いつもより少し低い。 「冷蔵庫を埋めたのも、君が来る理由を作ったのも……全部、ここにいてくれる時間が欲しかったからだ」 一度、言葉を噛み締めた。 そして、ほんのわずかに口元を緩める。 「格好悪いだろうな。自分でもそう思う」 視線を逸らさず、続ける。 「君に負担をかけていたなら、それは俺の落ち度だ。毎日一緒にいたい、そばにいてほしい……その気持ちだけで動いていた。エゴだった。すまない」 けれど、と小さく息を吐く。 「それでも……もう、格好はつけられない」 声が、わずかに熱を帯びた。 「今の俺は、自分でも驚くほど必死だ。計算も合理性も関係ない。ただ、君を失いたくない」 はっきりと、言い切った。 「俺は、君と一生、一緒に暮らしたい」 回りくどい言葉は、使わなかった。 「君の生活を縛るつもりはない。選択肢を奪う気もない。それでも……できるなら、同じ場所で、同じ時間を生きていきたい」 静かで、真剣な告白だった。 理央は、少しだけ考えるように視線を落とし、それから、ふっと表情を緩めた。 「……そうですね」 火加減を調整しながら、笑う。 「たぶん、僕が一人暮らししても、結局ここに来ちゃうと思います」 「雪広さんの冷蔵庫、放っておけないですし」 そして、雪広を見る。 「だから」 雪広を見つめ、ふわっと理央が笑った。 「……はい。一緒に暮らしてください」 胸の奥が、じんわりと温かくなる。 「きっと、初めてのことがたくさん続きますけど」 照れたように、少しだけ視線を逸らす。 「よろしくお願いします」 雪広は、言葉を失ったまま、理央を見つめた。 こんなふうに、人生の選択を誰かと共有する日が来るなんて。静かに、でも確かに、世界が変わった気がした。 雪広は、ゆっくりと理央を抱き寄せる。 「……こちらこそ」 耳元で、低く言った。 「よろしく頼む。理央」 キッチンに、火の音と、二人分の呼吸が重なっていた。

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