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温度9 やっぱり…好きな人 (理央)

今日から三日間、雪広と休みが重なる。 その一日目にして、少し、羽目を外してしまった。 「理央、味見してくれないか……起きれるか?」 ベッドに沈められたままの理央を、シーツごと包み込むようにして、雪広が抱き上げる。 「ゆ、雪広さん……降ろして。歩けるから」 「……ああ」 そう返事はするのに、降ろしてくれない。 そのまま運ばれて、リビングのソファにそっと座らされた。 外からの光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。眩しくて、あたたかくて、今日はきっといい天気だ。 キッチンに立つ雪広の背中を、ぼんやり眺める。 「お腹、空いてるだろ」 振り返らずに、雪広が言う。 「スープと、サラダ。それと……」 鍋の火を弱めてから、少し考えるように間を置く。 「卵も焼いた。理央が好きだろ」 その言い方が、当たり前みたいで、胸の奥がくすぐったくなる。 雪広と一緒に暮らし始めてから、雪広は料理をよくするようになった。 理央と並んで台所に立ち、少しずつ覚えていったものだ。 野菜の切り方。 スープの火加減。 卵は、焼きすぎないこと。 雪広は、味見と言ったけれど、それはもう、十分すぎるほど、ちゃんとした食事だった。 今日のパンは、やっぱり『好きな人』。 理央の好みに合わせて、ほんのりとトーストしてある。 雪広の手から、口元へ運ばれる。 「……自分で食べられますよ」 そう言っても、雪広は相変わらず「ああ」とだけ答えて、動じない。 聞く気があるのかないのか分からないまま、また一口分を差し出してくる。 過保護だと思う。 でも、その仕草に悪意なんて一つもなくて、ただ、大事にしたい、という気持ちだけが見える。 理央は、抵抗するのをやめて、素直に口を開けた。 パンのやさしい甘さが広がる。 その様子を見て、少しだけ満足そうに目を細める雪広に、理央は思わず、くすっと笑ってしまった。 「……明日、スーパー行かないと……ですよね」 ぽつりとそう言うと、雪広がこちらを見る。 理央がここに住むようになってから、冷蔵庫が必要以上にパンパンになることはなくなった。その代わり、足りなくなりそうになると、 「一緒にスーパーに行きたいです」 と、理央のほうからお願いするようになった。 だから、今の冷蔵庫の中身は、そろそろ少なくなっているはずだ。 「俺が、今から行ってこようか」 「ううん、いい。一緒に行きたい」 理央は笑って、即答した。 雪広と出かけること。それ自体が、まだ少し特別で、どこへ行くのも楽しい。 スーパーだって同じだ。並んで歩いて、何を買うか話して、たわいもないことで笑う。それだけで、十分だった。 「……確かに、スーパーは楽しいな」 雪広も、嫌そうではない。 少し考えるように間を置いてから、静かに尋ねてくる。 「だが……外で、手を繋ぐのは、まだ抵抗があるか?」 その一言で、胸がきゅっとなる。 最近は、二人で出かけることも増えた。 いわゆる、デートだ。 理央は、そのたびにワクワクして、同時にドキドキしている。そんな状態で、外で手を繋ぐなんて……心臓が、もたない。 「…ドキドキしちゃうから…外では、まだ」 正直にそう言うと、雪広は小さく笑った。 「そうか」 以前も、同じようなことを聞かれたことがある。そのとき、雪広は少しだけ考えてから、こう言った。 「家の中なら、いいか?」 「……家の中なら……いいですけど」 軽く答えたつもりだった。 その結果。 家の中では、完全に振り切れている。 手を繋ぐ。 抱き上げる。 一緒に風呂に入る。 あらゆる場所で、遠慮なくキスをする。 それに、スーパーからの帰り道。 車の中で、雪広は突然、 「キスがしたい」 と、真顔で言い出すこともある。 そして、何事もないように続ける。 「だから、家に帰ろう」 雪広の言い方は、いつも変わらない。 無駄を省いた、まっすぐな言葉。 でも、 「キスがしたい」 「手を繋ぎたい」 「君が好きだ」 本人に自覚はないのだろうけれど、その一つ一つが、やけに甘くて。 理央は、そのたびに顔が熱くなって、視線を逸らしてしまう。 「……大丈夫か?」 そうやって少し不思議そうに心配されるたびに、ますます赤くなるのだから、どうしようもない。 理央がそんなことを思っていると、雪広はふっと息をつき、テーブルの上に視線を落とした。 丸く、焼き色のついたブール。 余計な飾りのない、正直なパン。 「やっぱり俺は、これが一番好きだ」 「『好きな人』ですか?」 雪広はブールをちぎり、自然な仕草で理央の口元へ運ぶ。 理央が受け取るのを確認してから、残りを自分の口に放り込んだ。 その仕草が、あまりにも自然で。 理央の胸の奥が、静かに揺れた。 そういえば。 ふと、思い出す。 以前、雪広に聞いたことがあった。 「雪広さんのタイプって、どんな人なんですか」と。 自分とかけ離れていたらどうしよう、という不安が先に立っていたけれど、それでも聞いてみたかった。 少し考える素振りもなく、雪広は言った。 「俺の好きな人は、理央だ」 あまりに即答で、意味がうまく飲み込めなかった。 「……だから、タイプも理央なんだろう」 よく分からなくて、もう一度だけ聞き返した。一般的な話としてのタイプが知りたかったのだと。 すると、今度は少しだけ言葉を足すように、雪広は続けた。 「そもそも、タイプなんてものはなかった。君に会ってから、全部上書きされている」 当時は、どういうことなのか分からなかった。あまりにも合理性がなくて、説明が足りなくて。 でも今なら、少しだけ分かる。 条件や理想が先にあったわけじゃない。 出会って、惹かれて、必要になって…… その結果として、好きが形を作ったのだ。 思い出して、理央は小さく息を吐く。 ……ほんとに、不器用だ。 でも、その不器用さが、今はもう、どうしようもなく愛おしかった。 理央は、テーブルの上のブールに視線を落とす。焼き色のついた丸い形。余計なもののない、まっすぐなパン。 雪広の手で、もう一度ちぎられたそれが、そっと差し出される。 何も言わずに、口に運ぶ。 噛むほどに、素朴な甘さが広がる。 派手さはないのに、安心する味。 正直で、誤魔化しがなくて。 考えすぎず、ただ「好きだ」と伝えてくるところも。 ……やっぱり、似てる。 胸の奥でそう思って、理央は小さく笑った。 「僕の……好きな人は」 一瞬、言葉を探すように視線を落とす。 「……派手じゃなくて。嘘をつかなくて。ちゃんと、まっすぐで」 パンを噛みしめながら、ゆっくり続ける。 「考えすぎるくらい考えて、不器用なくらい真剣で……でも、決めたら逃げない人」 ブールの白い断面を見る。 「だから、このパンと同じなんです」 少し照れたように、でも誤魔化さずに。 「余計な味を足さなくていい。ちゃんと噛むと、ちゃんと美味しい」 顔を上げて、雪広を見る。 「……正直で、まっすぐなところが」 小さく息を吸ってから、言った。 「それが、好きな人です」 直接名前は呼ばなかった。 でも、それ以上に、はっきり伝わる言葉だった。 雪広は何も言わず、しばらく理央を見つめていたが、やがて、静かにブールをもう一口ちぎる。 「……なら」 低い声で、確かめるように。 「俺は、そのパンを選び続けていいな?」 理央は、少しだけ恥ずかしそうに笑って、 「……はい」 と、小さく頷いた。 雪広は、何かを確かめるように、理央の頬に手を伸ばす。触れるか触れないかの距離で、止まって 「……理央」 と、名前を呼びキスをした。 好きな人のその声は、いつもより少しだけ低くて、少しだけ、柔らかかった。 雪広は理央の額に、そっと額を寄せた。 「……三日間だな」 ぽつりと、独り言みたいに言う。 「休みが重なるのは」 理央は、くすっと笑って答えた。 「……はい」 「なら」 雪広の指が、理央の指先に触れる。絡めるほどではない、でも、離す気もない。 「この三日間は」 静かに続けた。 「……できるだけ、君の好きなことをしよう」 理央は、驚いて目を瞬かせた。 「……好きなこと、ですか?」 「ああ」 その言葉に、理央の胸の奥が、じんわりと熱くなる。 ブールの残りを、もう一口かじる。 やさしくて、まっすぐな甘さ。 理央は、雪広の肩に、そっと額を預けた。 「……じゃあ、まずは」 小さく、でも確かに言う。 「……手、繋ぎませんか。家の中で」 雪広は、一瞬だけ目を見開き、それから、ゆっくりと口元を緩めた。 「……ああ。それから…?」 指を絡める。 迷いは、なかった。 「……それから…」 窓の外には、変わらない朝の光。 特別なことは、何も起きていない。 でも、好きな人と過ごす時間が、当たり前になっていく。 それが、いちばん贅沢だった。

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