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番外編

一戸建ての話を出したのは、勢いだった。 理央の店に近い場所。 通いやすくて、生活もしやすい。 一緒に暮らすなら、悪くない。 理央と付き合いだしてから、ずっと考えていることだ。 そう思って、口にした。 「……近くに、土地が出ていてな」 理央が、ぴくりと反応して、視線を上げた。 「……俺はな」 雪広は一度、息を整えてから言った。 「家を建てようと思ってる」 理央の視線が、ゆっくりと雪広に向いた。 「理央と、一緒に暮らす家だ」 言い切ったあと、雪広は視線を逸らさない。 「今すぐじゃなくてもいい。急がせるつもりもない」 「ただ……俺は、そうしたいと思ってる」 理央は、一瞬だけ驚いたように目を瞬かせてから、少し困ったように笑った。 「土地、ですか……」 否定ではない。だが、間があった。 「土地って……高いですよね」 理央は、言葉を選ぶように続ける。 「それに……」 少し視線を落としてから、ぽつりと。 「今、僕……家賃、払ってないじゃないですか」 雪広の胸に、静かに刺さる。 そうだ。ここに住むようになってから、理央は家賃を払っていない。食材も、光熱費も、ほとんどが雪広持ちだ。 雪広にとっては、問題ではなかった。だが、理央にとっては、違うようだ。 「今の生活、すごく助かってます」 理央は、慌てて付け足すように言う。 「本当に。雪広さんが用意してくれてるのも、分かってます」 それから、小さく息を吸った。 「でも……このまま甘えてるままで、一戸建て、ってなると……」 言葉を濁したが、意味は十分すぎるほど伝わった。 __また一つ、雪広の中に悩みが増えた。 どうすれば、与える側にならずに、並べるのか。どうすれば、理央の自尊心を削らずに、未来を選べるのか。 答えが出ないまま、雪広は司を呼んだ。 夜の街に出るのは久しぶりだった。 静かなバーのカウンター。 照明は低く、グラスの縁だけが淡く光っている。ウイスキーの氷が、ゆっくり溶ける音がした。 「……で?」 話を一通り聞き終えた司は、ウイスキーを一口飲んでから、にやりと口元を歪めた。 「悩んでんの、そこ?」 雪広はグラスを手にしたまま、目を伏せる。 「真面目に聞いている」 「いや、真面目なのは分かるけどさ」 司は肩を揺らして笑う。 氷が、軽く鳴った。 「お前、それ完全に初恋の悩みだからな?」 「……違う」 雪広は即座に否定する。 「同じだよ」 面白そうに、即答した。 司は、指先でカウンターを軽く叩きながら続ける。 「今までのお前はさ」 司は指を折る。 「金はある。環境は整えられる。合理的に最適解を出せる」 「だから、全部、用意してやる側で生きてきた」 そこで、ちらりと雪広を見る。 視線は鋭いが、どこか楽しそうだ。 「でも今回は違う」 「理央くんは、並びたいって言ってんだろ」 司の声が、少しだけ真面目になる。笑いが消え、低く落ち着いた響きに変わった。 「守ってほしいんじゃなくて、甘えたいんでもなくて、対等でいたいって」 雪広は、グラスの中の琥珀色を見つめたまま、言い返せなかった。 「それな」 司は、また笑った。 今度は、少しだけ柔らかい笑いだ。 「めちゃくちゃ健全だぞ? 健気だしな」 「お前が初めて、金も肩書も使えない口説きに出くわしてるだけ」 雪広は、短く息を吐く。 「どうすればいい」 声は低く、端的だった。 「お前がやるべきなのは、全部背負うことじゃねぇ」 司はグラスを置き、雪広のほうを向く。 「一緒に背負うって認めること」 氷が溶け、グラスの中で小さく音を立てる。 雪広は、ゆっくり息を吐いた。 「……俺は、守るつもりでいた」 「だろうな」 司は笑う。その笑いに、責める色はない。 「でもさ、それ、もう恋人じゃなくて、庇護なんだよ」 「理央くんは、弱いから一歩引いてるんじゃねぇだろ?」 司は、はっきり言った。 「健気にさ、同じ位置に立とうとしてるんだよ」 沈黙を作った… バーの奥で、グラスを拭く音が微かに聞こえる。雪広は、視線を落とした。 確かに。急ぎすぎたのは、自分だろう。 「なあ、雪広」 司は、最後に少しだけ声を落とす。 「お前さ」 「今までで一番、まともな恋してるぞ」 雪広は、苦笑した。 自嘲とも、照れともつかない表情だった。 「……笑うな」 「無理」 司は即答する。 「だってさ、お前が悩んでるんだ。しかも悩みがそれだろ?最高じゃん」 司はウイスキーを飲み干し、グラスを置く。 笑われた。 だが、不思議と嫌ではなかった。 ◇ 「……司に」 少し間を置いてから、雪広は切り出した。 「相談した」 キッチンの片隅。 理央は、まな板の上で野菜を切る手を止めず、ただ耳を傾けている。 「………そう言われた」 司に言われた言葉を、できるだけそのままなぞるように話す。 与える側でいること。 並ぶこと。 対等でいる、ということ。 言い終える頃には、雪広は珍しく視線を落としていた。 「……俺は」 一度、息を吸う。 「仕事でも…なんでも、こうするのが、たぶん、癖なんだと思う」 自分でも苦笑する。 「守れる立場でいた方が楽だった。与える側でいれば、失敗しない」 理央のほうを見る。 「でも……理央の前では、それが通じない」 声が、少しだけ低くなる。 「土地の話もな。正直に言うと、今すぐにでも買いたいと思ってる」 理央が、包丁を置いた。 「……うん」 「でも、それを言えば、君は引くだろうとも思った」 そこで、言葉が止まる。 「……嫌われるかもしれない、とか」 理央の眉が、きゅっと下がった。 「雪広さん」 真っ直ぐに見つめ、困ったみたいに笑う。 「ほんと、そういうところ」 責めるでもなく、呆れるでもなく。 どこか、愛おしそうな声だった。 「嫌いになるわけないじゃないですか」 雪広の胸が、わずかにざわつく。 「……そう、なのか?」 真剣に聞くその顔に、理央は思わず、ふっと息を漏らした。 「もう」 小さく首を振る。 「雪広さんって、頭いいのに、こういうときだけ極端なんだから」 一歩近づいて、雪広の袖を、きゅっと掴む。 「嫌われるかも、なんて考える前に……」 少しだけ、照れたように視線を逸らしてから、続けた。 「ちゃんと一緒に考えようって言ってくれたら、それでいいのに」 雪広は、何も言えなかった。 理央は、その沈黙を責めずに、にこっと笑う。 「だから」 指先に、少し力を込める。 「一戸建ての話も……ゆっくりでいいと思う」 雪広が、息を詰める。 「……ゆっくり?」 「はい」 はっきり、でも柔らかく。 「二人で、考えていきましょう」 その言葉に、胸の奥がじん、と熱くなる。 「場所とか。タイミングとか。お金のこととか」 理央は指を折りながら言う。 「雪広さんが前のめりなのも、分かります」 ちらっと見上げて、微笑む。 「でも、僕も……ちゃんと隣に並びたいから」 その一言で、雪広の中の何かが、すとんと落ちた。 与える側でも、守る側でもなく。 隣に立つ、という選択。 「……理央」 名前を呼ぶと、理央は少し照れたように笑った。 「仕方ないなぁって顔してますよね、今」 「……しているな」 自覚があった。 「でも」 理央は、もう一歩近づいて、雪広の胸に額を軽く預ける。 「その顔、嫌いじゃないです」 雪広の手が、そっと理央の背中に回る。 「……俺は」 声が、低く柔らかい。 「理央の前では、どうも格好がつかない」 「それでいいです」 即答だった。 「そのままでいてください」 しばらく、言葉はなかった。 ただ、腕の中の温もりだけが確かだった。 雪広は、もう少しだけ強く、理央を抱き寄せた。 キッチンの時計が、小さく時を刻む。 「じゃあ」 理央が顔を上げる。 「まずは……」 少し考えてから、にこっと笑う。 「どんな家にしたいか、話すところからですね」 雪広は、ゆっくり頷いた。 「ああ」 指先が、理央の手を探して絡める。 「……二人で」 初めて、未来の話を__ 同じ速度で、同じ目線で、始められた気がしていた。

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