10 / 24

第10話

「ねえ、誰か名簿を知らないかい?」  瑠生と里菊が台所でくつろいでいると、和室から桔梗の声がした。 「お母さん、どうしたの?」  里菊が腰を上げて声をかけたから、瑠生も一緒について行く。 「ここに入れてあった名簿がないんだよ」 「名簿って、顧客名簿のこと? 誰もそんなところ触らないと思うけど……ねえ、瑠生」  同意を求められ、瑠生は大きく頷いた。 「おかしいねぇ、どこを探してもないんだよ」 「椿姐さんが持ってるとか? 俺、聞いてくるよ」  踵を返すと、すぐ後ろに椿が立っていた。話を聞いていたのか、持ってないわよと、心配そうな表情になった。 「紙の管理はこういうときに困るね。こんなことなら、瑠生にパソコンで作り直してもらっときゃよかったよ」  以前、顧客名簿を桔梗が見ていたときに、瑠生は提案したことがあった。データ化した方が便利だよと。  色褪せたノートには思い出が詰まっている。味があっていいんだよと、桔梗は瑠生の申し出を断っていたのだ。 「そろそろ、すみだ祭りの準備をと思ってたんだ。案内葉書の用意で枚数を勘定するのに、名簿を見たかったからね」  大きな溜息と同時に桔梗が座り込んでしまった。  いつもより疲れた顔に見えるのは、たけだ屋の件もあるのが透けて見えた。  桔梗にかける言葉を探していると、玄関の呼び鈴が鳴った。 「俺、出るよ」  桔梗を気にしながら玄関に向かうと、すり硝子の向こうに背の高いシルエットが見えた。隣にはもう一人、着物姿の女性が立っている。 「どちら様ですか」 「沖です。おきコンサルティングの沖尚純です。田辺さんはご在宅でしょうか」  引き戸越しに聞こえた名前に覚えがあり、瑠生は記憶を手繰り寄せながら扉を開けた。 「……こんにちは。以前にもこちらを訪ねたことがある者ですが」  一瞬、沖の表情が綻んだように見えた。  瑠生を見つめる眼差しも優し気で、唇は何かを語りかけるように薄く開いている。  名刺と沖を交互に見ながら、瑠生は既視感を覚えた。  ……あれ。なんか、この会話、前にもしたような。  記憶の靄を振り払うように、「どんなご用件ですか」と尋ねる。  瑠生の言葉に、隣の女性が一歩、静かに前へ出た。 「坊や。桔梗さんに会いたいんだ、呼んでもらえないかい?」  ほっそりとした躯体に、あずき色の訪問着を纏った女性が瑠生を見据えて言う。  結い上げた髪の後れ毛を気にする振る舞いや、凛とした口調がどこか桔梗と似ていた。歳も同じくらいに見える。 「あの、お母さんとお知り合い……ですか」 「神楽坂のちゑ子が来たと言えばわかるよ」 「神楽坂……わ、わかりました。少々お待ちください」  軽く会釈をして玄関を離れた足は一旦立ち止まり、肩越しに振り返った。  ……思い出した。あの沖って人、前にここへ来た変な人だ。  廊下の軋む音と共に鮮明になっていく記憶。眉間には自然としわが生まれていた。 「瑠生、誰だった?」  里菊に聞かれたが、瑠生は瞳だけで返事をし、桔梗に名刺を差し出した。 「お母さん、またこの人が来た。今日は一人じゃなくて、着物を着たおばさんも一緒に。神楽坂のちゑ子と言えばわかるって——」  言葉の途中で桔梗の顔つきが変わった。  スッと立ち上がると、何も言わずに玄関へと向かって行く。  あとをついて行こうとしたが、椿にやめなさいと叱られた。  それでも気になった瑠生と里菊は、椿が二階へ上がった隙に、廊下から顔を出して玄関をこっそり覗き見た。  桔梗と着物の女性は話をしていたが、沖は玄関に飾ってある芸者の写真を眺めている。  沖を見つめていると、桔梗に名前を呼ばれた。ビクッと身が縮まる。 「瑠生、椿を呼んどくれ。今からちょっと出てくるよ」  瑠生は里菊と顔を見合わせたあと、慌てて椿を呼びに行った。  背中越しに感じた不穏を、胸の奥に抱えたまま。

ともだちにシェアしよう!