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第9話

「ただいまぁ」  疲れた声と同時にふすまが開いて、梅ちえと椿が戻ってきた。 「おかえり。あれ、小桃と里菊姐さんは?」  抱えていた風呂敷をどさっと置くと、梅ちえが座卓に突っ伏している。 「二人は家に直帰したー」  疲れ切った声で梅ちえが呻くと、支度部屋に行きかけた椿が振り返った。 「梅、疲れてるなら早く帰りなさい。私はお母さんに話があるから着替えてくるわね」 「ふわーい。でも、動けないぃ」 「珍しいね、梅ちえ姐さんがそこまでバテるのって」  食器棚からグラスを二つ取り出しながら梅ちえを見ると、まだ上半身を座卓に預けたままだ。  ……もしかして、寝た?  そっと顔を覗くと、目を固く閉じて眉間にしわを寄せている。 「姐さん、梅ちえ姐さん。そんな格好してると寝ちゃうぞ。ほら、これでも飲めよ」 「……瑠生坊、何、これ」  半分寝かけていたのか、懐かしい呼び方をしてくる。  冷えたグラスを梅ちえの頬に当てながら、「レモネードだよ」と、言った。 「ぎゃ、冷たっ! 酷いな、瑠生。頑張って働いてきた姐さんになんてことすんのよ」 「まあまあ。それ飲めよ、シャキッとするから」  眠気に抗いながら一口飲んだ途端、「うまっ!」と叫んでいる。 「だろ? 俺のお手製だぞ、心して飲めよ」  言われなくても飲むわよ、と梅ちえがグラスを一気に空にした。 「はぁ、美味しかった。生き返った」 「なら、よかった」  おかわりを作りに立ち上がると、梅ちえが瑠生のスエットを掴んできた。 「何、おかわりいらない?」  尋ねても首を左右に振るだけで、何も言わない。  視線を合わせてみると、口を真一文字にしている。  よほど今日のお座敷が大変だったのか、それとも厄介な客でもいたのか。 「姐さん、どうした。腹でも減ってるのか」  瑠生が覗き込むと、梅ちえの目が潤んできた。 「な、なに。どうしたのさ、言ってくんないとわかんないよ」 「……瑠生、ふく里がなくなっちゃうかも……」  突拍子もないことを梅ちえが口にした。 「何わけのわかんないこと言うんだよ。レモネードで酔ったのか?」  梅ちえの頬をペチペチと軽く叩いてやった。 「瑠生。私たち、む、向島にいられなくなっちゃ……うぅ」  切れ切れの声でとんでもないことを言う。  しかも今度は、わあわあと声をあげて泣き出した。 「ちょ、ちょっと梅ちえ姐さん。どうしたんだよ、一体何があったんだ」 「ったく、梅ちえは内緒とか秘密って言葉を知らないのね。ほんと困った子だわ」  着物からデニムとパーカー姿になった椿が居間に戻ってきた。  梅ちえの横に座ると、泣きじゃくる背中をさすっている。 「椿姐さん、どういうこと。梅ちえ姐さんが言ってたことって──」  焦っている瑠生とは反対に、レモネードを一口飲んだ椿が、あら、これ美味しいわねと、冷静に感想を言っている。 「椿姐さん……」 「瑠生、お母さんは宇多師匠のとこに行ってるんでしょ?」 「あ、ああ。それが何か関係あんのか」 「う……ん、多分ね。きっと師匠に伝手とか知恵を借りにいってるんだと思うわ」 「伝手? 何の伝手なんだよ。姐さん、もっとわかるように話してくれ」 「そうよ。姐さん、瑠生にも話してる方がいいわ。だって、私たちは家族も同然なんだもん」  ムクっと起こした梅ちえの目は真っ赤だった。 「そう……ね。本当はお母さんが帰ってから話そうと思ってたけど。瑠生、今から話すことはまだ決まったことじゃないの。そう思って聞いてね」  深刻な顔で椿が言うから、思わず崩していた足を正座に変えた。 「あのね、たけだ屋さんが……なくなるかもしれないの」  椿の言葉に固まった。  意味をすぐに理解できず、『なくなる』の文字が頭の中でぐるぐる回っている。 「えっと、言い方が違うかもしれないわね。なくなる、じゃなくて買収されるって方が正しいわね」 「ば、買収って──ドラマみたいに、潰れそうな会社が奪われて、社長が解任されたりとかってやつ!?」  自分で言った言葉は酷いと思った。でも、こんなことしか思いつかない。 「そういうことかな。実はね、神楽坂の料亭が向島にも店舗を増やしたいとかで、物件を探してるらしいの。それを組合の会長と観光協会の会長が話してたのよ」 「じゃ、たけだ屋を神楽坂の店が向島店にするってこと?」 「神楽坂は、たけだ屋を盗もうとしてるのよっ」  梅ちえが叫びながらこぶしをドンっと座卓に叩きつける。振動でグラスが倒れて、溶けた氷が座卓の上に水溜りを作った。  布巾を取ってきて瑠生が拭いていると、梅ちえがごめんと、小さな声で謝ってくる。 「椿姐さん。もし、それが本当になったらうちはどうなるんだ? たけだ屋さんあってのふく里だろ? 常連さんもたけだ屋さんを利用してるし、そのお客さんたちは——」 「買収されてしまうと当然、経営者は変わるわ。英恵さんたちがそのまま残って働けたとしても、神楽坂の従業員となって経営者の方針に従うしかない」 「え……それって何も口出しできないってこと?」  椿の腕を掴んで言った。つい、力を込めてしまい、慌てて手を離した。 「そうね……新しい経営者がふく里の芸者を使わないって言えば、英恵さんたちにはどうすることもできなくなるわ」 「……そんな。じゃあふく里は──」 「もう向島でのお座敷はお役御免なのよっ」  梅ちえがひと言叫んで、また座卓に突っ伏した。  ……ふく里がなくなる  姐さんたちがお座敷に呼ばれなくなる。そんなのだめだっ。  しっかり者で視野の広い椿。初めてのお座敷でも彼女の存在は、瑠生にとって、とても心強いものだった。  いつも明るく元気な梅ちえは、瑠生がふく里にきた日から気軽に話しかけてくれた。蓮香という芸名も、瑠生のことを思って名付けてくれた人。  里菊だって普段はほわんとしてるのに、いざとなったら助け舟を出してくれる。最近では、宇多に張り合ってみんなを笑かそうともしていた。  咲希だって、ようやく今日、半玉としてデビューしたばかりなのに。  そんな彼女たちの働く場所がなくなってしまう……  冷静になれと自分に言っても、瑠生の中に生まれた怒りは咆哮(ほうこう)をあげていた。 「椿姐さん、何か回避する方法はないのか? 俺にできることなら何でもするからっ」  言ってはみたけれど、眉根を寄せただけで椿の口は開かれない。  梅ちえも泣きじゃくっている。 「……とにかく、ここで私たちが額を突き合わせてても仕方ないわ。お母さんが帰ってきたら話すから。もしかしたら、師匠から明るい話を聞いてるかもしれないし」  今日は解散しよ、と椿が言うから従うしかない。  一人で帰すのが心配なほど梅ちえは滅入っている。瑠生は客間に布団を敷いてそこに寝かせた。  自分もベッドに入ったけれど、まったく寝つけない。  うとうとしかけた真夜中、玄関の引き戸が開く音で目が覚めた。  桔梗が帰って来たと思ったけれど、出迎えるのはやめた。  きっと椿と話をするはずだから……

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