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第8話

 今日のめでたい日を祝うため、瑠生は昇真の誘いを断って教室を飛び出した。  髪を束ねていたゴムを解き、肩まで伸びた髪をなびかせながら、ふく里まで走り抜いた。  今日は、咲希の半玉デビューの日だ。  桜の開花はまだ先でも、美しい冬晴れの日は門出にピッタリだ。  中学を卒業するまでの三年間、朝早くからふく里で咲希の頑張りを瑠生は見ていた。だからこそ、今日の日を祝ってあげたい。 「ただいまっ。お母さん、咲希は——」 「瑠生、行儀が悪い。もうすぐ高校二年なるってのに、落ち着きなさい」  乱暴にふすまを開けたものだから、お茶を飲んでいた桔梗に怒られてしまった。  八の字に脱ぎ散らかした靴も、きっとあとで叱られるだろう。 「す、すいません」  素直に謝ると、桔梗がふっと口元を緩め、「支度部屋にいるよ」と、教えてくれた。 「ありがと、お母さん」  部屋の前まで来ると、ふすまの前で呼吸を整えて髪を結んだ。 「咲希、いるか」  声をかけたら、「入っていいよ」と、返事が聞こえた。  瑠生はそっとふすまを開ける。 「瑠生、おかえり」  咲希の声は聞こえたのに、姐さんたちの影になって見えない。  足を忍ばせて近づくと姐さんたちが離れて、艶やかな振袖姿の咲希が現れた。 「……咲希、お前——」 「何よ、似合わないって言いたいの?」  おしろいに赤い口紅を乗せ、目の縁を赤く染めあげている。  桃色の振袖に赤の半衿は、とびきりきれいな半玉を彩っていた。 「めちゃくちゃきれいだ。お前、化けたな」 「るーい、ひと言多いって。でも、さんきゅ。急いで帰ってきてくれたんでしょ」  にっこりと笑う幼馴染は眩すぎて、中学の制服を着ていたころより、ずっと大人に見えた。 「今まで頑張ったね、小桃。今日からは私らと一緒にお座敷頑張ろう」  梅ちえの掛け声で里菊も、うんうんと頷いている。 「すぐお座敷があるのか?」  瑠生が聞くと、照れた顔で、そうなのと咲希が言った。 「お座敷の前に、『向島霞堤(むこうじまかすみてい)を親しむ会』の会長が、国際観光施設の会長を呼んで、小桃の半玉デビューを祝ってくれるのよ。で、そのあとにお座敷」  梅ちえが手のひらを上に向け、肩をすくめた。 「初日からハードだな」 「そうなのよ。もう昨日は眠れなかったし、緊張でサンドイッチ半分だけで胸がいっぱい。だって、一人で踊るんだよ」 「大丈夫だろ。めちゃくちゃ練習してたし」 「瑠生の方が完璧に踊れるもん。高校生になってもお稽古続けてるんだから。私より絶対上手いもん。ねえ、代わりに踊ってよ」  咲希の頬が膨らむ。 「何言ってんだ。咲希のお披露目なのに」 「小桃も上手くなったけどさ、瑠生の踊りと比べちゃだめ。この子のは生粋の踊りっていうか。なんか『血』を感じるのよね。おまけに高校生になって、ますます美人になっちゃってさ」  わかる、わかると、咲希も里菊と一緒になって頷いている。 「立派なDKになっちゃったけど、可愛いさが艶っぽさに変わって。ため息が出ちゃうのよね」 「わかりますっ。中学のときは私の方が背も高かったのに、今は見上げる方だし、ムカつくくらい美人だし。なんか、ずるいっ」 「ず、ずるいって──むちゃくちゃ言うなよ」 「まあ、まあ。そうはいっても男子高校生。遊び盛りでお天道様に晒されてるのよ、お肌はきっと荒れほうだ──ちょっと、やだ。何よこのモチ肌にスベスベの触り心地はっ。悔しいったらないわねっ」  瑠生の頬に触った里菊が、まるでもちをこねるように両手で摘んでくる。  散々触ったあとは、ギャク漫画のように、キーッとハンカチを噛み締めた。 「ぶはっ、何、里菊の顔。あんたこそ面白さに磨きをかけたわね」  梅ちえと咲希が爆笑していると、でしょ? と、里菊が誇らしげに胸を張っている。 「もう、俺をネタにして遊ばないでくれ。イジられるのは宇多師匠だけで十分だ。それより時間はいいのか」  時計に目を向けると、三人が口を揃えてヤバいと顔をひきつらせている。  慌てて身支度を済ませた芸者たちが玄関で草履に履き替え、最後に咲希がぽっくりを履いて瑠生と桔梗の方を見上げた。 「お母さん、瑠生。行ってきます」  凛とした笑顔で咲希が言うから、瑠生も背筋を伸ばした。 「気張って来い。でも力みすぎんなよ」  そう言って親指を立て、瑠生は幼馴染を送り出した。    * * * 三人を見送ったあと、桔梗は宇多に用事があるとかで出かけてしまった。  瑠生は夕食の用意をしようと、台所に向かった。すると、呼び鈴もノックもなしに引き戸が開く音が聞こえた。 「咲希のやつ、忘れ物でもしたのか」  急いで玄関に行くと、珍しい人が靴を脱いでいる。 「あれ、あんた瑠生? ちょっと見ない間に背が伸びたわね」 「……茉莉花(まつりか)姐さん? お久しぶり、です」  数年ぶりに顔を見せた茉莉花に、言葉が詰まる。  スカートとブラウス姿の茉莉花が、瑠生をまじまじと見てきた。 「昔も可愛かったけど、あんた美人になったわね。背はまあ、私よりちょと高いくらいか」  茉莉花が横に並んでくると、手のひらで自分と瑠生の身長差を測っている。  男子としては身長が低いね、と一番言われたくないことを言われてカチンときた。  ……どうせ、百七十センチもない、チンチクリンだよ。 「今日はどうしたんですか、姐さん。その格好ってことは休み?」  身長の反撃にと、ちょっと皮肉めいて言った。 「あ……まあそんなとこかな。それよりお母さんは? 椿たちは?」  ふく里で一番の古株が廊下をズンズン歩き、居間や台所を覗きながら尋ねてくる。 「今は誰もいませんよ」 「ふーん、お座敷──には早いか。どこ行ったの?」  茉莉花が居間に入ると、座卓に置いてあった煎餅の袋を乱暴に開けて、バリバリと頬張っている。 「今日は小桃が半玉のデビューなんで、向島霞堤の会に行ってます。姐さんたちも一緒に。お母さんは宇多師匠のとこです」 「じゃあ当分、誰も帰ってこないか……」  台所でお茶の用意をしていると、茉莉花が呟くように言う。 「何か用事だったんですか」  瑠生が聞くと、「何でもなーい」と間の抜けた声で返された。  お茶を持って戻ると、茉莉花が足を前に投げ出してくつろいでいる。  瑠生はため息を吐き、茉莉花の前に湯呑みを置いた。  テレビを観て笑っている彼女を残し、自室に行って宿題をしていた。  一時間ほど経ち、洗濯物を入れようと一階に下りた。  テレビの音が聞こえ、茉莉花がいるのだろうと居間を覗くと誰もいない。座卓の上には空の湯呑みと、煎餅の食べた袋があるだけだった。 「トイレかな」  さほど気にも留めず、庭に降りて洗濯物を取り込んだ。  居間に運ぼうと戻ってきたが、まだそこに茉莉花の姿はない。  部屋を見渡すと、隅に置いてあった茉莉花の鞄がなくなっている。 「なんだ、帰ったのか」  それならそれで声をかけるなり、飲み食いしたものを片付けるなりしろよと言いたくなる。  瑠生は湯呑みを片付けながら、ふと、彼女は何をしに来たのだろうと考えた。  ……お母さんに用事でもあったのかな。  単純にそう思い、洗濯物を片付け終えると夕食の準備に取り掛かった。

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