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第12話

「瑠生! 聞いて聞いてっ!」  つい二週間前までこの世の終わりみたいな顔をしていた梅ちえが、勢いよく居間に飛び込んできた。  着物姿のまま、化粧も落とさず、息を弾ませている。 「な、何だよ。そんな大声出して」  台所で麦茶を飲んでいた瑠生は、コップに注いで梅ちえに差し出した。梅ちえはそれを一気に飲み干すと、陶酔したような目で深くため息をつく。  まさか、売却話が加速したとか? 梅ちえの言葉を待っていると、 「実はさ、今日のお座敷で、めちゃくちゃイケメンの客がいたのよ!」 「はあ?」  何だそりゃ。血相変えて言うことか。思わずツッコミを入れたくなる。  でも、姐さんが元気になってよかった。  たけだ屋の買収話で沈んでいた梅ちえには、イケメンはいいカンフル剤だ。 「いい男探しも、たまには役に立つな……」  ボソッと呟くと、「何か言った?」と二杯目の麦茶を注ぐ梅ちえに聞かれた。 「何でもないよ」  おざなりに返したのが気に食わなかったのか、「瑠生っ!」とまた大声。 「な、何だよ。声、デカいって」 「あんたね、自分が美少年だからって、この世に敵がいないなんて思ってるでしょ!」  いやいや、敵って……誰も勝負なんてしてないってーの。  呆れはしたけれど、いつもの梅ちえに戻っているのは嬉しい。  よし、それなら甘んじて敵役となって、そのイケメンとやらに挑んでやろう。 「はいはい。天狗にはなってませんから。で、どんなお客だったんだよ」  話を戻すと、「それがねぇ」と途端に蕩けた顔になる。 「歳のころは三十前後? スラッとした長身で、目元はくっきり二重で、スーツが似合ってて、いい匂いがして……もう、とにかくいい男だったのよ。歴代一位っ」  いい匂い? まさかお酌と称して、いつも匂いを嗅いでるんじゃないだろうな。  疑わしい視線を向けながらも、楽しげな顔の梅ちえに聞いてみた。 「ちゃんと名刺はもらった? 自分の千社札(せんじゅふだ)も渡したのか」  もっちろん、とこぶしでトンっと胸を叩く梅ちえが、その胸元から一枚の名刺を出した。 「イケメンの? 見せて」  受け取った名刺を見て、瑠生はドキッとした。 『株式会社パートナーズ M&Aコンサルティング アドバイザリー多鹿神楽』……  まさか多鹿神楽って、あの変な人──しかも、また『M&A』って。  人の手を撫でてきたり連絡先を聞いてきたりした、あのカッコいいのに変態っぽい人。  瑠生はもう一度名刺に視線を落とした。  珍しい名前だ。同姓同名の線は薄い。  何より、お礼したいなら、たけだ屋の座敷を予約しろと言ったのは自分だ。  ……あの人、本当にたけだ屋の座敷に姐さんたちを呼んでくれたんだ。  意外と義理堅い──なんて一瞬思ったけれど、たけだ屋の予約はいちげんさんには無理だ。  それにM&Aって、沖と同じ仕事なのも気になる。  瑠生の胸に、墨が滲んだような不安がじわりと広がった。 「姐さん。このお客、誰の紹介か知ってる?」  どうだったかなぁと、梅ちえがうっとりした顔で名刺を眺めている。  だめだ、完全にのぼせている。明日、椿か里菊に確かめた方が早い。  神楽を見れば、梅ちえは歓喜の雄叫びをあげる──と言った瑠生の予想は、見事に当たった。 「当たったけど……」  もし、沖の紹介しなら、ふく里にとって神楽も油断できない相手だ。  姐さんにこの話をしたら、きっとまた、わあわあ騒ぎ立てるかもしれない。  じゃあ、椿に──いや、だめだ。お座敷もあるし、何より桔梗と一緒になって、たけだ屋の件で動いてくれている。これ以上の負担はかけられない。  里菊……は、梅ちえに話してしまいそうだ。  咲希にはもっと言えない。不安がるし、半玉になったばかりなのに可哀想だ。  だったら俺が調べたらいい。神楽に会って、たけだ屋の買収の話を知ってるか聞いてみよう。  腹が決まると、瑠生は名刺を写メに撮った。 「住所は、神楽坂……か」  地名と同じ名前を持つ神楽の笑顔が、ふと脳裏に浮かぶ。  ちょっと変な人だったけれど、悪い人ではない──と思う。たぶん。  きっと話くらいは聞いてくれるよな?  そうと決まれば決行の日をいつにするかだ。  カレンダーを眺めながら、大安を探していると、見慣れない言葉が目に留まった。 「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)?」  スマホで検索してみて、思わず声が漏れた。 「これだっ」  一粒万倍日──それは、新しい挑戦や始まりに最適な日。  画面に映るその文字を見ていると、瑠生の背中を押してくれるように思えた。

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