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第17話
機械音だけが響くエレベーターの中は、息苦しいほど静かだった。
沖は何も喋らず、タブレットを指先で滑らせている。視線は一度も瑠生の方を向かない。
密閉された空気が、じわじわと肺を圧迫していく。自分の心臓の音が、やけに大きく響いた。
──ああ、息が持たない。
そう思ったところで、ようやく八階のランプが点いた。
扉が開いた瞬間、瑠生は外の空気を求めるように飛び出した。
そっと息を吸うと、胸が痛いほど冷たい。
沖について歩きながら、周りを見渡した。
通路の両端には、ガラスで仕切られた会議室がいくつも並んでいた。
中では、スーツ姿の男女が額を突き合わせて話をしている。
そのうちの一人の女性が、瑠生の制服姿に気づき、目を丸くした。
けれどすぐに、見なかったことにするよう視線を逸らす。
……そんなに場違いかな。
恥ずかしさと居たたまれなさが混ざって、足が早まる。
そのとき、沖の足が止まった。慌ててブレーキをかける。
重厚なドアの前で、沖がカードキーをセキュリティボックスに差し込む。
電子音が鳴り、ロックが解除された。
「……ここだ」
低く告げると、沖がドアを押し開ける。
次の瞬間、瑠生は思わず息を呑み、半歩後ずさった。
広々とした部屋の真正面には、床から天井まで届く大きな窓。
閉じ込められた景色は、一枚の絵画のように迫力があった。
机と応接セットしかないのに殺風景に見えないのは、圧倒的な窓の存在感のせいだ。
ドアの前で立ち尽くしていると、沖は窓際に背を向けて椅子に腰を下ろした。
青とオレンジのグラデーションを背景に、書類を広げている。
その光景は、まるで空に浮かんでいるように見えた。
瑠生自身も、その中に溶け込んだような気分になる。
静寂した空気にもじもじしていると、「座れ」というように沖がペンでソファを指し示した。
黒い革張りのソファにそっと手を触れる。
……うわ。これ、絶対高いやつだ。
マットな光沢に戸惑いながらも、「失礼します」と言って、座面の端にちょこんと腰を下ろした。
「瑠生……だったな。ふく里で出会ったのを覚えている」
ようやく口を開いてくれた沖に、心の奥でホッと息をつく。
「お、俺も覚えてます。中学のときと、少し前にお見えになりましたよね」
「最初に会ったとき、君は玄関まで送ってくれた。そして木蓮の話を一緒にしたな」
書類に目を向けたままの沖が言った。
「覚えてたんですか」
思わず声が漏れる。胸も熱くなってきた。あんな前の、それもほんの少しの会話を覚えていてくれたなんて。
ふく里の庭で交わした言葉がよぎると、会話だけじゃなかったことが頭に浮かぶ。
俺、あのとき、沖さんに抱き締められたんだった。
思い出してしまうと、顔を上げられなくなった。
ここに来るまで忘れていたのに。こんなときに思い出すなんて。
買収のことばかりを意識して、昔のことが頭から飛んでいた。
ふく里で見たときも今も、沖は悪い人に見えない。だったら話せばきっと、わかってくれるはず。
希望が胸に広がるのを感じると、瑠生はソファからそっと立ち上がった。
その動きに気づいたのか、沖の顔が正面を向く。
目が合った瞬間、空気が止まったように感じる。
二人っきりの空間に、瑠生の心音が沖まで届きそうで身体が震える。
息をひそめていると、なぜか瑠生が口を開くのを沖が待っている気がした。
小さく深呼吸をし、自然と机の前まで歩み寄っていた。
「沖さん、お願いです。どうか、たけだ屋さんを買収するのはやめてください」
言葉とともに深くお辞儀する。
顔をそっと上げると、沖の表情は変わらず固い。
「なぜ、買収をやめなければならない」
低く響く声。部屋の空気が、一気に冷たくなった。
胸に突き刺さるような鋭さを感じ、思わず身体が震えた。
断られるのは当然だ。それはわかっている。
自分が勝手に一縷の望みを抱いただけだ。
一緒に木蓮を見て、話をして。そして、抱き締められたから。だから、助けてくれると思ったのか。
何を勘違いしていたんだろう。
高校生ごときの頼みを、会社を経営する人が聞いてくれるわけがない。
愕然としていると、書類をバサッと机に置く音が聞こえて、ハッと我に返る。
「……あの。俺、す、すいません。不躾 っていうか、図々しいこと言いました。でも、どうしても、たけだ屋さんを取られたくないんです」
「君は置屋の子で、たけだ屋とは関係ないだろう。それなのになぜ君が買収を取りやめることに必死なんだ」
見上げてくる沖の表情は動かず、瑠生の言葉をじっと待っている。
早く話さないと。
ここを追い出されたら、今日を逃すともうチャンスはない──それだけはわかる。
縮こまった気持ちをぐっと押し込め、両手をこぶしに変える。
ゴクッと唾を飲み込むと、瑠生は震える声で拙い言葉を紡いだ。
料亭と置屋の関係性を、必死に説明する。
沖は口を挟まず、黙って聞いてくれていた。けれど、眉ひとつ動かないせいで、逆に真意が読めない。
「だから、たけだ屋さんがなくなると、俺の家──ふく里の芸者は仕事がなくなるんです。他の料亭での仕事もあるけど、うちを一番贔屓にしてくれるのはたけだ屋さんなんです」
言いながら、瑠生の足は一歩、二歩と沖に近づく。
「お母さんと女将さんは同じ芸者でした。その時から二人の信頼は続いてるんです。それを、ふく里の芸者たちが受け継いでいます。それに、みんな向島の花街の歴史を途絶えさせないようにしているんです。最近、半玉にデビューした子もいます。どうか、女将さんや芸者たちの仕事を奪わないでください」
深く頭を下げると、英恵の顔が浮かんだ。
──瑠生坊。あんぱん食べるかい?
喉が詰まり、胸が熱くなる。もう、泣きそうだ。
泣き落としなんて反則なのに、涙は勝手に溢れてくる。
「……半玉」
沖がポツリと呟く。
咲希のことを言ったのかと思った──けれど、それは大きな間違いだった。
「わかった。買収のことは一旦、保留にしよう」
「ほ、本当ですか!」
叫んだ声が震えた。胸の奥で、ずっと張り詰めていたものがスッとほどけた気がする。
やっぱり、いい人だ。誠意を持って話せば伝わる。
梅ちえたちの喜ぶ顔を思い浮かべていると、沖が信じられないことを口にした。
「ただし条件がある」
「じょ、条件……ですか」
やはりただでは済まないのか。
ガクッと肩が落ちる瑠生の前で、沖はスッと立ち上がった。
「条件は、たけだ屋とふく里の売上をこれまでの倍にしてもらう」
「えっ、売上を倍……ですか」
「そうだ。死に物狂いでやってみせろ。買収されたくなければな」
お金を管理しているのは桔梗と椿で、売上のことなんて全くわからない。
一回のお座敷がいくらなのかも知らないのに、こんな条件を飲み込んでいいのか。
たけだ屋のことなんてもっとわからないのに、安請け合いしていいのだろうか。
「それと、もう一つ条件がある」
「もう一つ……ですか」
売上を倍にするだけでもハードルが高いのに、まだ何を言う気だ。
いや、やれることは何でもやる。自分にできることは全力でやってみせる。
せっかく沖さんに気持ちが伝わったんだから。
「もう一つは、僕が料亭を予約したら、必ず半玉を呼んでもらう」
「半玉?」
咲希のことかな? さっき話に出たし。
瑠生が考え込んでいると、沖がフッと笑った。
「名前は、蓮香だ。昔、一度だけ座敷で見たことがある半玉だ」
その名前に、瑠生は固まった。
……ら、蓮香だって。そ、それは、俺……だ。
思わず叫びそうになったのを、喉に力を込めて耐えた。
蓮香──
中学のとき、桔梗に頼まれて一度だけ半玉のフリをして座敷に上がった。
そのとき名乗った名前が『蓮香』だった。
動揺で頭が真っ白になっていると、机の上をコツコツと叩く音がした。ハッとして顔を上げると、さっきまで無表情だった沖が微笑んでいた。
「それをクリアすれば、買収の話はなかったことにしよう」
「なかったことに! ほ、本当ですか!」
思わず前のめりになり、叫んだ。返事の代わりに、沖は無言でゆっくり頷く。
やります──と言いかけた言葉を飲み込んだ。心臓が徐々に高鳴ってくる。
……どうしよう。売上に、蓮香って、俺一人で決めていいのか。
返事が出せずにいると、わざと荒々しく音を立てて沖が椅子にどんと座った。
「無理ならいい。売却の話を進めるだけ──」
「ま、待ってください! そ、その条件、飲みますっ」
勢いで言ってしまった。もう、あとには引けない。
でも、このまま何もせず指を咥えているよりはマシだ。
姐さんたちに話してわかってもらおう。
桔梗から、女将さんに話してもらおう。
蓮香のことは──なんとかする。なんたって、本人がここにいるのだから。
「この条件を本当に飲めるのか。売り上げもそうだが、蓮香の方もだ。以前、田辺さんに頼んだら、蓮香の本業は学生だからと断られた」
記憶が少しずつ蘇ってくる。
そうだった。沖が置屋に来たとき、桔梗がそうやって断ってくれた。
「蓮香はどの置屋にもいない。あの子を本当に座敷へ呼べるのか?」
ピアノの弦をピンっと張ったような声だった。触れると弾き返されるような鋭さを感じた。
「……だ、大丈夫です。正直、売り上げのことは、高校生の俺にはわかりません。けど、半玉のことは、俺が責任を持ってなんとかします」
真っ直ぐ沖の目を見て言い切ったものの、頭の中はハレーションを起こしていた。
何でもやるって言ったのは自分だ。一度やったから大丈夫。……たぶん。
自分に言い聞かせていると、また沖が無茶なことを言ってきた。
「期限は三ヶ月だ。その間は売り上げを倍にすること。それと、必ず蓮香を呼ぶことだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。今、三ヶ月間って──」
「条件はそれだけだ」
それだけって……だけってレベルじゃないっ。
胸ぐらでも掴んで訴えたかったけれど、そんなことすれば水の泡だ。
それにこれ以上、条件を増やされたら困る。
「わ、わかりました。でも、その、半玉のことはどうやって伝えれば……」
売り上げのことは、沖がたけだ屋に確認すればわかる。けれど、半玉の件はどうやって伝えればいいのか。
瑠生が考え込んでいると、沖が紙に何かを書いている。
覗き込もうとしたとき、机の上に名刺をスッと滑らせてきた。
「名刺の裏に僕の連絡先を書いた。蓮香の都合がわかれば。すぐ、たけだ屋の座敷を予約しよう」
瑠生は名刺を受け取ると、聞きたかったことを口にしようとした。けれど、それは沖のスマホが鳴ったことで阻止されてしまう。
蓮香を探している理由を聞いてみたかったのに。
電話中、景色を見たりと時間を持て余していたけれど、中々、終わらない。
どうしよう。電話が終わるまで待って、挨拶して帰るべきか。
意味もなく部屋を見渡していると、沖の口から出た名前にピクリと反応した。
今、『神楽』って……
「ああ、今来ている。目の前にいるが」
電話中の沖と視線が絡まる。やはり電話の相手は神楽で、自分の話をしているようだ。
当然かと思った。
仕事で付き合いのある二人だ、怪しい高校生が訪ねるかもしれないと、前もって神楽から聞いていてもおかしくない。
そうか。だからロビーで見たとき、追い出そうともせず話を聞いてくれたんだ。
もしかしたら神楽が口添えしてくれていたのかもと、少し期待をしたけれど、会話の様子からして買収の話とは関係なさそうだった。
このまま盗み聞きするのは悪いと思い、瑠生は頭を下げて踵を返そうとした。
「待て。君の連絡先を聞いてない」
電話中だというのに、沖が叫んでいる。
ちょっと偉そうだなと思った瑠生は、無言で机の上にあったメモとペンを手にした。
そこへ自分の名前と携帯番号を書いていると、ふと、視線を感じた。
上目遣いで見ると、スマホを耳に当てたまま、ペンを持つ瑠生の手をジッと見ている。
何で見てるんだろ。字が汚くて読めないとか?
ま、いっか。読みづらかったら聞いてくるだろ。
自分だけで納得すると、沖のマネしてメモを滑らせるよう差し出した。
ふふんと、鼻で笑って返してみたけれど、沖はチラッと見ただけで、神楽との通話を再開している。
あーあ。ダメージゼロか。もうマジで帰ろう。
瑠生は踵を返すと、沖に背を向けてドアに向かった。
ふと、背中に強く視線を感じて肩越しに振り返ると、沖がこちらをジッと見ている。まるで何かを確かめるように、目に焼きつけるように。
それは瑠生が会釈をして出て行くまで、続いていた。
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