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第1話
冬のあいだは深い雪と氷に包まれ、夜空には光のカーテンが現れる幻想的な自然環境において、ハイムル王国は長い歴史を持つ。ハイムルの勇敢な先祖は、このフィヨルドの大地を故郷とし、大海原を旅して世界を切り開いた。冒険者たちは強靭な身体と精神力を礎に、約束の地を目指していたのだ。約束の地は肥えた土壌を緑が埋め尽くす豊かな場所だという。蜜蜂が踊り、果実が木々いっぱいに実り、家畜が活き活きと生きる緑の大地を目指すうちに、冒険者は海の覇者と呼ばれるようになった。
凍てつく大地から世界を開拓したハイムルの民は、数えきれないほどの武勇伝を胸に、海の覇者の末裔として誇り高く生きている。
複数の大陸を跨いで世界を制したという栄光はしかし歴史となり、現在は始まりの地である冷たい北の海に囲まれた大地を国土として、ハイムル王を頂点に、栄華と呼ぶには少々慎ましい繁栄を享受している。西洋各国が目まぐるしい発展を遂げ、世界を西へ南へ支配を広げていくなか、ハイムル王国は本国以外に支配地を持たず、眼前の安寧に甘んじていると言わざるを得ない。
勇敢な先祖たちが乗っていたのは、平たい船底の、船室もない一層式のボートだった。ハイムルを囲む海岸線は海底の隆起が激しく、喫水の浅い船体は、環境に適した知恵の結集だったのである。しかし、西洋の国々が大きく発展し、世界が大航海時代へ突入すると、数層の甲板を有する大型帆船が主流となった。海運力の負けは戦の敗北に直結し、ハイムル王国の存在感は、先祖の武勇伝とは到底釣り合わないのが現状だ。大型船を拒むような地形的不利が国力衰退の原因とされている。だが、第一王子アレクサンデルに言わせれば、これは王政の怠慢が原因だ。王都オスクの港はハイムルで唯一大型船が停泊できるが、これは海岸の調査と建港時の工夫の賜物である。他の港でもできるはずなのに、港の整備が進まないのは、富と権力を集中的に握る王政と周辺貴族が、己の保身に走り、王国への投資をしないから。次代の王として、アレクサンデルは強い危機感を抱いている。だがその危惧も、アレクサンデルの母が若くして亡くなったあと、後妻を迎えてすっかりのめり込んでいる父王にとっては無用なのだ。十年前に異母弟が生まれてからは、まるでアレクサンデルも母も存在しなかったかのような扱いを受けるようになった。元からハイムル王は強権的であるのを当然とするきらいがあるが、父王はその極みのようである。アレクサンデルの言葉に耳を傾けたことは、生まれてから二十二年、一度もない。
「殿下、またそんなに袖をお汚しになって」
近侍のヘンリクに窘められて、アレクサンデルは己の手首を見下ろした。夢中になって船の構造図を描いていたせいで、真っ白なはずの中着の袖が、炭まみれになっている。
「このままだって構わないさ。城はおろか、国中の誰も僕のことなんて生きているかどうかも気にしていない」
アレクサンデルは現王の嫡男にもかかわらず、王家が住まう城の敷地内にぽつんと立つ小屋に暮らしている。否、追いやられたと言うのが正しいだろう。近侍のヘンリク以外と関わることも許されていない。
起床後ヘンリクが整えてくれたままの金色の髪を、炭で汚れた手で掻き上げようとすれば、濡れた手拭いを渡された。
「今は亡き女王陛下譲りの、この美貌が世に知れる機会がないとは」
「やめてくれよ。容姿のことを言うのは」
ハイムルの民の中でも、陽光に照らされる海のような青い瞳と、黄金色の髪を持つ者は真の高貴な血統とされている。アレクサンデルの美しい金髪と碧眼はまさにハイムルの王位継承者にふさわしい資質であり、加えて母親に似て端整な目元と鼻梁の面立ちは、本来ならその容姿だけでも民の心を掴むものなのである。
しかし、この容姿が、父王トールの目を背けさせ、後妻の反感を買う原因の一つであるのは間違いない。引きこもるほか選択肢がない状況でも立派に成長した身体を隠すよう猫背になり、重いため息をつくアレクサンデルに、ヘンリクは歯痒さを隠して頭を下げた。
「失礼しました」
国力の低下に反して、国王一家と取り巻きの貴族が住む城は増築された。王都オスクの丘に、人々に見せつけるかのように増築された城は、これからの王家が住まうにふさわしいものなのだという。次代の王であるアレクサンデルは財政を危惧し反対したのに、八年もの歳月をかけた一大工事は決行された。なんのことはない。父王トールの言うこれからの王家に、アレクサンデルは存在しなかったのだ。
「弟を後継者にするつもりなら、さっさとそう宣言して、僕を自由にしてほしい」
ヘンリクには幾度となく口にしてきた。本心からそう言っていることはわかっているはずなのに、ヘンリクは肯定も否定もせず、心苦しそうに眉を寄せる。
「母上の一族からの報復が怖いくせに、平気で僕を飼い殺しにして。きっと病を患って死ぬように祈っているんだろうね」
いつにも増して気が立っていた。思っていても口にすることはなかった、実の父親に対する嫌疑を、ヘンリクが慌てて否定する。
「不吉なことを。そんなはずがありません」
「でも、母上が亡くなるとき、僕だけに遺産が託されたことに父上は激怒していただろう。母上が祖国で受け継いだ財産を手にするための政略結婚だったのに、僕だけに相続されたことに腹を立てた父上は、六歳の僕を役立たずと罵った。ヘンリクだってその場にいたじゃないか」
アレクサンデルの母が病床にいた頃から世話をしてくれているヘンリクは、当時の異常な光景を思い出し、けれど肯定できずに唇を固く結んだ。
アレクサンデルの母は、ハイムルと同じように雪と氷に包まれた国の王女だった。父である皇帝から愛されて育った彼女は莫大な財産を分与されていて、覇権縮小の一途にあるハイムル王トールは、財政難を回避するために結婚を申し込んだ。友好関係を結ぶための結婚だったとトールは主張していたが、警戒されていたのだろう。輿入れの際には宝石や衣装など豪華な嫁入り道具が準備されたものの、支度金は予想より随分少なかったという。しかも病により若くして亡くなった王妃は、アレクサンデルだけが遺産を受け継ぐよう、幾重にも準備をしていた。そのことを知ったトールの激昂ぶりは、異常でしかなかった。
そして若い後妻を迎えてからは、アレクサンデルを公的な場に一切出さなくなり、ついには増築工事を理由に、小屋に住むよう命令した。人知れず死んでいた、という状況になってもおかしくないと、アレクサンデルは思っている。むしろそれが目的とさえ感じられる。第一王子の存在を王国民から忘れさせるためだろう、トールとともに公の場へ姿を現す異母弟の第二王子とは対照的にに、アレクサンデルは外出も禁じられている。
王位継承者として正式に指名を受けるはずの十八歳になるまでは、母の顔を立てるためにも、どんな仕打ちにも耐えてきた。しかし二十二歳になってもまだ継承権を公表されず、むしろ暗黙のうちに存在を否定されることに、憤りは我慢の限界を超えている。玉座に執着心などない。権力欲もこれっぽっちもない。だが、自分の存在を否定され、母の尊厳を踏みにじられることには、憎しみに近い怒りを抱いている。
ただ、復讐も報復もすることはない。高潔だった母の精神に反するからだ。遺産を自分だけが受け継いだのは、意趣返しではなく、トールの王としての在り方に異を唱えるためだったはず。
だからアレクサンデルは、現状を打開する方法を考えた。小屋に追いやられたのを逆手にとって、トールの監視下では許されなかったであろう、造船について学び研究を始めた。母の遺産をもとに、高速で航海できる船を造ろうと決心したのだ。ハイムルのどの港からも出港できるような、喫水の浅い、けれど積載量を犠牲にしない大型の高速船。世界の覇権を奪うためでも、争うためでもなく、純粋に世界を知る旅ができる船だ。ハイムルが本当に必要としているものは何なのか。他国はどのようにして発展したのか。自分の目で確かめたい。知見を広げ、可能性を探り、未来へ繋げることこそ、王子として生まれ、ハイムルの勇敢な血を受け継ぐ自分がすべきことだと信じている。
「僕がアルファでなければ、もう自由の身だったかもしれないのにね」
袖を払いながら言えば、ヘンリクは居た堪れなそうに俯く。
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