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第6話
「俺はエミル」
奴隷には名乗る姓がないから、ただはじめましてと挨拶をした。律義だと思いつつエミルが先導するかたちで入った酒場には、客はちらほらとしかいなかった。
「早かったか」
勇気を出して出かけてきたのだろうサーシャがあまりがっかりしてしまわないよう、客が増えるまでまだ時間があるように言えば、明るい笑みが返ってくる。
「あまり混雑しているよりこのほうがいいです」
「そうか」
今いる客は常連といった風体で、サーシャが求めているような航海の経験談は聞けそうにない。ただ、店を変えたからといって客の入りが変わるとは思えなかった。
「ここにあるのはビールだけだ」
庶民の酒は、ビールと、じゃがいもで作る蒸留酒アクアビットだ。金持ちは輸入品の葡萄酒を好んで飲むらしいので、念のため先に知らせてやると、サーシャは特に困った様子はなく、二杯のビールを注文する。上着の内から財布を取り出すのを見て、エミルはやれやれ、と思った。懐具合が予測できてしまう財布は、隠したまま小銭だけを取り出すのが常識だ。
「座りましょうか」
壁際の席に向かい合って着くと、エミルはさっそく、庶民の処世術を教えてやることにする。
「サーシャ、不用意に財布を他人に見せるんじゃない。盗人に盗ってくれと言っているようなもんだ。ここらじゃ、物を買う金なんか持っていないくらいの態度でちょうどいいんだよ」
代金を支払う姿勢を見せることが礼儀だと思って生きてきたのだろうサーシャは、驚いた顔をしながらも素直に頷く。そして静かに外套を肩から外し壁に吊るそうとするが、その仕草が丁寧なぶん、外套の質の良さがより目立っていた。
「あと、これからもこういう安酒の店に来るつもりなら、もう少し目立たない服装に変えたほうがいい」
サーシャには根本的な警戒心が足りていない。このままでは自然と培われる前に相当痛い目に遭うだろう。手っ取り早い防衛手段は目立たないようにすることだ。世話焼きついでに説明すると、サーシャはにこにこと嬉しそうに聞いていた。
「ありがとう。親切にしてくれて。僕は人と話すのが苦手で、外出もあまりしたことがなかったから、今日一日だって問題なく過ごせるかどうか不安でした」
愛嬌のある笑顔は人好きしそうなのに、サーシャは引きこもりがちのようだ。一杯奢ってもらって別れる程度の関係だから、なぜかは訊かないつもりだけれど、勿体ないと思わずにはいられなかった。
「設計のために、航海の経験談を訊いてまわりたいから、これから何度もエミルに感謝することになりそうだ」
筆記帳をテーブルの上にきっちりと重ねて置いたサーシャはビールを一口飲んで、雑味の強い庶民の味に興味深げな顔をした。
「ビールは、初めてか?」
「いいえ。でも、お酒はあまり飲まないんです」
「サーシャは、今いくつだ?」
「二十二になりました」
「俺と変わらないな。そういえば、俺に敬語なんて使わなくていいぞ。俺はそういう話し方に慣れていない」
奴隷とわかってもなお敬語を使うのはサーシャぐらいだろう。礼儀正しいのは良いことだが、横柄な態度を取っている気分になってエミルのほうが落ち着かない。
「船の設計ってのは、一人でやっているのか」
「ええ。ほとんど独学で研究をしてきました。速くて丈夫な船を設計したいんです」
「速い船ねぇ」
船のことなんて一つもわからない。適当な相槌を打っただけなのに、サーシャは気を良くして前のめりになる。
「長らく大型船の建造が主流だったけど、僕は機動力を重視したものを考えていて……」
興奮気味に話し出したサーシャは、筆記帳を開いて研究成果を見せてくる。
「この港でもよく見かける、長距離航行において主流のガレオン船は、積載量が多くて速いけど、縦長の船体のせいで転覆の危険性も高いんです。そこで僕は、クナール船に立ち戻るべきだと考えました。ハイムルの祖先は、このクナール船で大昔に新大陸まで到達していたという伝説もあるくらいなんですよ」
ガレオン船もクナール船も初めて聞いた言葉だ。二つの違いについてサーシャは話そうとするけれど、構造や設計図を見せられたって理解できない。
自分には教養がない。そう言おうとした。けれど、きらきらと光り出しそうなくらい目を輝かせて話すサーシャを止めようと思えなかった。それに、娼館街の住人以外の誰かに一生懸命話しかけられたのは初めてで、純粋に嬉しかったのだ。
「速く進めば同じ航海日数でも遠くまでいける。大西洋に出て、その先にも。僕は、世界を旅したいんです」
構想を熱心に話したサーシャは、世界を冒険するのだと力強く言った。猫背も挙動不審も嘘だったかのようだ。誇り高きハイムルの血が騒ぐといった心境なのかもしれない。
気づけば、熱意溢れる姿に自然と圧倒されていた。驚いた顔をしていたのだろう、サーシャはきまりが悪そうに頬を掻く。
「外出すらおぼつかないのに、航海だなんて無謀に聞こえるでしょう」
肩を落とすサーシャは、自己否定的になるのに慣れているように見えた。会って一時間も経っていないけれど、勿体ないと感じずにはいられなかった。
「いや、そういうのを夢があるっていうんだろうなって、思っていただけだよ」
感じたままを素直に伝えれば、青い瞳はまるで宝石みたいに輝いた。喜びいっぱいに見つめられ、落ち着かない気分になる。
「サーシャの工夫とか、船の種類とか、まったく理解できていないんだけどな」
今度はエミルが頬を掻く番だった。せっかく話してくれたのに、サーシャの研究成果の素晴らしさがまるでわからない。照れ隠しに教養の無さを嘆くけれど、サーシャは笑顔のまま。
「造船や設計はもとより特殊な学問です。僕だって知識ばかりで知恵も経験もないから、本物の船乗りには鼻で笑われてしまうかもしれない」
サーシャが肩を落としかけたのに気づき、エミルはビールを飲むよう勧めた。サーシャには自尊心が圧倒的に足りない。しかし底上げしてやる術もないし、そんな義理もないので、ビールに望みを託すくらいしかできなかった。
「航海に出て、世界を旅する。この夢は必ず叶えたいんです。できるだけ早く……」
言い淀んだのが気にならなかったわけではない。しかし焦っている理由を訊くような仲でもないし、説明されたって理解できないかもしれない。住む世界がまるで違う相手だ。
ただ一つわかることは、サーシャには確かな夢と目標があって、ひたむきに努力を重ねていること。
「世界を旅する、か。いい夢だな」
改めてそう言えば、サーシャはまた笑顔を弾けさせる。夢を肯定されることがよほど嬉しいようだ。
生活に直結しない学問を修めるのは裕福な者の特権だ。親や家系があってこそ、設計を学べているはずだが、せっかく船を造ろうというのに、家族や身近な人間の誰も応援してくれないのだろうか。不思議に感じつつも、ビールを一口飲んだとき、数人の男たちが店に入ってきた。
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