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第5話
「なあ、兄さん。『船乗りの酒場』ってのは、娼館街を指す隠語だ」
「えっ」
大事な筆記帳を落としそうな勢いで驚いてみせた男は、あわあわと筆記帳を閉じ、怯えた様子で自分を囲む娼館を見回した。
「航海で稼いだ金を握って、溜まった鬱憤を晴らしにくる船乗りが集まるからそう呼ばれているらしいが、とんだ勘違いだったな。まあいい。あんたが行きたがっている酒場がある通りまで案内してやるよ。この階段を下りて一本道だ。そう遠くない」
立てた親指で背後を指すと、男の視線がエミルの手首を捉えた。そこには消せない奴隷の印が彫られている。物心がつく頃に押されてしまう烙印、奴隷に生まれた証しである刺青だ。
「ありがとう。あの、あなたはこのあたりで勤めているのですか」
よそよそしい声は、この変わり者の生まれを見事に表している気がした。奴隷身分と接したのが初めてなのだろう。小金持ち程度ではないという予想は当たりのようだ。本物の金持ちは召使いや下働きに市井の者を雇い、奴隷のような下賤の者は視界にも入れないのだという。ただし、性欲に負けて娼館街に足を踏み入れるまでは、だ。
「一応、この娼館街の用心棒をしている。ここで生まれ育ったから、男娼ではあるがな」
男娼という言葉に、男は青い瞳を揺らす。勘違いの果てに娼館街に足を踏み入れるまで、売春という生業すらその存在を信じていなかったのだろう。どこまでも育ちが良いらしい。娼館街で働く奴隷のエミルと、どう接していいのかわからないといった様子だ。
「奴隷が仕事の選り好みをしていいのかって思ったか?」
「いえ、そんなことは」
「これでも俺は高級男娼なんでね。見てのとおりの美貌だからな。ケチな金では買わせないぜ」
気の強そうな吊り目がちのはっきりした目元や、つんとした細い鼻筋、そして、閉じていたら可憐に見えるという唇。顔立ちだけなら男娼としていい売り物になれるのにと、娼館主を落胆させること十年以上だ。が、今のはただの冗談だ。なのに、男が素直に聞いているものだから、言っていて少し恥ずかしくなってしまった。
ベータのエミルなら、同じ奴隷でも娼館街を出て生きる道がないわけではない。むしろ、男娼は幼さが残るほど若いうちから客を取らされ、ある程度の年齢になるとオメガでない限り娼館街の外に払い下げされることがほとんどだ。港で身体を壊すまで重労働するか、農地で農耕馬と一緒になって泥だらけで生きるか。他にもエミルが知らない奴隷の使われ方はあるだろう。だが、どこへ行こうと奴隷は人扱いされない。どうせ人扱いされないなら、せめて家郷の娼館街で仲間たちに寄与したい。気が強すぎて男娼には向かず、娼館街の外からも買い手がつかないことを利用して、自分なりに仲間たちの役に立とうとした結果が用心棒というわけだ。
「このとおり身体は小さいが、これでも喧嘩は強いんだぜ」
ときどき棍棒を握って悪質な客を追い払うエミルの手には、細い指に似つかわしくないたこがいくつもある。拳を掲げてみせると、金髪お坊ちゃんは後退りしたそうな顔をする。
「あなた一人で警護を? 街の警備兵は」
「こんなところに警備兵様が来るわけないだろう」
「警備兵様……」
奴隷のために城下町の警備兵が出動することなどない。娼館街に来るとすれば客としてか、娼館の主人が要請するような重大事件が起こった場合くらいだ。そんな現実も、今日初めて奴隷を見たようなお坊ちゃんにとっては、存在しているはずのない世間の不都合なのだろう。
同じ人間のはずなのに、生まれた場所が違うだけでこうも人生に差があるなんて。否、奴隷は人扱いされないから、人生も何も、その概念自体が当てはまらないということか。この世間知らずの金髪坊やに訴えても仕方がない。ただ、疑問と憤りはこの身の中に常にある。
「ほら、この通りと、そこの角を曲がった通りにいくつか酒場がある。今日港に入った船は、どっちも上品そうには見えなかったからな。船乗りはこのあたりの安酒を飲みに来てると思うぜ」
酒場や食事処の看板が並ぶ通りに出ると、男は帽子を取って礼をする。
「感謝します」
嬉しそうに笑って、男は通りを下っていった。あんなに礼儀正しい男とは初めて話したかもしれない。そんな好感を抱きつつ、猫背をしばらく眺めてから、娼館街に戻るために踵を返しかけた。が、視界の端に不穏な影が映ったのが気になって足を止める。振り返ると、堅気に見えない男二人が、さっきの金髪の男の背後につき、後を追っていた。
(ちっ、世間知らずのお坊ちゃんが)
売れば金になるだろう外套と帽子を身に着け、本にしか見えない筆記帳を抱え、無警戒に歩いている若い男なんて、安い酒場があるような地域ではただのカモだ。強引に酒を買わされるか、最悪の場合は財布と身ぐるみ一式を盗られて終わるだろう。想像できなかったわけではないが、世話をしてやる義理もないから、放っておけばいいと思っていた。けれど──。
人を蔑むことを知らない、屈託ない笑顔が脳裏に浮かぶと、見過ごせないと思ってしまった。情けをかける理由なんてない。だが、奴隷で男娼だと言ったエミルを見下さず、礼儀正しく接してきたあの男が悪い人間なはずがないと考えてしまうと、自然と追いかけて声をかけていた。
「俺も一杯飲んでいく。奢ってくれてもいいんだぜ」
金髪に声をかけると、驚いて振り返った男はエミルの顔を見るなり心強いと言いたげに目尻を下げる。
「もちろん。僕一人では正直、不安だったから、案内のお礼にも一杯どうぞ」
ただ酒を誘い出しつつ、金髪を狙っていた男二人を睨むと、二人組は鼻を鳴らして去っていった。やつらはおそらく、エミルのことを知っている。酒場の周辺で窃盗や恐喝をしようなんて輩ならば、娼館街のことや用心棒の存在についても詳しいはずだ。
「なけなしの金で奢ってくれるなんて、お前はいいやつだよ」
少なくとも数人の船乗りを上機嫌にさせるだけの金は持っているだろうけれど、牽制の意味を込めて二人組に向かってわざと大きな声で言えば、お坊ちゃんは不思議そうな顔をする。
(世間知らずにもほどがある)
さすがに悪態をつきたくなってきた。が、飲み下してそばの酒場に男を連れて入る。
「名前は? なんていうんだ」
ここまできたら本当に奢ってもらう。ついでに市井の世知辛さを少しばかり説いてやるつもりだが、名前は訊いておかないと話しづらい。
「サーシャといいます」
金髪の世間知らずは、名を口にするのを一瞬躊躇った。間違いとはいえ娼館街に踏み入ってしまったことを誰にも知られたくないのか、笑顔とは裏腹にエミルを警戒しているのかはわからない。偽名かもしれないが、酒を一杯飲み干すまでの会話には十分だ。
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