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第4話

 娼婦の母から生まれ、父親は不明。この娼館街では珍しい話ではない。母は病を患い、エミルが幼い頃に他界した。これも、残念ながらよくあること。昔から娼館街では病に倒れる者が多い。風邪を拗らせた程度では説明のつかない病だ。しかし病人を診る医者はいない。娼婦も男娼も、皆奴隷だから。  エミルも例にもれず、娼館街の奴隷だ。娼館の主たちはハイムル人で、同じハイムルに生まれても、エミルたち娼館街の奴隷を母にもつ者は生まれながらにして奴隷なのである。  エミルは小柄ながら頑丈で、腕っ節が強く気も強いため、男娼としてではなく娼館街全体の用心棒をして暮らしている。ここではちょっとした人気者だ。家郷を隅々まで知り尽くし、住人全員の名前や性格を把握しているエミルは、金を払わない客を懲らしめ、奴隷たちの愚痴を聞き、素行の悪い客は追い払う。虐げられることを当然とされる奴隷の街に、ひとときの安寧をもたらすのだ。  春が訪れ、港が活気づくと、凍てつく冬がくるまで娼館街は忙しくなる。ここで生まれてから二十三年が経つが、かき入れ時が訪れることが本当に良いことなのかどうかは、わからないまま。  幼いうちは炊事と掃除をし、年ごろになれば客をとる娼婦と男娼。喜んで客をとっている者など一人もいない。しかし他に行くあても、暮らす術もない。特に、男女のほかに存在する第二の性のうち、オメガに生まれてしまったら最後、たとえ娼館街を出ても待っているのは性奴としての暮らしだけだ。  オメガ性には発情期があり、男性オメガの場合は、この発情期にアルファと性交渉を持つことで女性と同じように妊娠するという驚異的な特徴がある。ほかにも、発情期にアルファによってうなじを噛まれると、そのアルファの番となり、本能的に隷属するようになる。一度番になれば、どちらかが死ぬまで解消することはできない。そんな不安と危険と隣り合わせのオメガは、ひと昔前まで発情中にアルファの客をとらされていたという。うなじを噛まれないよう、革や金属でつくられた首輪を嵌めて。しかし、孕んでしまう者は後を絶たなかった。当然としかいいようがない。  発情中のオメガの身体は、強烈な媚薬を飲んだかのように性的刺激を渇望し、アルファもオメガの発情にあてられると興奮状態になって欲情する。本能的な欲望に支配され、我を忘れて性交渉に没頭できるのはアルファにとって極上の性的経験とされ、発情中のオメガとの一夜は高く売られた。儲けのために数えきれないほどのオメガが利用されてきたのだ。  エミルの物心がつく頃から、ベータ性の客だけに発情中のオメガが許されるようになった。アルファのようにタガが外れた興奮状態にはなれなくとも、発情したオメガとの性行為はベータにとっても魅力的であるのは同じ。むしろ、欲求を露わにする娼婦や男娼なんて、発情中のオメガ以外にはいないから、ベータも高い金を払って発情期のオメガを買いにくるのだ。  娼館街の風潮が変わり、誰ともわからない客の子を孕むオメガは減少し、娼館の裏で働く子供の数も減った。娼館の主たちからすれば、奴隷が子を産めば財産が増えるようなものだ。それでも潮の目が変わったのは、多数の犠牲が払われたから。幾人もが無茶な堕胎を試みた末命を落とし、あるいは絶望して精神を病み衰弱し、二度と起き上がらなくなり。出産そのものが命がけなのだ。悲惨な結末が新たな奴隷という財産の誕生を圧倒的に上回り続け、やっと変化が訪れた。 「フィンが発情したってさ」  リタが戻ってきて、フィンという男娼オメガが発情期に入ったと知らせてきた。 「わかった」  発情期は五日前後、年に三、四回訪れる。エミルに発情期が知らされるのは、用心棒でもあり、この界隈に慣れていない客を予算や好みに合わせて案内する役目も担っているため。アルファを発情中のオメガのところへ連れていってしまわないよう目を配るのも、エミルの役割だ。  日が傾いてくると、娼館からは賄いの匂いが漂い始める。日当たりの悪い娼館街にぽつぽつと蝋燭の火が灯っていくのを見たエミルは、匂いのもとである宿の台所に入る。なだらかな下り坂に沿って宿が密集している通りの上のほう、物見台のように突き出した屋根裏部屋があるこの宿で、エミルは生まれた。娼館街全体の用心棒をしているエミルには、頼まなくても誰かが何かを食べさせてくれるが、しかし、生家代わりのこの宿が、結局のところ一番落ち着くのである。 「ねえ、変わったのが一人で歩いてるよ」  数人の娼婦たちと賄いを食べていると、娼婦としての年季を終えて今は宿全体の世話をしている女中が言った。 「変わったの?」  急いで台所を出て、女中の指差す先を見ると、猫背の若い男がきょろきょろと周囲を見回しながら、娼館街の入り口にあたる石階段を下りていた。 「確かに、変わった野郎だな」  質の良さそうな外套を羽織り、フェルト帽を被った男は、美しい金髪と、澄んだ青い目をしていた。  この凍てつく大地を切り拓いた、雪と氷に愛される高貴なハイムルの血を受け継ぐ者は、混じりけのない金の髪と、青い瞳を持つといわれている。この男は身元が確かな、真のハイムルの人間なのだろう。勇敢な海の覇者は強く逞しいはずなのだが、この男は挙動不審と猫背のせいで、先祖の武勇伝を台無しにしている。  男は何かを探しているようだ。頭を左右に振るたび、肩に触れる長さの金髪を隠すよう被った帽子が揺れる。盗人の下見といった怪しさは感じないが、念のため声をかけることにする。 「よお、兄さん。お探し物かい」  男の前まで歩いていくと、育ちの良さそうな男は、助かったと言いたげに表情を明るくした。 「はい。船乗りの酒場を探しています」  猫背からは想像できない品の良い顔立ちをしていて驚いた。だが、猫背でも上品そうな外見でも、こいつはやはり、性欲に導かれてのこのこやってきた男だった。  乾いた笑いをこらえるエミルの、まだらな茶色の髪と、緑に茶が差した瞳は明らかに『下々の者』なのに、男は礼儀正しく答える。本当に育ちが良いのだろう。成金や小金持ちのほうが横柄な態度を取ろうとするものだ。 「このあたりにはいくつもある。目当ての店はあるのか? ないなら、案内もできるが」 「ありがとう。初めて来たから、店がどこにあるかわらなくて。看板もないし」  世間知らずを恥じている様子の男は、大事そうに本を二冊抱えている。 「あんた、金は持ってるか? その本を金に換えるつもりなら一度古本屋のある目抜き通りに戻ったほうがいい。ここには本に高い金を払う人間はいないからな」 「いえ、これは僕の筆記帳で、今夜訊きたいことをまとめてあります」 「訊きたいこと? ああ、なるほど。それなら、その筆記帳を開く必要がないように手ほどきできるやつを紹介してやるよ」  男は筆おろしにやってきたようだ。結婚したときに妻との初夜で恥をかかないよう、練習台を求めてくる若い男も少なくない。この育ちの良さそうな男もそうなのだろうが、質問を準備してくる念の入った客なんて初めて見た。 「でも、僕は、聞いた話をその場で記録したいんです」 「日記や感想なら終わってからでいいんじゃないのか」  おかしなやつだと思いながらも表情には出さないよう努めていたが、男は美しい青の瞳を困惑気味に揺らす。 「いえ、その場で記録しないと。全部覚えておける自信がないから」  性行為に対する抵抗が強いのか、それとも不特定多数を相手にする娼婦に嫌悪感があるのか。ともかく、練習は一度で済ませたいらしい。娼館街の人間が言うことではないかもしれないが、賢明な男だと思った。 「たくさんは持っていないけれど、お金ならあります」  準備万端だという男をこれ以上引き止める必要もない。頭の中で何人か紹介する候補を挙げつつ、先導するため階段を下りる。 「そうか。なら、初心者向けの店に連れていくよ。あんた、アルファか」  第二の性の嗅ぎ分けは得意だ。第二の性に体臭の差なんてないけれど、一人一人の纏う空気から、ほぼ正確に察知できる。これもエミルの用心棒としての強みだ。 「はい。あの、なぜそんなことを?」  挙動が頼りなくとも、アルファ性の独特な雰囲気が消えることはない。アルファ性はしばしば支配者の性としてもてはやされる。歴史的に建国を成し遂げた王や覇者はそのほとんどがアルファ性だといわれていて、貴族や権力者も嫡男がアルファ性であることを切望し、妻が妊娠すれば教会に多額の寄付をして神に祈るのだとか。  アルファ性に生まれた者、特に男はその性を誇示するのが常だと思っていたが、どうしてかこの男は大きい声で言いたくないらしい。つくづく変わっている。 「発情中のオメガに近づけないためだ。今どきはどこの娼館も発情期のオメガをアルファに売らない――」 「ちょっと待ってください。娼館ってなんですか」  大慌てで遮られ、少々面食らってしまった。 「だから、お目当ての『船乗りの酒場』だよ」 「僕が探しているのは、船乗りが集まる酒場です」  真剣な表情で訂正されて、また面食らった。 「船乗りが集まる酒場?」 「はい。僕は新しい船を設計していて、航海の経験者に話を聞くために酒場を探しています」  筆記帳を開いて、船の構造図らしき絵を見せてきた男は、本気で船乗りを探していた。 「……酒場に行きたかったのか」  酒を飲んで気が緩んだ船乗りに、実地の経験を訊く。誰かに勧められてやってきたのだろうが、世間知らずが過ぎる。

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