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第3話

 その瞬間、あることが閃いた。 「ロイは僕の衣服を着られる体格だと思わないか」  興奮気味に言えば、ヘンリクは瞳を揺らす。 「殿下、まさか身代わりにしようなどと」 「そのとおり。ずっと考えていたんだ。どうにかして城の外に出られないかって。ロイが僕と似た背格好なのは、きっと神の思し召しだ。僕のような誰かがこの小屋にいさえすれば、僕は城の外へ出て、自分の目で造船所を見られる」 「しかし……」 「なんとかしてかつらを手に入れてくれ。髪型を同じにすれば、誰にも違いはわからないよ。この城にはもう、僕がどんな顔なのか覚えている人間はいないさ」  何年も静かに引きこもっているから、警備は小屋のそばで数人が退屈そうに立っているだけで、掃除や配膳にくる召使いも、アレクサンデルが挨拶をしようとしても、書斎にこもってばかりの陰気な男と言いたげな顔で目を逸らす。  この小屋に追いやられたのは十二歳のとき。もはや誰もアレクサンデルの容貌をはっきりとは知らない。躊躇いなくそう言ったアレクサンデルに、ヘンリクは一瞬辛そうな顔をした。だが、現状を打開したかったのは、ヘンリクも同じだったのだ。 「装飾用のかつらは、城内の購入者も多いはずです。手に入れるのは難しくないでしょう」  男女ともに貴族が装飾の一部としてかつらを被るようになって久しい。特に、アレクサンデルのような輝く金髪に憧れ、大枚をはたく貴族は少なくない。城に出入りする者の中には、第一王子アレクサンデルに暗黙の忠誠を誓う者も何人かいて、融通をきかせてくれるはず。造船や設計を学べたのも、そういった者たちの献身のおかげだ。  状況が把握できず困惑するロイに、早速自分の上着を渡す。 「これを着てみて」  王子の服を着るだなんて、想像もしていなかったに違いない。ロイは恐る恐る袖を通す。状況を理解できないままのロイには申し訳ないけれど、彼の混乱に反して上着の丈はちょうどよかった。 「ほら、髪型を同じにすれば、僕に見えるよ」  不安げなロイを背後から眺めれば、ヘンリクも満更でもないと言いたげな顔をした。 「ロイの新しい仕事は、僕の服を着て、僕に扮することだ」 「えぇっ」  数日後、手に入れたかつらを被り、衣服も交換した二人は、試しに召使いが食事を運んでくる時間にロイが書斎の机に向かい、アレクサンデルがロイの代わりに井戸水を汲みに出て、水差しに移し替えた。同じ空間にいても、召使いはアレクサンデルに気づきもしなかった。ただ金髪の後ろ姿が今日も今日とて机に向かっているのを、呆れたように一瞥するだけ。翌日もロイに扮して倉庫に行き、蝋燭を補充したが、俯き気味に歩いていれば、誰も気づかない。すれ違うのは召使いばかりで、皆自分の仕事と生活で頭がいっぱいなのだ。  初めて入った倉庫に興味が湧いてしまい、ぐるりと奥まで入ると、召使いを束ねているらしい年配の男の声がして焦った。 「庭のお方は?」 「いつもどおりですよ」  棚の向こう側で聞き覚えのある声が答えた。よく食事を運んできてくれる召使いだ。  アレクサンデルが小屋にいるかどうかは、こうして事務的に伝えられるだけらしい。訊ねたほうの男性も、簡素な答えに頷きもしない。  心臓が止まりそうだった。王子アレクサンデルという存在自体が、もはやなんの意味もなし得ないのだと実感させられ、頬を叩かれたような心地に陥る。  衝撃に揺れた頭だが、次第に冷静になっていく。そういえば、今日は春が訪れる直前に、冬が別れを惜しむ風を運んでくるといわれる寒気の日だった。冷たい空気を肺いっぱいに吸うと、頭が冴えてくる。  これは好機なのだ。机に向かう孤独な金髪の青年が小屋に居さえすれば、本物の王子アレクサンデルがどこで何をしていようと、誰も知ろうとしないことが証明できた。狙いどおり、身代わり作戦が決行できる。  翌日から、住み込みで働くロイを数日おきに城外へ遣いに出した。同じ外套と帽子を身に着け、何度も使用人の通用門を通ってもらった。早朝から深夜まで人の出入りが激しい通用門の警備兵は、わかりやすい外見的特徴だけで怪しい人間を弾かねばならない。最初は睨まれるように顔を見られたというロイも、同じいで立ちで出入りを繰り返すうちに、顔を見られることもなくなったという。  準備は整った。春を知らせる温かい風が吹いた日の夕方、アレクサンデルはロイに着てもらっていた帽子と外套を纏い、召使いに混じって通用門を通った。外套の内に筆記帳を隠して。警備兵の前を通るときは、無意識に息を止めてしまっていた。  駆け足になった鼓動が頭の中まで響いてくる。そう感じた瞬間、目の前がぱっと明るくなった。  視界いっぱいを、夕日の橙に照らされた城下町が埋める。通用門から続く一本道は通称小間使い通りと呼ばれ、労働階級の長屋式の小さな民家が並んでいる。仕事を終えた労働者や、日没前に少しでも多くの商品を売ろうとする露店主の声で忙しないのに、喧騒を初めて目にしたアレクサンデルにとっては信じられないほど輝かしく見えた。 「そんなところに突っ立っていたら邪魔だよ」  女性が苛立った声でそう言って、アレクサンデルの腕に肩をぶつけて追い越していく。よろけた先には荷車を引く老齢の男性がいて、間抜けな男だと言わんばかりの顔をされた。だが誰も自分を止めようとしない。  目の前には、現実と自由が広がっている。  新しい船を開発し、世界を誰よりも速く旅する夢に、一歩近づいたと確信した瞬間だった。         ***  ハイムルにおいて唯一大型船が接岸できる港は王都オスクにある。冷たい北の海と内海を結ぶ海峡に面し、北の玄関口としても貿易商船が多く寄港するこの王都は、春から短い夏、秋にかけて世界から輸入品と多様な人々が集まる、忙しなくも華やかな港街だ。  丘の頂に王家が住まう城が鎮座するオスクには、着飾った上流階級で賑わう煌びやかな社交場から、労働者の集う飲食店、そして『船乗りの酒場』と呼ばれる奴隷を売り物にする狭斜まである。一日のほとんど日が昇らない冬には、毎年賑わいを失うものの、厳しい寒さを耐えれば必ず、春の訪れを告げる南からの風が吹く。  雪解けの季節は誰もが浮き足立つ気分になるものだ。が、今年で二十三になるエミルは例年どおり春の訪れを達観した視点から眺めている。長期保存に適した食材をやりくりして過ごす長い冬が明けて、晴れ間が目の前に広がっても、嬉しいどころか鬱屈とした心持ちである。どんな商売も稼ぎどきをありがたがるのに、喜べないでいるのは、貿易船の出入りで目まぐるしい港から丘へと上る大通りを外れたある路地を進んだ先、古い長屋式の娼館が連なる通りが、エミルの家郷だからだ。 「今日はどれくらい客がくるかなぁ」  エミルと同い年の娼婦リタが、眠たそうに訊ねてきた。彼女が雑巾を絞りに顔を出した窓のそばで油を売っていたエミルは、さっき見てきた港の様子を伝える。 「二隻の船が入っていた。わりと大きな船だったけど、どっちも懐が温かいようには見えなかったな」 「そりゃ残念。やっと儲かる季節になったっていうのに。ケチな客はごめんだよ」  やる気をなくしたと言わんばかりに、リタはしぼった雑巾をだらりとぶら下げて奥へ入っていった。

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