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序章|式ノ庭
――なぜ、そうなったのか。
もし、理由があったのだとしたら、
きっと人は安心できたのだろう。
だから違う。
これは、理由を探して納得する話じゃない。
神木は、すでにそこにあった。
この家の庭は、神木を中心に造られていて、
道も石も水の流れも、最初からそこへ寄せられている。
いつからあったのかは、誰も知らない。
気づいたときには、
根は地を掴み、枝は空に触れていて、
触れた先の夜さえ少しだけ色を変えているように見えた。
その夜、白蓮は一人だった。
当主ではなく、
守護者でもなく、
まだ何者でもない。
名札のない空席みたいに家の中を通り抜け、
庭に立つ理由も、
立ち続ける意味も、
まだ与えられていないことだけが骨の内側で鳴っていた。
神木の根元は、空気が沈む。
音が吸われる。
時間が伸びる。
伸びた分だけ、戻り道が薄くなる。
白蓮は、そこに座り込んだ。
立っていられなかったというより、
立っている姿勢を続けることが急に嘘っぽくなった。
呼ばれたわけじゃない。
選ばれたわけでもない。
ただ、離れられなかった。
離れると、
いまの自分が一段だけ軽くなってしまう気がして、
その軽さが怖いとも言えず、
だから黙った。
神木の影が濃くなる。
影は形を持たないはずなのに、
その夜だけは違った。
濡れた墨が紙に滲むみたいに、
輪郭が浮かび、
浮かんだまま引かない。
人の輪郭が、影の中に出た。
最初から人ではなかった。
それでも人であろうとした形で、
骨の位置だけを借りて立っているみたいに、
ただ“そこにいる”。
それだけが重い。
白蓮は名を呼ばなかった。
呼ぶ名を、持っていなかった。
名を与えるという行為が、
ここから先を決めてしまう刃物みたいに思えた。
それでも、存在は留まった。
命じた覚えはない。
拒んだ覚えもない。
拒まれなかったことが許可になり、
許可になったものが形を得る。
その仕組みを、
白蓮はまだ知らないふりをしていた。
影は近づかない。
触れない。
ただ、そこにいる。
その距離が、
ガラス越しの景色みたいに冷えている。
冷えているのに、
目が離せない。
白蓮の視界が滲む。
恐怖ではない。
安心でもない。
選択に名前がつく前の、沈黙。
「……」
声にならない音が喉で止まる。
それだけで、
影は一歩、下がった。
その距離が、
後に“命令”と呼ばれることになる。
この夜、契約は交わされていない。
交換も成立していない。
寿命の話も、まだ出ていない。
ただ、一つだけ決まったことがある。
白蓮は、
その影を追い払わなかった。
影は、去らなかった。
それだけで、十分だった。
後に人は言う。
必要だったのだと。
均衡のためだったのだと。
だが。
その夜にあったのは、
制度でも、正しさでもない。
欠けた器の縁を、
指でなぞってしまったみたいな、
戻せない一瞬だけだった。
神木は、まだ花を咲かせていない。
それでも――
何かは、始まってしまった。
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