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均衡の庭 ― 主従の序曲 ― 1-1 前提

もし、今日が特別な日だったら。 違う。 そういう朝ではない。 特別という言葉は、あとから貼れる。 貼れてしまうから、私は朝のうちには触れない。 庭は、いつもと同じ順で目を覚ます。 神木の影が石畳に落ち、 露が縁をなぞり、 空気が一段階だけ軽くなる。 軽くなるのに、明るくはならない。 薄い膜が一枚、世界に張られるだけだ。 音は少ない。 鳥の声も、まだ届かない。 届かないことが異変ではない、 そう言い聞かせる必要がないくらい、 今日は静かだ。 私は白衣の袖を整え、庭に足を下ろす。 踏み出す位置は決まっている。 一歩目で石の冷たさを確認し、 二歩目で影を踏まない。 踏まない。 踏めない。 この順を変える理由は、ない。 理由がないことを確かめるために、 私はいつも同じ順で歩く。 神木は動かない。 動かないことが、役目だ。 幹の刻みは増え、枝は少し低くなっているが、 それは衰えではない。 時間の通過だ。 通過は、置き去りにしない。 通ったぶんだけ、必ず残る。 残るものを数え始めると、手順が遅れる。 水鉢を置く。 根元から少し離れた場所。 離れすぎても、近すぎてもいけない。 位置を測る必要はない。 体が覚えている。 覚えていることが、少し怖い。 怖いと名付ければ乱れるから、 私は水面だけを見る。 水面に薄く膜が張り、 指を離したあとも、形が残る。 残る時間を、数えない。 数えた瞬間に、 “残る”が意味になってしまう。 注連縄を確かめる。 結びは固い。 ほどけてはいない。 ほどけていないことを、確認するだけでいい。 紙垂は揃っている。 揃っている状態を、揃え直す必要はない。 風が入っても、揺れるのは端だけだ。 端だけが揺れる。 揺れても、中心は崩れない。 石灯籠の影に、弦がいる。 人の形を取っているが、 そこに立っているというより、 影が濃くなっているように見える。 見える、という言い方にしておく。 断言すると、庭が人の言葉に負ける。 弦は動かない。 命じていないからだ。 命じていないことに、意味はない。 そう言い切れたら楽だろう。 楽になることを望んだ時点で、 私は何かを捨て始める。 黒い布を広げる。 短刀。 小袋。 乾いた薬草。 それぞれを置く順番は決まっている。 順番を変える理由は、ない。 理由がないのに、 変えたくなる瞬間があることだけ、 私は知らないふりをする。 短刀は、まだ鞘に収まっている。 刃を出すのは、もう少し後だ。 今は必要ない。 必要ないと言える間は、 世界がこちらを見ていない。 私は祠から紙束を取り出す。 朱の印に欠けはない。 欠けがないことを、毎回確かめる。 確かめる行為が、手順の一部だからだ。 手順の内側にいれば、 私は私のままでいられる。 弦は、視線を落としている。 落とす角度も、同じ。 見ていないわけではない。 見る必要がないだけだ。 均衡は、保たれている。 保たれている限り、 判断は求められない。 判断が要らない。 それは救いじゃない。 ただの猶予だ。 私は筆を取らない。 まだ書くことはない。 書くことがないことを、 願っているのかどうか、 そこに触れると手が止まる。 神木の葉が一枚、落ちる。 落ちたことを、誰も気にしない。 それは異変ではない。 異変ではないものの中に、 異変は混ざる。 混ざるのはいつも静かで、 だから後から気づく。 今日も、準備は整っている。 整っているだけで、十分だ。 何かを始める理由は、ない。 終わらせる理由も、ない。 世界は、 今日も正しい。

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