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第1話

 12月24日、午前2時。敬信大学理工学部棟、藤堂研究室。  白々と明るいミーティングエリアで、藤堂圭は、壁面に投影されたスライドへ怜悧な視線を向けた。 「文字が小さすぎる」  ぴしり、と、鋭い一言。  視線の先では、スライドの制作者――秋吉悠也が、クリップボードを手に立っていた。今夜はこの2人だけが残り、ひたすらスライドの調整に明け暮れている。卒業研究の発表が、来月に迫っていた。 「特にスライド8、12、14のグラフ。最後列の聞き手のことを考えろ」 『氷の藤堂』の異名にふさわしい、容赦のない冷静な指摘。冷たく乾いた声も真っ直ぐに伸びた背筋も、日中とまったく変わらない。  悠也の手元で忙しなくペンが走る、その音に重ねて次の指摘が飛ぶ。 「次、スライド16、論理展開が甘い。根拠となるデータをもう一つ示せ」 「はい」 「スライド18、『示唆される』とは何だ? どこまでが『断定』でどこからが『推測』か、明確に切り分けろ」 「はい」 「スライド21、先行研究との比較データはどうした? 結果の新規性を伝えるには不可欠だと言ったはずだが」  鋭く悠也へ転じたシルバーフレームの奥で、圭の瞳がわずかに揺れた。  悠也はきらきらと目を輝かせ、楽しそうな笑みを湛えて真正面から圭を見つめていた。他の学生なら引き攣った表情で必死にメモを取る場面だというのに。 「すみません、抜けてました。すぐ修正します」  圭は思わず視線を逸らした。目元にうっすら熱が灯ったような気がしたのは錯覚に違いない。小さくため息をついて眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。 「あ。お疲れですね? もうとっくに日付変わってますもんね」  悠也が満面の笑みを浮かべ、さっさとクリップボードを閉じた。圭は呆れて視線を向け直す。 「違う。私の指摘を忘れるとはいい度胸だ、と思っただけだ」 「俺だって忘れることぐらいありますよ。今みたいにオーバーワークの時とか」 「せめてもっと恐縮しろ。仮にも指導教員の指摘だぞ」 「えー。ちゃんと恐縮してるけどなあ」  どこがだ、と緩く眉を寄せつつ、圭は諦めて資料をデスクへ放った。 「今日はもう閉店。これ以上やっても能率上がりませんよ」  圭の言葉を待たずさっさと自席へ戻る悠也を見ながら、また小さくため息が漏れた。悠也のペースに乗せられている自覚はある。しかし、それを振り払えない自分も、確かにいる。  まったく、と立ち上がりながら、ふと投げた視線が止まった。悠也が立っていたあたりに何か紙が落ちている。 「あ、それ」  屈み込んで拾い上げるのと、悠也の声が同時だった。  上質なフルカラーのパンフレット。『東都大学』の大きなタイトル。小さく鼓動が跳ねる。 「先週、久世先生と会ってきたんです。ほら、国会図書館行ってたでしょ。その時、ついでに、って思って」  悠也の声が少し高く、少し早口だ。  顔を上げ、その手にパンフレットを返しながら、圭は小さく笑って見せた。 「どうだった」  平静を装った表情も声音も完璧だ。安堵したように悠也も笑う。 「すごく刺激的でした。設備も最新鋭のが揃ってて、さすがだなって。卒研にもアドバイスいただけて、めちゃくちゃ面白かったです」  眩しいほどに期待に満ちた輝く声。悠也らしい、楽しげに弾む明るい声音は、圭がとても好むものだ。  それなのに。  胸の奥に、ちくり、と痛みが走る。  次の春には、悠也はこの大学を卒業し、東都大学の院生になる。  悠也が決めたことだ。そして圭は、その悠也の選択は百点満点で正しいと思っている。指導教員としても――恋人としても。  最初に悠也から相談された時、開口一番で『大賛成だ』と告げた言葉に嘘はない。悠也の研究は東都大学でこそ花開くだろうし、指導教員が恋人という歪な関係は一刻も早く解消すべきだ。本気でそう思っている。  なのになぜ、相談を受けた時から今もずっと、胸の奥深くで棘のような痛みが疼き続けているのだろう。 「そうか。お前なら、きっといい研究ができる。良かったな」  静かに答え、悠也に背を向ける。  ばかげている。学ぶ場所が他大学に移るだけだ。しかも電車で30分程度の。  壁のカレンダーの上で視線が止まる。12月。あと3か月で、悠也がいなくなる。棘の痛みが、刃に変わる。 「――……」  小さく頭を振った。永遠に会えなくなるわけではない。まったく論理的ではない自らの感情の意味がわからなかった。 「先生」  予想外に近くで呼ばれ、小さく肩が跳ねる。  悠也が背後に立っていた。気配に気づいていなかった。 「どうした」  振り向きながら反射的に引いた足が、スチール棚にぶつかって止まる。前に立つ悠也との距離は、拳ひとつ分。『教員と学生』として適切だろうか、とうろたえて揺れる圭の視線が、悠也の目に捉えられた。  真っ直ぐに圭を見つめる、ひたむきな光を宿した瞳。圭が大好きな――澄んだ黒の瞳。 「俺がここからいなくなったら、さびしいくせに」  確信に満ちた、静かな声。  言葉を失った。  さびしい。  ずっとずっと、悠也が外部進学を決めた瞬間からずっと、胸の奥底に刺さっていた棘の名前。  中途半端に薄く開いた唇が、微かに震える。  真っ直ぐに交わした視線の先で、悠也がわずかに瞳を細めた。体側に垂れた圭の片手が、素早く握り込まれる。  はっと圭の全身が硬直した。深夜で、他に誰もいない研究室とはいえ、ここは大学だ。 「! 秋吉、」 「わかってます」  慌てて振り解こうとするが、悠也の手の力は強かった。  熱い掌に包まれた指先が恭しく持ち上げられる。そして甲に触れる、柔らかな熱――悠也の唇。圭の頬が真っ赤になる。 「でも、だめ。もう限界。――帰りましょ先生」  言うが早いかさっさと身を離して帰り支度を始めた悠也に、圭は呆然と固まった。  ノートパソコンを仕舞いながら、肩越しに振り返った悠也が圭を見遣る。 「先生んち、泊まります。いいですよね?」  呆然としたまま、圭の顎がかくりと落ちた。

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