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第2話

 大学の正門を抜けると、深夜の冷気が容赦なく肌を刺した。  圭のマンションまでは大学から徒歩数分の距離。凍えるような寒さに、圭は思わずコートの襟をかき合わせた。  背後からは、1.5歩離れて悠也のスニーカーがアスファルトを踏む音が聞こえてくる。「指導教員と学生」という関係性を引きずった、中途半端な距離感。大学では、悠也は必ず、従順な大型犬のように控えめな距離を保ってついてくる。  小さく頭を振り、背筋を真っ直ぐに伸ばし直す。と、不意に、横なぐりに吹き付けていた風が遮られた。  視線を向ける。悠也が横に並んでいた。 「……!」  思わず小さく息を飲む。肩が触れそうな近さは、ずいぶん久しぶりだった。――「恋人同士」の距離を懐かしいと感じるなんて。 「へへ」  隣から、悪戯が成功した子供のような小さな笑い声が聞こえた。同時に圭の左手が、熱い掌にすっぽりと包み込まれる。 「……っ、やめろ。外だぞ」 「誰も見てませんって」  反射的に手を引っ込めようとした動きは許されず、悠也は楽しげに、ぎゅっと指を絡めてくる。  深夜2時過ぎの住宅街。確かに、二人以外に動く気配はない。世界には自分たち二人しかいないような錯覚さえ覚える静寂。  なぜか振り払えない。意味がわからない。ただひたすら落ち着かない。  一人惑う間も、かじかんだ指先に悠也の体温がじわりと染み込んでくる。  調子が狂う。密かに零した吐息は、マフラーに吸い込まれた。  やがて暗い夜道の先、白い明かりに目が留まった。毎日、行きと帰りに立ち寄っているコンビニだ。  圭の脳裏に現実的な問題が過った。 「明日の朝食がない」  自然に足を止める。  隣の悠也が、さも予想通りと言わんばかりに真面目な顔で頷いた。 「先生が『ない』って言うときは、マジでなんもないですよね」 「余計な分析はしなくていい」  新品レベルで空っぽの冷蔵庫を、悠也にはもう何度も目撃されている。事実なだけに言い返せず、圭は手を離して逃げるように明るい店内へと足を踏み入れた。 「いらっしゃいませー」  深夜の気だるげな店員の声と共に、視界いっぱいに赤と緑の色彩が飛び込んでくる。 「あー。そうか、もうイヴですね」  背後で悠也がぽつりと呟いた。  店内のそこかしこに飾られた、派手なクリスマスのPOP。天井からは雪の結晶のモビールが下がり、棚にはサンタが踊っている。BGMは有名な異国の女性シンガーが歌うクリスマスソング。  朝の出勤時に立ち寄ったときは、ここまでではなかった気がする。23日と24日でこうも気合の入れ方が違うものか、と圭は妙なところで感心しつつ、いつものサンドイッチとサラダに淡々と手を伸ばした。  クリスマス関連の商材には見向きもしないままレジへ向かうと、背後からすっと手が伸びてきた。かごを持つ手に微かに重みが加わる。 「?」  視線を落とすと、かごの中、地味な朝食セットの傍らに、可愛らしいイチゴが乗ったショートケーキ(2個入り)が鎮座している。  目を丸くしている間に、店員がさっさと商品をスキャンし始めた。  悠也に視線を戻すと、にっこりと笑みを返してきた。理由もわからず頬が熱くなる。慌てて正面へ向き直る。  店員の若い女性が、ケーキを取り上げながらちらりと二人を見た気がした。 ■□■  コンビニを出ると、再び冷気が肌を刺した。右手のポリ袋の中身がいつもより少し重い。中のケーキが傾かないように、圭は重心に気を付けて袋を持ち直した。 「クリスマスにケーキ、か。久しぶりだな」  思わず独り言のように呟く。悠也がちらと視線を向けるが何も言わない。その沈黙にどこかためらいを感じ取り、圭が小さく笑う。 「お前も知ってのとおり、この時期の研究室はクリスマスどころじゃない。……結婚していた時も、お互い研究者だったから、似たようなものだった」  表情を緩めたまま悠也に視線を向ける。 「お前は? にぎやかなクリスマスを過ごしていたんじゃないか?」  圭の問いかけに、悠也はふいと視線を逸らした。夜道に落ちる影が心なしか濃くなる。 「まさか。クリスマスなんて、全然楽しくなかったっすよ」 「そうなのか? 意外だな」  悠也なら引く手あまただろうに。  圭が小首を傾げると、悠也はにこりともせずに圭を見返した。熱を湛えた瞳が街灯を弾き、圭の鼓動が小さく跳ねる。 「……好きな人が、クリスマスも無視して研究室に籠もってるのを、遠くから見てただけなんで」  がさ、と小さくコンビニのポリ袋が音を立てた。  好きな人。  なぜか圭は慌てて視線を前へ戻した。 「それは、災難だったな」  誰のことだろう。  胸の奥へ重く落ちていく問いを握りつぶすように、袋を持つ指に力が籠る。悠也の過去が華やかな恋に彩られているだろうことは、圭も十分覚悟している、はずだ。  マフラーに口元を埋める。吐息が微かに震えるのは、寒いからだ。 「!」  不意に、悠也の手が、袋を持っていない方の圭の手首を強く掴んだ。  弾かれたように振り返る。怖いほど真剣な悠也の瞳とぶつかった。 「去年のこと。もう忘れてます?」 「――去年?」  目を丸くする。その間に、脳内が過去の記憶を検索し始める。  去年。  春に悠也と出会って、夏に一緒にプレゼンをして。  秋、実験機材のトラブルを契機に悠也への想いを初めて自覚して――自覚した瞬間、厳重に封印して。そして。 「あ」  冬。悠也からの連絡を完全に無視し、研究室に籠っていた。  手首を掴む指に力が籠められる。微かな痛みが走り、圭は小さく眉を寄せた。 「先生」  街灯の逆光で表情は見えない。だからこそ、声に滲む焦燥と渇望の響きに圭は息を飲んだ。 「去年の分も、今夜で全部取り返しますから」  返事を聞くよりも早く、悠也は圭の手首を引いて速度を速めた。半ば足をもつれさせながら慌てて後を追う。 「っ、秋吉、」 「鍵、出しといて」  低い命令口調。  マンションのエントランスは、もう目の前だ。

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