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第3話
靴を脱ぐ暇さえなかった。
背後から覆いかぶさるような衝撃と共に、圭は玄関の壁に押し付けられた。慌てて振り返ろうとした唇は即座に深く塞がれる。
「――ん…、ッ!」
ドアが閉じる金属的な音を傍らに、悠也の腕が圭の腰を逃げ場なく抱きすくめる。
待て、と言おうとした舌は、もっと熱い悠也のそれに深く絡め取られた。もがく圭の手からコンビニの袋が滑り落ち、鈍い音を立てて床に転がる。
「、…ん、ン…っ…、ッ」
舌がねじ込まれ、口腔を蹂躙される。飢えた獣が肉に食らいつくような、酸素ごと理性を奪い取る口付け。
苦しい。こんなところで。
思う間にも舌は翻弄され、零れる吐息に歓喜が滲む。
駄目だ。ここは玄関だ。まだ靴もコートも脱いでない。準備も何もない。
慌てて、攫われそうになる理性を懸命に引き戻す。
「あ、きよし、っ、待て……ッ!」
唇の隙間から、辛うじて制止の言葉を絞り出した。
「待てない」
口中に響いた囁きは、宣言だった。
「俺がどれだけ我慢したと思ってんですか」
熱を孕んだ低い声が圭の唇に触れる。重なる乱れた呼気は、どちらのものかわからない。
コートがフロアに落ちる。冷えた外気を感じる間もない。シャツ越しに這い上がる掌の熱に、ぞく、と圭の背筋が戦慄く。
我慢。いつから? ――いや、私だって。もう、ずっと。
思考の断片は意味を成さず、悠也を押し退けようとしていたはずの両手は、気付けば逞しく熱い背へ懸命に縋っている。
「ん、ッ!」
薄い首筋の皮膚に唇が触れる。きつく吸い上げられた刺激は懸命に堪えた。
「…、ぁ・あ、ッ」
しかし、擽る舌先と同時に直接胸先へ指がかかり、喉奥に飲み込んだはずの声があえなく零れ落ちる。視線を下げると、いつの間にかシャツのボタンが全て外されていた。カッと頬に熱が昇る。――こんなところで。
ぐ、と悠也の肩を掴む。
濡れた瞳が真っ直ぐに圭を見上げた。小さく笑っている。笑みを描いたままの唇が、ちゅ、と甘く圭の唇を吸った。
「言っとくけど。圭のせいだからね?」
吐息が触れるほど近くで、悠也が笑っている。
「なんの話だ、っ…」
答えたのはベルトの金属音だった。其方へ目を向けることなどできない。スラックスの下で、浅ましい肉体は誤魔化しようもなく悠也を求めている。だめだ、と、幾度繰り返したか知れない言葉が閃き、悠也の指を懸命に掴み止めた。
悠也が手を止め、圭の瞳を覗いた。
圭がとても好きな、ひたむきに光る黒の瞳――ではない。熱を湛え真っ直ぐに圭だけを映した、捕食者の瞳。ひゅ、と吸い込んだ息が圭の喉の奥で音を立てた。
また、唇が重なる。足元にベルトが落ちる。力の抜けた背に冷たい壁が触れる。
熱い指。竦む暇も与えられず、そしてその刺激は、圭が何より渇望していたものだ。
「ゃ、っ……ン、ぁあッ、…――ぁ、…!」
声を堪えることすら許してもらえなかった。夜は声が響くのに、と嘆く理性の声は遠く、熱い悠也の体温でかき消されていく。
■□■
「クリームが潰れてるぞ」
かつては美しいシェル型に絞られていただろうクリームをフォークで掬い取りつつ、圭は不満げに呟いた。
「味は変わりませんよ」
マグカップを二つ置きながら、悠也はにっこり笑った。香ばしいコーヒーの香りが漂う。
リビングには朝の光が満ちていた。以前は寒々しいほど何もなかったスペースに、今はラウンドテーブルとソファが置かれている。悠也が泊まりにくるようになり、さすがに寛ぐ場所がないのは不便だと二人で買いに行った。
そのまま傍らに膝を折る気配を感じながら、圭は無言でフォークを口に含んだ。まだ少し腰にだるさが残っている。途端に蘇りそうになった記憶を、甘ったるいクリームの味でむりやり押し込める。
そしてふと気づいた。
「…ケーキ、冷蔵庫に入れた記憶がないな」
「ちゃんと片付けました。ささっとですけど掃除もしましたよ」
付け足された一言は間違いなく余計だった。生々しい記憶が一気に弾け、頬が熱くなる。――まさか玄関で、あんなはしたないことを。
隣で悠也が小さく笑う気配がした。視線を向けることすら恥ずかしく、マグに口を付けて誤魔化す。コーヒーとクリームはよく合う。
「圭」
名を呼ばれ、反射的に顔を上げる。フォークに刺さったイチゴが目の前にあった。
無言の促し。この部屋にいるとき、悠也は時折こうして餌付けのようなことをする。
子ども扱いするな、と言おうとしてやめ、小さく口を開いてイチゴを咥える。甘酸っぱい果汁が広がる。見なくても、悠也が満足そうに目を細めたのがわかった。
「俺、たまに泊まりに来ます」
そのまま自分の前にあるケーキを切り分けながら、悠也がぽつりと口にした。
「……何のことだ」
「卒業した後も」
ふ、と息が止まる。胸の奥で、小さく棘の痛みが疼く。
「毎日…はさすがに無理だけど。毎週泊まりにきます。冷蔵庫、空っぽにしてないかチェックしますから」
またマグを取り上げた。以前はあまり飲まなかったが、悠也が淹れてくれるコーヒーは美味いと感じるようになった。
「東都大はお前のマンションのほうが近いだろう」
「たかが2、30分程度です」
「そうしてひと月2時間を移動で無駄にするのか。年間なら24時間だ」
沈黙が降りた。ちらりと視線を遣ると、悠也のかたちの良い唇が不平そうに尖っていた。あまり見たことのない表情に、思わず小さく笑ってしまう。
「…悠也」
目の前のイチゴをフォークで刺し、悠也の口元へ差し出す。圭からこうするのは珍しい。
悠也が目を上げ、視線を交わしたままでぱくりと咥えた。きゅ、と圭の深いどこかがあまく震える。なるほど、こういう心持ちになるものなのか。
空になった皿の上にそっとフォークを置いた。満足げに息を吐き、背後のソファへ凭れる。
「そんな約束はしなくていい」
自然に、そう口にしていた。悠也が問うように視線を向けてくる。
「お前を約束で縛りたくはない」
「違うよ、圭。俺は『縛られてる』なんて」
「今はそうかもしれない。だが、四月以降もずっと同じ熱量で同じように思うと、断言できるか?」
悠也が沈黙する。不平、というよりもう少し重い感情がその瞳に揺れた。
「でも。俺、圭をさびしがらせたくないです。昨夜 みたいな顔、させたくない」
ケーキの最後の一切れが悠也の口の中へ消える。フォークを置く音が、普段より少しだけ高い。
昨夜何かあっただろうか、と探るまでもなく思い当たる。――『俺がここからいなくなったら、さびしいくせに』。そう言われて言葉を失った。あの時自分はどんな顔を見せていたというのか。
「俺がそうしたいんですよ。東都大へ行くって決めたのは俺の我侭だから」
思わず悠也を見直した。そしてようやく理解する。悠也が、圭の『さびしい』に責任を感じていることを。反射的に小さく頭を振る。
「それは我侭とは言わない。お前は、研究者として独りで立つ道を選んだだけだ」
「――……」
悠也が圭を一瞥した。どきり、と小さく圭の鼓動が跳ねる。見たことのない顔をしている、気がした。
「そんな立派なもんじゃないんです。圭が俺の前で『先生』の顔するの、もう耐えられない。だから」
それきり黙り込み、マグに口を付ける悠也の横顔を見つめる。今年の春、正式に研究室に入ってきて以来、ほとんど毎日この顔を見てきた。だというのに、目の前の横顔はひどく大人びて見えた。
気づけば無意識に手を伸ばし、悠也の頬に触れていた。その左の目尻にぽつりと刻まれた小さなほくろを、愛しげに撫でる。
「お前が教えてくれたんだ」
悠也が振り返る。訝しげな表情を見ながら、自然に口端が小さく綻んだ。
「私が『さびしい』と思っていること。…こんな気持ちを、今まで私は知らなかった」
そう、結婚していた時も――離婚した元妻にすら、感じたことのない気持ち。口にすると、胸の奥の小さな棘が、じわりと溶ける気がした。
悠也が不意に腕を伸ばした。気づけば深く抱き寄せられている。鼻先が悠也のパーカーの胸元に埋まる。
「さびしいの、嫌でしょ?」
問われて、沈黙した。
深く息を吸う。同じボディソープの香りの向こうに、かすかな太陽の匂い。悠也の匂いだ。また、胸があまく締め付けられる。
「…わからない」
正直に答えた。悠也の驚く気配が伝わる。
「もちろん、快い感情ではない。…だが、不要なものではない気がする」
それ以上、言葉が続かなかった。『さびしい』の先に何があるのか。まだ、うまく掴めない。
沈黙。考え込む。――やっぱりわからない。でも。
無意識に滑った手が、グレーのパーカーの胸元に垂れた紐を、きゅ、と握った。
「お前が、いるから」
小さく、呟きが零れた。
自分でも何を言っているのか意味不明だった。これでは混乱させるだけだと諦めて視線を上げる。
と、悠也がじっと圭を見ていた。目尻に薄く血の色が昇っている。きれいだな、と、圭は瞳を細めた。
「……!」
何かを堪えるように息を飲んだ気配の後、しかし結局は食らいつくように唇を塞がれた。ぞく、と、背筋を甘い衝動が駆け上がる。その衝動のまま、悠也の舌に応えようとして。
ふと気づいた。
「時間!」
は、と身体を離し、二人の視線がキッチンカウンターの上に置かれたデジタル時計に向く。圭は慌てて立ち上がった。
「いや、今日は土曜日だから、遅刻とか別にないんじゃ…」
「駄目だ。ルーティンを崩すのはよくない」
悠也のため息を尻目に、手早く身支度を整える。
クローゼットから上着を引っ張り出してリビングに戻ると、洗面所から出た悠也が、のろのろとカバンを肩から提げるところだった。
「じゃ、俺、先に行ってますね」
いつからか、別々に部屋を出るのが当たり前になった。休日だろうと、大学の近くで二人並んで歩いているところを見られれば面倒なことになる。
いつものようにリビングから出ていこうとする後ろ姿。
いつものようにその背へ、後でな、と声をかけようとして――
『圭が俺の前で『先生』の顔するの、もう耐えられない。』
不意に、悠也の言葉が脳裏に閃いた。
この部屋を出れば、圭は『先生』だ。そして悠也は研究室の『秋吉』になる。圭の隣で圭を抱き締め、圭を『圭』と呼ぶ悠也が、いなくなってしまう。
ちくり、と、溶けたはずの棘の痛みが蘇った。これまでは研究に戻ることで忘れられた微かな痛み。今の圭は、その痛みの名前を知っている。
さびしい。
その正体は、喪失だ。失うことへの痛み。そして、それはそのまま――失いたくないほど大切なものが、圭にはあるという証拠だ。
「――……」
圭は、一人立ち尽くしたまま瞳を瞠った。
そうか、と、爽快な理解が身の裡を満たす。
さびしい、と感じられることが、既に幸福なのだ。
『圭』と呼ぶ声。
抱き包んでくれる体温。
分け合うケーキの甘さ。
輝きに満ちた記憶のかけらが、胸の奥に棘を残すのだ。
「行ってきまーす」
甚だ覇気に欠ける声と、リビングのドアが開く音。はっと我に返る。
「悠也」
気づけば呼び止めていた。その自分の唇がわずかに笑っていることを自覚する。
理解できれば話は簡単だった。失ったのなら、また作ればいい。さびしくなるほどの輝く記憶を。
「…圭?」
振り返った悠也が、圭の顔を見て目を丸くした。
小さく咳払いをする。あらためて口にするには、少し勇気が必要だった。
意を決して向き直る。指先で眼鏡のブリッジを押し上げる、いつもの癖。
「毎週、という約束は頻回すぎる。だが、年一回なら難度が下がるだろう。遠い予定であればスケジュールを空けておくのも容易だ」
「……へ?」
悠也が訝しげに小さく首を傾げた。見ないふりをして続ける。
「ただ、コンビニで直前にケーキを調達するのは、供給が不安定だし時間の浪費だ」
「…ケーキ?」
悠也の眉間のシワが深くなる。大抵のケースでは、一を聞いて二十も三十も理解するタイプなのだが。
圭の眉間にもシワが刻まれる。頬が熱い。
「つまり――来年のクリスマスに関しては、ケーキの需給状況を鑑みるに、あらかじめスケジュール化しておいたほうがリソースを無駄にしなくて済むと思わないか」
真っ直ぐに見返してくる悠也を見ていられず、視線は中途半端にラグの上をうろつく。
沈黙。頬どころか耳も首も、頭部全体が燃えそうだ。
やがて、短い笑い声が弾けた。
「……つまり、来年のクリスマスはケーキを予約しよう、と」
悠也の声に、隠しきれない歓喜が滲む。
「来年のクリスマスも一緒に過ごそうってお誘いですね?」
完全ににやついている。圭は殊更に口端を引き締め、悠也を睨むように見返した。
「タスクのスケジュール化、だ」
「はいはい。圭が好きそうなパティスリー、死ぬ気でリサーチします」
悠也が大股に圭の元へ引き返す。素早く顎を取られ、抗う間もなく、唇にちいさくあまい刺激が触れる。ちゅ、と微かな音。
「来年も、再来年も、その先もずっと――圭の予約、俺が独占しますから。約束ですよ」
視界が、太陽のような悠也の笑顔でいっぱいになる。圭の大好きな、眩しい光。身体の奥深くから温かいなにかが込み上げ、息が詰まった。
来年も、再来年も、その先もずっと、この笑顔といっしょにいたい。さびしくなるほどの輝く記憶を、ずっといっしょに作っていきたい。
「待て」
すぐに離れようとした悠也の背を、圭の腕が珍しく引き止めた。
ぎゅっと抱き締め、顔を寄せて唇を重ねる。先刻の悠也のそれよりも少しだけ長く、少しだけ深い。
「――、」
音もなく啄んで離れると、瞬きを繰り返す悠也がいた。
「なんだ、その顔は」
驚いて自分を見つめる悠也がひどく愛おしく、圭は楽しげに声を立てて笑った。
<了>
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