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第1話

シンクに置かれた中身のない空のポット。 床の至る所に散乱するたくさんのごみ。 脱ぎ捨てたままの転がる服をそのままに、 積み上げられた食器の中を鈍く反射する包丁を抜き、懐に忍ばせ歩く。 通い慣れた高層ビルの扉を潜り、渡された鍵で施錠を解除し中に入る。 暗い廊下を進み、見えてきた真っ白なソファへ腰掛け、ニュースを読み上げるテレビを聞いているのかもわからない、ただスマホを流し見る後ろ姿に忍び寄った。 少しでも、はやく——あの子を、取り戻さなければいけない。 あぁ、…今日こそは、殺さなければ……。 頭に浮かぶのは、そればかりだった。 握りしめ取り出した包丁を逆手に持ち、振り上げながら「死ね…!このクソ男…!」勢いよく振り下ろす。 だが、それも振り上げた腕をつかまれ、身体ごと、ソファの下へ引き倒されてしまった。 鈍い音を立てながら打ち付けた頭を抑えることもなく、ただ床へ投げ出された包丁を見つめる。 「こんばんわぁ♡ あぁ、うーん、惜しかったねぇ。 とりあえず、これは没収〜。さぁ、呑もうか」 余裕綽々の様子で、落ちている包丁を遠ざけ、 上着のポケットから何かを取り出しながら、 自分に近付く男から逃れるために、ズキズキ痛む全身を引きずり縺れた足で玄関へ這いずったが、 「チッチッ。 …駄目でしょ、逃げたら…ねぇ?」 両足を引き摺られながら元の場所へと戻されてしまった。 カエルのようにひっくり返された身体の上を男が、容赦なく全身の体重をかけながらのしかかるせいで、身体が軋み酷い痛みを感じ「痛い!痛い!」 ただ叫ぶように訴える。 それを醜悪な笑みを浮かべたまま舌なめずりをし、見おろし透明な瓶を取り出す男に、両手で口を抑え首を振った。 見せつけるように近づけられる瓶の中にあった無慈悲な色をした大量の白い錠剤が、 男の手のひらで、ころころと転がされながら近づけられていく。 「約束は守らないとねぇ?あ~、…かわいそうに。 もし俺を殺せてたならーーこんな目に遭わなくても済むのにさぁ。」 「失敗したんだから分かるだろ、なぁ?」 全身の汗が止まらずうまく呼吸もできないまま、 ゆっくり震える手をどけ、教えられた通りに大きく口を開けた途端に流し込まれる錠剤が、渇いた喉へ引っかかりうまく飲み込むことができなくて、 「は、は…」 迫り上がる異物感と焦りから呼吸が、さらに荒くなり視界が滲みはじめる。 何が楽しいのか、ニタニタ笑い続け、見下ろしていた男がテーブルの上に置かれた水を手に取り、注ぎ込む。 突然のことに咳き込み、吐き出しそうになる口を上から押さえてくる。 口の中から錠剤が溶け出してなくなる頃には、 頭の中を覆う雲のような不安や沸き起こる怒りが、 すべて何処かへ飛んでいく。 ただ何もかもがうまくいくと思わせる傲慢にも近い自信や神のような全能感が身を包み込む。 どうしてこんなところへ来たのか?  何かしなければ、いけないことがあったような…。 なにもわからないまま、笑みを浮かべ、転げながら床に溢れた錠剤を拾い口へ運ぶ。 その間もソファへ腰掛けながら長い足を組み、 自分を見下ろしているのは、一体誰なのかもわからなかった。 全身が冷えていくのに対して、高まり続けていく気分に目の間の人間に手を伸ばし、 細い見た目に反して骨張る、ゴツゴツとした柔らかくもない手を握り締める。 ぐるぐる、回りはじめた視界が暗転していく。 翌朝 吐瀉物やよくわからない液体が混ざり合い、大量に散乱し身体へ纏わりつく。 くらくら揺れる視界で、どうにか両手をつき立ち上がり、身体についた汚れを床に落とす。 「あ~あ。 綺麗にしてあげたのに、さぁ。 はい、これ。 お着替え、お風呂入ってねぇ」 手渡された服を静かに受け取り、汚物まみれの身体で、床をべぢゃベちゃ汚し、見慣れた浴室に向かう。 脱ぎ捨てた服を置かれたゴミ箱へ捨てる。 頭、頬についた吐瀉物をシャワーで流し、臭いが取れるまで洗い続け、新しい服へ袖を通す。 そのまま玄関の扉へ手を掛け、背後で気色の悪い笑みを浮かべているだろう男に、 「お邪魔しました…。」 虫の息を吸い込んで、嗤えるほど頼りない声を絞り出す。 一言も話したくないが、あとでどんな目に合わされるのか分からない。 「また、来てねぇ。 はやく、取り返せると良いねえ…? ま、無理だろうけど」 奪い取りたい部屋の鍵を左右に振る男に、 必死に歯を食いしばりながら耐えぬき、 その場をあとに自宅へ急ぎ、会社へ出勤した。 普段通り、仕事を始めていく。 だが、頭に浮かぶのは、あの男からあの鍵を奪い取るか、扉のついた部屋を開ける。 それだけが頭の中でずっと浮かびつづける。 ああ、早くしなければあの子が、 …こんなことをしてる場合じゃない…! 焦る気持ちを抑え、どうにか仕事を終わらせ席を立つ。 退勤5分前に新しい仕事を任されてしまい、断り切れず、結局、1時間の残業をし退勤する。 息を切らし自宅に向かい、 今度は、工具箱を開け、取り出した鉄製のレンチを持つ。 また男の部屋へ侵入し、今度はベットへ寝転ぶ男に何度も振りかざす。 はぁ…はぁ…荒い息を吐いているのは、自分だというのに、他人事のように感じながらもただ死んでくれ…! 願いを込めて目を瞑り、力の限りぶつけていく。 「…ほんと…お馬鹿だねぇ」 次の瞬間、背後からの冷めた声と同時に自身の首へ長い針が突き刺さる。 身動きも取れないまま、注射器の液体が、 冷たく血の気を引かせ、血管を流れていく。 自分の身体も途端に力が入らなくなり、硬い床へと倒れ込む。 そんな、たしかにこの男はベットで寝ていたはずだ。 信じられない思いで、空の注射器を持ち、 傍に屈んだ男を焦点の定まらない視界で捉え、失敗の理由を考える。 「はぁ、俺はトイレにいたよ。 …ほぉら、よくみて。 ここには、枕に、布団しかないでしょ」 注射器を投げ捨てた男に、首根っこを持ち上げられ力の入らない身体で見えた先には、丸まった布団からはみだした長身台の枕が覗く。 そのままベッドに転がされ、沈むような寝具の柔らかさ、吐き気のする男の甘ったるい砂糖菓子のような匂いが纏わりついていく。 ベッドに腰掛けた男が、 「あぁ…かわいそ。次、頑張ろうねぇ」 愉悦を滲ませた声で耳元に囁きかけてくる。 あぁ、…食べられるのはいつだって自分のほうだ。 己のとんだ間抜けさを恨みながら、押し込まれた錠剤に、また意識がとんでいった。  気怠く重たい身体を起こし、姿の見えない男の部屋から自分の家へ戻る。 仕事に遅れないよう、着替えだけを済ませ出社したが、全身に纏わりつく不愉快でたまらないあの臭いが少しの動作でも鼻につく。 どこにいても男の顔を思い出させる。 苛立ちや焦りで固まる手を動かし仕事を終わらせていく。 近くの店で、この忌々しい匂いを塗りつぶせるものを買いにいかなければ。  …少ない休憩時間をあんな男のために、 使いたくはないが、到底耐えられない。 鞄から革張りの財布と真新しいスマホを持ち、 捲れた袖をそっと直し、席を立つ。 「なぁ、瀬戸! お前、どっか行くならさ、 これも買ってきてくんね?」 出入り口に向かう途中、横を通った同期の原からメモを渡された。 ちらりと見た原のデスクは、山積みになった書類が紙の塔を作り上げている。 「分かった、頑張れ原」 「おお~…、助かるよ瀬戸」 受け取ったメモをしまい、会社の近くのコンビニで、原の昼飯と手に取った消臭スプレーを購入し 入り組んだ裏路地に向かい、何の匂いかも分からないスプレーを纏わりつく匂いが消えるまでつけ、 会社に急いで戻り、デスクに向き合ったままの原へお釣りとともに頼まれた品を渡す。 「さんきゅ、瀬戸 お、珍しくおしゃれな匂いつけてたと思ったら、 今度は、違う匂いになったな」 「あぁ、気に入る匂いじゃなかったから、変えたんだ。 それより、仕事…終わらなくなるぞ。」 「やべっ、また頼むわ瀬戸」 受け取った原の言葉に、動揺を隠しながら書類へ 目を通す。 ようやく退社した頃には、空に星や目映い月が広がる。 それでもまた男を殺しにビニール紐を持ち、グラスを片手にテレビを眺めている首の前に紐を通す。 歯を食い縛り、力強く紐を引っ張り絞める。 握っていたグラスを男が落とし、床に中身が溢れ、足元まで赤い色を拡げていく。 ぴくりともしない男に、摩擦で傷ついた手から、 紐を手放し深く息を吸い込んで足を踏み出す。 ビニール紐の跡が付いた男の首から目を逸らし、 ソファの上に投げ出されたままの手首を持ち上げ、ただ死んでくれと考えながら握った。 「…残念だったねぇ。 今日も失敗だ、かわいそうに」 咄嗟に男の上に乗り、無防備な首へ両手を伸ばした。 だが、伸ばした両手を取られ、押し倒された自分の身体に重くのしかかる男で息も吸えない。 そのまま首に添えられた手が、じわじわ、喉仏を押しつぶしていく。 恐怖と食い込む指で吐き出すこともできない。 ただ目の前が遠く霞んでいく。 自分は、死ぬのか、まだなにも取り戻せていない。 「よしよし、これでお揃いだね。」 そんな言葉とともにあっさり手が退けられ、 肺に送られてきた酸素に、何度も咳き込みながら激しく息を吸う。 薄ら笑顔を浮かべ、見下ろす男の下から抜け出そうと身体をよじる。 まるで、自分が鳥に捕らえたれた芋虫のように、 男が乗り上げた部分だけが動かない。 「しっー。…ほら、大人しくしな」 藻掻き暴れるのも気にした様子もなく、瓶の蓋まで詰められた三原色のカプセルを取り出し、手のひらの上で転がしている。  「好きな色、選んで良いよ。 あぁ、もちろん。 選べないなら全部、あげるからさ心配要らないよ」 くそったれ、…どれも最悪で選びたくなんかない。 しかし、このままでは、…本当にすべて飲まされるだろう。 情けなく震える手で、青の錠剤を口に入れる。 「はい、もう一つ」 渇いた口で飲み込んだのを見ていた男が、 瓶から取り出した青色のカプセルを指で掴み、 薄く開いた口へ指ごと差し込んできた。 「うえっ、げ…ほ、」 遠慮のない行為にえづいてしまい、男の指ごと押し返すようにすべて吐き出してしまった。 顔を背け溢れてくる唾液に、消化が進んで液体とかした昼食に紛れ、飲みきれなかったカプセルが床に溢れ、落ちていく。 あぁ、他の色にしていれば…バレなかったかもしれないな。 他人事のような囁きが頭をよぎっていく。 「悪い子だ。 次はしくじるな」 底冷えする眼差し、重く伸し掛かる声に何度も頷く。 口の中が見えるほど大きく開き、近付いてくるカプセルが舌の上に落とされる。 えづく喉に口を押さえ、飲み込む。 どれほど時間が経ったのかすら分からない。 たくさんの色で囲まれ、置かれたものが縦にも横にも伸びては縮んでいく。 まるで不思議の国にいるようだ。 自分の着ているシャツのボタンを1つずつ、 丁寧に外していく男の顔が、眩しく光る色に邪魔され、何も見えない。 伸ばした手も宙を描き、周りの景色も暗転する。

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