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第一話:弓削「日々の生活を乱す存在」
『CEO、報告は以上となります』
「わかった。マクラータ社には、私から話を通しておく」
『あとは、イメージによく合う目を引く写真が見つかるといいのですが』
「土日のうちに、そっちも考えておくよ」
『はい。お願いいたします。でも休日はできるだけ、お休みくださいね』
「君も、良い週末を」
秘書とオンラインで打ち合わせをしながらも、どこからか漂ってくるΩの甘い匂いに、何度か気を取られそうになった。
こんな山奥に、いったい誰が迷い込んできたのだろう……。
「αは鼻がいい」と言われているが、二十歳を超えた辺りから、私のΩを感知する嗅覚は、日常生活に支障をきたすレベルに鋭くなってしまった。
抑制剤が広く普及している昨今、ヒートなんてものを起こすΩは、存在しないに等しい。
それでも私は、彼らが纏う、微量の甘く淫靡な匂いを嗅ぎとってしまう。
しかも広範囲に渡って……。
それらは、私の集中力を削ぐ要素となる。
複数の耳鼻科医に診てもらったが、残念ながら治療して改善するようなものではなかった。
五年前、三十歳のとき。
標高の高い山奥に、シャレー調のカントリーハウスを建てた。
大きな身体に見合う、大きな家だ。
そしてその家に、たった一人で移り住んだ。
幸いなことに、仕事はオンラインで世界各国とやり合うことができる。
むしろ、余計な会食や接待が減った分、効率は上がったと言ってもいい。
食品や日用品は、麓の村からドローンで配達してもらっている。
つまりこの五年間、私は誰とも直接会っていない。
この上なく、快適な暮らしと言えるだろう。
そんな私の生活を邪魔し漂ってくる、五年ぶりに嗅ぐ、匂い……。
どこぞのΩが、この山から早く出て行ってくれることを祈って、ベッドに入る。
ブランケットを頭からかぶり、しかし、そんなことで薄れたりはしない匂いを、意識しないように努めながら目を瞑った。
最悪なことに下半身が微かにうずき、なかなか寝付けなかったが、寝しなに飲んだブランデーのお蔭で、日付が変わる頃、微睡みが訪れた……。
—
翌朝になっても、匂いは変わらず漂っていた。
昨日の昼過ぎから気になりだしたから、もう二十時間近く、この山に留まっているということになる。
紅葉はそろそろ見納めで、雪が舞い始めてもおかしくない季節だ。
キャンプでもしているのだろうか?
いや、テントを張るのに適した場所は、ここから一時間ほど歩けば、いくらでもある。
迷い込んで、怪我でもして、動けずにいるのかもしれない……。
一人ぼっちで、心細くうずくまっている姿を思い浮かべてしまう。
寒くないだろうか。
食べるものはあるだろうか。
なんの打ち合わせも入っていない土曜日の朝、朝食のチーズオムレツを焼きながら、そんなことを考える。
こうして、見ず知らずのΩに心を乱されるのが、私のもっとも嫌うことなのに。
小麦のよい匂いがするパンをトーストし、香り高い紅茶を淹れる。
それでも、それでも……。
どこからか漂うΩの甘い匂いは、私の心をそぞろにさせる。
タブレットで天気予報をチェックした。
もう少ししたら、冷たい雨が降り出しそうだ。
「あー、もう!腹立たしい!」
食事を中断し、マウンテンパーカーを羽織った。
トレッキングシューズを履き、玄関から外へ出る。
大きく深呼吸すると、匂いは東にある渓谷のほうから漂ってくることが分かった。
私はそちらに向かって、大きな歩幅で歩き始める。
自分の中にある「この匂いをもっと嗅ぎたい」という気持ちを、押し殺しながら。
分厚い雲に覆われた渓谷への道を進んだ。
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