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第九話:弓削「理性と本能の闘い」

まだ暗いうちに目が覚めた。 隣で眠るルカをベッドに残し、私はキッチンへ移動する。 今、彼から漂う匂いは、谷底で会ったときと同じレベルまで落ち着いている。 抑制剤が効いたのだろう。 だからといって、私が彼を思う気持ちも同じように落ち着いたかといえば、そんなことはない。 厄介な話だ……。 コンロに火をつけ、湯を沸かす。 私はそれをじっと見つめて過ごした。 湯が沸いて、シューシューと勢いよく湯気が吹き出す。 火を止めるでもなく、ただただそれを眺めてしまう程、頭の中は色々なことを考えていた。 数時間後には、ヘリコプターがルカを迎えにくるだろう。 私がこの山奥に暮らす以上、二度と会うことのない別れになるかもしれない。 ただ、彼に貸したノートパソコンは、その後使われた形跡がなかった。 つまり、彼はコンテストにエントリーしなかった。 あの写真を、我が社が使わせてもらえるのならば、ルカとのビジネスでの繋がりは残るはずだ。 目を閉じると、彼の白い首筋が思い浮かぶ。 欲望に任せ、噛んでしまえばよかったのだろうか? 私の番にして、この家に閉じ込めてしまえば、よかったのだろうか? 出会って今日で三日の未来ある青年に、こんなにも恋焦がれた気持ちになるのはおかしいと、私の理性が言っている。 しかし、それこそがΩとαである所以なのだと、私の本能は言っていた。 — 「おはよう、ございます……。ヤカン、沸騰してますよ……」 突然声をかけられて、私は慌てて火を止める。 「お、おはよう。気分はどう?熱は下がった?」 手を伸ばしてオデコを触ってやればいいのに、理性と本能が闘っていて、手も足もでない。 「熱は下がったと、思います……」 「そうか、よかった」 二人の間には、沈黙が横たわる。 窓の外は、だんだんと明るくなり太陽が昇ったのがわかった。 どうやら雨も止み、晴天の一日になりそうだ。 — ルカに、洗濯が済んだ彼の洋服を返した。 乾かしたリュックと、充電しておいたスマホも。 それから、私の秘書の名刺を渡す。 「写真を買い取らせてもらう使用料については、秘書から連絡を入れる。少なくともコンテストでグランプリを受賞した場合の賞金よりは、多く支払う。それから、撮影者としてルカの氏名を必ず明記する」 ルカには良い条件だと思ったが、彼の可愛らしい顔は悲しげに揺れたままだ。 「ルカ、要望があったら言って欲しい。条件を提示してくれれば、できるだけ考慮するから」 ポロポロッとルカの瞳から涙がこぼれ落ちた。 「ルカ」 思わず彼の名を呼んで駆け寄るけれど、抱きしめることはできない。 「もう、抱きしめてはもらえませんか?」 涙声でそう訴えてきた。 「昨日の私は本能に負けて、君を抱いてしまった……。すまなかった」 「謝ってほしいなんて、僕は、僕は、思っていないっ!」 取り乱すルカに風呂に入るよう伝え、私は事務的にヘリコプターが来る時間を告げた。 — ヘリコプターはこの家から五百メートル程離れたところへ着陸する。 「お世話になりました」 ルカは感情を消してしまったような無表情で、私に頭を下げる。 「気をつけて」 私は理性を保って家の前に立ち、彼がヘリポートへ向かって足を引きずりながら、ゆっくりと歩くのを見送った。 五十メートル離れ、百メートル離れても、まだ彼の姿が見える。 二百メートル、三百メートル離れると、その姿は時々木々に隠れてしまう。 それでもまだ、ちゃんとルカの匂いが漂ってきていた。 胸が苦しいのはなぜだろう。 息ができなくなりそうなのは、どうしてだろう。 それはルカと物理的に離れてしまったからだ。 番になれるかもしれなかったルカと、もう二度と会えないかもしれないのだ。 αの本能が、悲鳴をあげていた。 私は突如走り出す。 彼に向かってまっすぐに、全力で走る。 「ルカーーーー」 声が届き、ルカが歩みを止め振り返った。 「ルカー!」 彼も、まだ痛いだろう足を引きずって、引き返してきてくれる。 「ルカ、ルカ、ルカーーー」 「弓削さん!弓削さーーん!」 息を切らしながら彼に追いつき、勢いあまってぶつかるように、抱きしめる。 ルカはバランスを崩し、二人して野原の上に転がった。 ルカは笑っていた。 痛いだろうに、うれしそうにニコニコと笑顔を見せてくれる。 「こうして、弓削さんに抱きしめて欲しかったから」 本能が勝ってしまった私は、もう躊躇ったりしない。 ルカの唇に、しっかりと自分の唇を重ねた。 下唇を喰み、彼の口内を舐め、その甘美さを味わう。 「んっ」 鼻に向けるような声で、ルカが声をもらした。 「ルカ、続きをしたい。今すぐにでも。でも、今日は帰りなさい。ヘリコプターに乗って」 「弓削さんは?」 「近々、私もこの山を出るよ。そしたら都会で必ず会おう」 「その時には、……番にしてくれますか?」 「あぁ、もちろん。もう離したくない」 私たちはもう一度抱きしめ合う。 そして、ルカに手を貸し、彼をヘリポートまで送り届けた。 上空に飛び立った彼に、いつまでもいつまでも手を振り続けた私は、家に戻ってすぐに、引っ越しするための荷物をまとめ始めた。 (完)

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