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第1話

悠と同棲を始めて、十年が過ぎた。 僕にとって、人生の中で一番「穏やかに続いている時間」だ。 朝は、悠の目覚ましより少し早く起きる。 コーヒーを淹れ、トーストを焼く。 悠は寝ぼけたまま起きてきて、何も言わずに椅子に座る。指先でカップの縁をなぞってそれで終わり。 「おはよう」 「おはよう」 それだけの会話。不満はなかった。少なくとも、最初のうちは。 悠は、優しい。声を荒げないし、感情をぶつけてくることもない。生活は整っていて、約束も守る。 僕を否定することも、軽んじることもない。だからこそ、時々、分からなくなる。 僕は、この人に本当に愛されているのだろうか。 そんな疑問が浮かぶたびに、自分が欲深いのだと思い直す。 愛されている。それは事実だ。でも、その愛は、いつも「触れない距離」にある。 悠は、抱きしめても、強く引き寄せない。肩に指が触れても、途中でほどけるように離れる。 キスをしても、痕を残さない。僕がいなくなっても生きていける、そういう余白を、最初から残している。 それが、淋しかった。 でも、その言葉を口にすれば、きっと悠は困った顔をして、考えてしまう。 どうすれば僕を不安にさせず、生活を壊さないか。 どうすれば「正しく」愛せるか。それを理解している。だから、言えなかった。 その日、久しぶりに悠の父に会うことになった。 「たまには会いに来いってさ」 悠は、いつも通りの調子でそう言った。 「そっか」 それだけを返す。胸の奥で、少しだけ何かが動いた。秋頼は、悠とは違う。声の出し方、間の取り方も。初めて会ったときから、この人は、僕を「見ている」と感じた。評価でも、観察でもない。ただ、存在をそのまま受け取る。 「絢聖君」 その呼び方が、少しだけ特別に感じられて、それを自覚してしまう自分が、怖かった。秋頼の家は、昔と変わらず静かだった。戸の閉まる音が、余計にしっかり響く。 「久しぶりだな、絢聖君」 「ご無沙汰してます、秋頼さん」 言葉を交わすだけで、空気が落ち着く。秋頼は僕の返事を急かさない。こちらの呼吸を受け入れてくれている…そんな感覚。 悠は、父と最低限の会話をして、すぐに仕事の話に戻った。二人の距離は近いのに、どこか線が引かれている。 ――触れない距離。 それは、悠と僕の間にあるものと、よく似ていた。 「無理はしていないか」 秋頼が、僕にそう聞いた。 「…大丈夫です」 即答してから、本当だろうか、と自分に問い返す。 大丈夫じゃない、と言えば、この人は、どうするのだろう。正そうとするだろうか。距離を取ろうとするだろうか。 それが、分からない。でも、不思議と、怖くなかった。 寄り添いながら歩く帰り道。手は…触れない。 けれど、信号待ちで人が押し寄せたとき、悠の手が僕の背中の少し後ろで止まり、触れる寸前で引っ込むのが見えた。 「どうだった?」 聞いてくる…と何となく予想はしていた。悠は前を向いたまま、声だけをこちらに向けてくる。 「普通だよ」 そう答えると、悠は小さく頷いた。それ以上、踏み込まない。 ――この人は、いつもそうだ。 踏み込まないことで、僕に選択を委ねる。 それが優しさだと分かっている。分かっているからこそ、淋しい。 夜、ベッドに入る。背中合わせの距離。温度はあるのに、抱き寄せられない。 天井を見つめながら、僕は考える。 もし、この人が、僕を失うのが怖くて仕方ないとしたら。もし、理性より先に、感情が溢れてしまったら。 ――そんなこと、起きない。 それを、僕は一番よく知っている。だから、揺れてしまう。この距離は、ずっと変わらない。 そして、揺れてしまったら、もう戻れないことも、どこかで分かっていた。 その夜、僕はまだ何もしていない。でも、何かが始まってしまったことだけは、確かだった。

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