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第26話

朝は、何事もなかったように始まった。 目覚ましが鳴り、悠が先に起きる。唇に、柔らかいキスが落ちる。 そういえば、悠より早く起きることが少なくなった。 キッチンから湯の音がする。いつもと同じ。生活は、不気味なほど完璧に続いている。 絢聖は、ベッドの上でスマートフォンを手に取る。 特別な理由はない。ただ、時間を確認しようとしただけ。いつもの癖。画面を点ける。 「着信履歴一件」 表示された文字。時刻は、昨晩。それも、ワン切り。 相手の名前は…秋頼。 敬称はついていない。そう呼びたかったという憧れだけが、表示に残っている。 胸が、一瞬に冷え、その後一気に熱くなる。 ——かけてきた。 ——切った。 ——それも、掛け間違いを装って。 連絡してはいけない夜に。それが、はっきり分かる。 通話は、成立していない。言葉は、交わされていない。何も、起きていない。それが、最悪だった。 もし、話していたら?会っていたら?何かが起きていたら? 理由にも言い訳にもできた。でも、一瞬の着信は、純粋な欲であり、衝動だ。 悠が、キッチンから声をかける。 「……起きてる?」 「……うん」 声が、少し遅れる。悠は、それ以上聞かない。 問わないという選択を、もう、何度もさせてしまっている。 絢聖は、画面を消す。履歴は…消せなかった。 消したら、何かを認めることになる…そんな気がして。 洗面所へ向かう。鏡を見る。表情は、驚くほど落ち着いている。作りきった顔。 ——秋頼は、消えられなかった。 ——戻ってきてしまう。戻ってきてくれる。 それが、確信に変わる。朝食のテーブルに着く。 悠が、隣に座る。いつもは正面なのに。視線が、一瞬、スマートフォンに向く。見た、確かに。 「……何かあった?」 声は、低い。責めない。でも、逃がさない。現実にいる人間の問い。 「……ううん、何も」 嘘ではない。悠は、それ以上聞かない。でも、 箸の動きが少しだけ遅くなる。違和感に触れている。だが、言葉にしない。 ——気づいてほしい。 ——でも、言葉にしてほしくない。 知って、何も言わないでほしい。一緒に壊れる位置に立って欲しい。自分だけが、深く悩んでいると思いたくない。 揺らしたい…試したいんじゃない。同じ重さを返して欲しい。それだけ…けれど、彼では叶わない。 食事が終わる。悠は、立ち上がる。 「……今日は、遅くなる」 昨日と同じ会話。でも、意味は違う。距離を取るための言葉。 玄関で、靴を履く悠の背中を見ながら、絢聖は思う。 一瞬の着信は、何も起こさなかった。でも、確実に、何かを動かした。それが、否定できない事実。 ドアが閉まる。部屋に一人。スマートフォンを手に取る。着信履歴は、まだ残っている。 秋頼の行動が、三人の関係を次に進める。そんな予感が、はっきり胸にある。 再び、動き出した朝はやけに静かだった。

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