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第32話
それに気づくまで、随分時間がかかった。
季節が何度も巡った。絢聖の好きな紫陽花が幾度も咲いた。
引っ越しはしていない。仕事も変わっていない。
生活は、相変わらず整っている。壊れる理由がどこにも見当たらない。
それは俺に長い間、安心を与えた。絢聖は、穏やかだった。感情の起伏が少ない。要求を口にしない。大人になったように見えた。
自分は、それを喜ぶべきだと思っていた。思おうとしていた。
ある夜、手を繋ぎながらドラマを見ていた。ヒロインが、大げさなまでに泣いた。激しい、感情表現。叫ぶような告白。正直、重い内容。昔なら、絢聖が反応した場面。
だが、隣にいる絢聖は、画面を見ていない。ただ、静かに座っている。感情がそこに触れていない。それに、初めて違和感を覚えた。
「……つまらない?」
悠が聞く。軽い調子で。
「ううん」
絢聖は微笑む。
「平気」
平気という返答。それが、妙に重く心配になる。絢聖の顔を覗き込む。
——諦めた顔
これは、落ち着いたのではない。慣れたのでもない。その結論が、胸に静かに落ちる。
近頃、風呂は絢聖と入っていた。何となく傍にいるべきと感じていた。
けれど、今日は一人で湯に浸かる。湯気の中で、ふと思い出す。昔の絢聖を。
——揺れていた声。
——不安定な視線。
——それでも、生きている実感を全身で示していた姿。
あれは、苦しさだけじゃなかった。俺は、守ったつもりで、削ったのか。現実に留めることで、呼吸を奪ったのか。その問いが、初めて現実になる。
ベッドに入る。絢聖の匂いを感じる。距離は、変わらない。だが、体温が遠い。熱が低い。
悠は、ようやく理解する。この静けさは、回復じゃない。治癒でも、成長でもない。
——止血だ。
生きるために感覚を切り落とした状態。そして、それを選ばせたのは自分だ。後悔も、自分に対する怒りも、遅すぎる。
間に合わなかったのは、愛じゃなく、時間だ。その言葉が、胸の中で静かに反響する。
翌朝、二人はいつも通り起きる。朝食を食べ、支度をする。今日は、絢聖の方が出社が早い。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
完璧な日常。悠は、その背中を見ながら思う。
もし、あの時。揺れを止めるのではなく、一緒に揺れていたら?
もう一つの未来。だが、それはもう、届かない。悠は、声に出さない。今さら壊すことはしない。
自分がした選択の責任を、最後まで引き受ける。それが、現実に居続けるということだった。
絢聖の静けさを、死だと見抜いた人がいた。父さんだ。
あの人は、先に気づいていた。だから、消えた。戻らなかった。
悠は、目を閉じる。知ってしまったという事実を抱えたまま、生きていく。それが、彼に残された唯一の後日談だった。
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