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第35話

家を出るとき、鍵の音が思ったより大きく響いた。振り返らない。振り返ったら、全部が崩れると分かっている。ここを出ること自体が、もう選択だ。 夜風が、頬に当たる。冷たい。現実の温度。それでも、足は止まらない。 ポケットの中の、スマートフォンが重い。連絡先は、分からない。 それでも、居場所は知っている。 あの人は、大人で、自分の立場をわきまえている。だけど…だらしなくて、情を残してしまうとこがある。 奥さんと、悠と、過ごした家。性格からして、そこを去れない。いなくなったように演出しているだけだ。直感でしかないが、確信がある。 情を知ってるから、それを認めているからこその孤独。僕はそこに惹き付けられたのだから、間違いない。 怖い。けれど、会える、会えない。行っていい、行ってはいけない。そんな二択は、もう存在しない。行く。それだけが、答え。 電車に乗る。窓に映る自分の顔は、落ち着いている。 決めた顔。涙は、出ない。迷いもない。その時期は、通り過ぎた。駅を降りる。夜の住宅街。灯りはまばらだ。木製の玄関扉の前で、一度だけ立ち止まる。深く息を吸う。そのときだった。 鍵の音。向こうから。気づいている。それが、分かる。 ドアが開く。秋頼が立っている。表情は、穏やかだ。驚いていない。待っていた顔。 「……絢聖君」 名前を呼ばれる。敬称が、残っている。最後の境界。僕は、何も言わない。言葉は、もう要らない。ここに来たことが、全部だ。 秋頼は、一歩退く。道を空ける。入るという選択肢しか与えてこない。来訪を拒まない。 部屋に入る。灯りは、控えめだ。相変わらず、部屋は静かで時計の針の音が響く。 靴を脱ぐ。揃える。最後まで丁寧な自分。それが、滑稽で、少し安心する。 秋頼は、何も聞かない。理由も、事情も。聞かないという選択。 だが、その行為は秋頼がすると、肯定になる。 「……ソファーに座りなさい」 低い声。命令ではない。居場所の指定。そこに、腰を下ろす。 距離は、近い。触れない。触れないことが、ここでは正しい。 沈黙が落ちる。重くない。預けられる沈黙。それに、懐かしさが込み上げる。 悠は、追ってきた。必死に触れようとした。現実に留めようとした。 それが、愛だと分かっている。だから、それに応えるのは不誠実だと思った。 僕は、自分の意志で秋頼を選び、悠を捨てた。 「……ここに来たら」 秋頼が言う。声は、静かだ。 「戻れなくなる」 警告。それでも、選ばせる言葉。僕は、うなずく。 もう、戻る前提で生きていない。生きられない。 秋頼が見つめてくる。目を、外さない。そこには、預かる覚悟の視線がある。 「……それでも、ここじゃないと、僕は呼吸できない」 声は震えない。熱さだけがそこにある。 秋頼は、目を閉じる。いつも彼は、越えないためにそれをする。 そして、開く。越えるために。 「……分かった」 短い返事。肯定でも否定でもない。預かるという決断。 その瞬間、はっきり分かる。僕は、秋頼を選んだ。正しさじゃない。救いでもない。愛だけではない。生き方を選んだ。 外では、夜が静かに続いている。けれど、胸の中には激しさがある。生きる炎。それが、広がる。揺れて、生きている感覚。それを確かに取り戻していた。

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