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第36話
秋頼は絢聖を歓迎も拒絶もせず、存在を許すだけだった。
来訪から時間はそれなりに経っている。時計は、確かに進んでいる。だが、進んでいるのは時間だけだった。
「……お茶でいいか?」
背中越しに声をかけられる。振り返らない。振り返れば、秋頼の表情が崩れる。それが分かっている。
「はい」
絢聖の声。落ち着いている。自分を理解した人間の声。
湯を注ぐ。湯気が立ち上る。視界が白くなる。逃げ場のない夜。
二つの湯呑みをテーブルに置く。向かい合って座る。
距離は、少し遠い。まだ、越えない距離。沈黙が落ちる。嫌ではない。だが、重い。
秋頼は、視線を湯呑みに落とす。手が、わずかに震えている。初めて秋頼が自分を抱いた夜も、彼は震えていた。それを思い出す。
「……君は」
声を聞いた瞬間、分かる。これは弱音だ。
「君は、分かって来たんだろう」
問いではない。確認でもない。事実の共有。絢聖は、何も言わない。否定も肯定もしない。
秋頼は、息を吐く。長く。今まで吐かなかった種類の息。おそらく、僕が気を遣うだろうと思って取らなかった態度。
「……私は」
言葉を選んでいる。それでも、綺麗には伝えられないようだった。
「本当は、ここまで来るとは思っていなかった」
選ばれたいとは思っていた。だが、選ばれる覚悟までは持っていなかった。そんな本音が透けて見える。
「消えれば、終わると思っていた。それが、一番誠実だと」
煙草に火をつける。彼が喫煙者であることを、初めて知った瞬間だった。
「……でも」
ここで、声がわずかに掠れる。
「君が来たとき、止めたい気持ちと、……ほっとした気持ちが同時にあった」
秋頼は、顔を上げる。絢聖を見る。揺れている…けれど、逃げない目。
「私は、ずるい」
短く言う。言い切る。
「選ばれたら受け取る。選ばれなければ消える。どちらでも自分は傷つかないつもりでいた。そんな都合のいい人間だ」
絢聖の指が湯呑みに触れる。小さな音。現実の音。
「……それでも」
秋頼は続ける。
「君がここに来た以上、私は、戻らない」
選ばれた側の責任。
「守る、なんて言えない。正しくも、できない。ただ…」
一拍。
「預かる。それが、今の私に言える全部だ」
言い終えて、秋頼の肩の力が抜ける。強くあろうとしていた秋頼がいなくなる。
絢聖は、しばらく黙る。そして、小さく息を吸う。
「……ありがとう」
それだけ。それは、赦しでも、約束でもない。受け取ったという合図。
秋頼は、それを聞いて、ほんの一瞬だけ目を伏せる。弱音を吐いた人間の仕草。
その夜、二人は同じ屋根の下で眠った。触れ合う距離ではない。
だが、もう離れる前提ではなかった。
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