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第一章 3話

ウォルカは、音もなくVIPルームの扉前から身を引いた。 絨毯の毛足を僅かに沈めるだけの最小限の足音。 しかし、その内側で鳴り響く鼓動は、普段の冷静さを嘲笑うかのように激しく、喉元までせり上がっていた。 扉の向こうから漏れ聞こえる、主の幸福に濡れた声。 あの温かな響きが、自覚したばかりの恋心を無慈悲に削り取っていく。 失恋の痛みは、腹の古傷と共鳴するように、鈍く肺の奥底を焦がし始めた。 (……なぜ、今なんだ) 運命の残酷な悪戯か、あるいは心が弱り、忘却の淵に沈めたはずの過去が這い出してきたのか。 いずれにせよ、血管を駆け巡るこの衝動を、もはや制する術はない。 ただ、確かめるだけだ。この胸を苛む亡霊の正体が、聞き間違いであることを。 受付で他の護衛に後を託す際、声はいつもの氷のような静謐を保っていた。だが、紅い瞳の奥底には、昏い深淵が口を開けている。 館を出ると、刺すような冬の夜風が白い毛並みを乱暴に撫で上げた。 冷たい大気が肺を貫く。丘の上から見下ろすルダンの街は、宝石を撒き散らしたように煌びやかだ。 だが、ウォルカの視線はただ一点――あの雑多な欲望が渦巻く、歓楽街の光の淀みへと向けられていた。 主の蜜月は、まだ幕を開けたばかり。リザルフとの甘美な情事は、夜が明けるまで続くだろう。 時間は、十分すぎるほどにある。 獣の血が、静かに、しかし確実に沸騰し始める。 漆黒の騎士服を夜風に翻し、ウォルカは丘を駆け降りた。 人の理性を捨て去り、地面を爆発的な力で蹴る。 風が耳元で獣の咆哮となって唸り、尾は自然と空を切り、自由を謳歌する野性が身体を支配していく。 護衛騎士として、「飼い犬」を演じる日々の中で、これほどまでに己を解き放ったことがあっただろうか。 すべては個人的な衝動。過去という名の鎖が、彼を、あのふしだらな街へと引き摺っていく。 歓楽街に辿り着いた頃、夜の帳はさらに深く下りていた。 下卑たネオンが網膜を突き刺し、酔客の怒号と呼び込みの嬌声が、泥のように溢れかえっている。 上質な騎士服に身を包んだ白狼の姿は、この場違いな空気の中で異様なほどに眩く浮き上がったが、そんな視線を気にする余裕はない。 ウォルカは周囲を威圧するような足取りで、娼館『セクション』へと直進した。 ガラス張りの外観は、中の淀んだ空気さえも透けて見えるほどにあけすけだった。 客で溢れかえり、熱気が結露となって窓を濡らしている。 両開きの扉を押し開いた瞬間――。 怒号に似た歓声、鼓膜を震わせるBGM。酒と煙草、男たちの汗と安っぽい香水が混ざり合った「雄」の匂いが、津波となって押し寄せた。 耳が反射的に後ろへ伏せられ、鋭利な紅い瞳が店内を縦横に走る。 騒がしい。反吐が出るほどに、騒がしい。 薔薇の館の静謐とは対極にある、欲望の掃き溜め。 人混みを掻き分け、奥の一段高いステージへ視線を向けた。 黒服の男が叫ぶ番号と金額。 それは、欲望を値札で切り売りするための合図だった。 胸の奥で、何かが冷たく凍り付いた。逆立った毛並みが、この場所の不浄さを拒絶している。 ステージ上の男たちを、一人一人、魂を削り取るような視線で追う。 ……いない。虎の獣人は。 安堵が全身の毒を抜いていくのを感じ、踵を返そうとした、その時。 ――カン、カン、カン、と。 終焉を告げる鐘の音が、残酷に響き渡った。 落札された娼夫が去り、代わって舞台に上がった新たな「商品」に、会場は沸騰したような歓声に包まれた。 ウォルカの視界が、一瞬で凍りついた。 ――ティーガ。 二十年前、脳裏に焼き付けたままの、あの背中。 しかし今はその黄金の毛並みは汗に濡れ、薄布一枚で晒されている。 かつて仲間を守るための盾だった肉体が、今は客の欲情を煽るために揺れていた。 そして、左脚。 膝から下で断ち切られた虎模様と、剥き出しの義足。 全身の血が、逆流した。 ティーガは、己の欠落を気にする素振りも見せず、慣れきった足取りで中央へ進み出た。 照明に濡れた黄金の毛並みが、不吉なほどに輝く。 雄々しい笑みを浮かべ、客席に向けて、ゆっくりと、執拗に腰を突き出した。薄布の下、先走りの蜜で染まり始めた巨根が揺れる。 その匂いまでが、熱気と共に肺を汚していくような錯覚。男臭い汗と、獣のフェロモン。 かつて共にいた時、すぐ側で漂っていた、あの懐かしい野性の香。 今はそれが、客を誘い出すための「媚薬」として、店内の汚濁に満ちている。 ティーガは不敵なウインクを送り、指を舌で湿らせると、自らの胸元をゆっくりと愛撫した。布越しに尖る乳首が、男たちの理性をさらに削り取っていく。 ウォルカの喉が、情けなく鳴った。 呼吸が荒れ、肺を焼く。胸の奥では激しい憤怒と悲嘆が渦を巻いているというのに、それとは裏腹に、下腹部が罪深く疼き始める。 (なぜだ……なぜ、お前が……!) あの誇り高い肉体を、あの太陽のような笑みを、見知らぬ男たちが金で弄ぼうとしている。 自分だけのものだったはずの――いや、最初から自分のものなどではなかった。 ただ、子供のように慕い、勝手に想いを拗らせ、そして何も告げずに捨ててきた男。 それなのに、目の前の光景が、魂を引き裂きにかかる。 ティーガの腰が、音楽の脈動に合わせて淫らに波打つ。 布を突き破らんばかりに揺れる巨根を視界に入れるたび、ウォルカの股間もまた、抗えぬ本能に突き動かされて反応してしまう。 熱が一点に集まり、騎士服の生地が耐え難いほどに張り詰める。舌が乾き、吐息が熱を帯びる。 これは屈辱で、絶望で、身を切られるような嘆きだ。 それなのに、身体だけが、奴の匂いに正直だった。 ティーガが客席に向かって片膝をつき、挑発的に腰を突き出した。 無機質な義足が床に触れても、その笑みは崩れない。どこか虚無を孕んだ、投げやりな達観。 その瞳が、獲物を舐めるように客席を巡る。 ウォルカは、息を止めた。 ――目が、合う。 いや、ティーガの視線はただ、匿名の「客」を煽るためのものに過ぎない。 それでも、心臓が爆ぜるような音を立てる。理性が、今すぐここから逃げろと、絶叫に似た警告を叫んでいた。 だが、足が、根を張ったように動かない。 ティーガの指が、薄布の縁に掛かる。 もう少しで、すべてが晒される――。 その瞬間、ウォルカは弾かれたように店外へ駆け出した。 凍てつく夜気に晒され、壁に背を預ける。 ばくばくと耳元で鳴る鼓動。幾度も深呼吸を繰り返しても、股間に溜まった熱は引かなかった。 「……ふざけるな」 低く、絞り出すような唸りが漏れた。 紅い瞳が、暗闇の中で捕食者のそれとなって鋭く光る。 ティーガの姿が、網膜の裏側に焼き付いて離れない。 汗ばんだ黄金の毛並み。揺れる巨根。投げやりな笑み。そして、痛々しい義足。 あの男が、なぜ。 自分が背を向けていた二十年の間に、彼は何を失い、何を代償にしたのか。 冷や汗が背を伝い、冬の冷気に冷えていく。 だが、股間だけは、救いようのない罪深い熱を帯びたままだった。 ウォルカは、血が滲むほどに唇を噛みしめた。 主君の元へ戻らねばならない。守るべき背中がある。 なのに、足が泥を掴んだように重い。 今夜見たものは、悪辣な夢であってほしい。そう願いながらも、ウォルカは再び夜の闇へと身を投じた。 白い尾が、激情に乱れながら夜風を切り裂く。 その紅い瞳には、もはや抑え込めぬ欲望と、身を裂く痛みが、黒く渦巻いていた。

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