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第一章 4話
ウォルカは、己の限界を試すような速度で、街の屋根を獣のごとく跳ね、駆け抜けた。
主への淡い恋慕を打ち砕かれた痛みなど、もはや疾風の中に消え失せている。
今のウォルカを支配しているのは、理性を溶かすような、欲と悔恨の黒い渦だった。
(……あの時、すべてを捨ててさえいなければ)
瀕死の自分を拾い上げた主への忠義を盾にして、ティーガを振り返らず、過去を埋葬した自分。
もしあの日、もっと素直に、泥臭く彼を求めていたならば――。
この残酷な運命の歯車は、違う音を立てて回っていたのだろうか。
あの義足が語る、空白の二十年。
あの誇り高き黄金の虎に、一体どれほどの地獄が降り掛かったというのか。
答えのない問いが、呪いのように頭の中を巡り続けた。
だが、邸宅の門をくぐった瞬間、彼は「領主の護衛騎士」へと回帰した。
荒れ狂う内面を鋼の理性で封じ込め、薔薇の館へと帰還する。
VIPルーム前の廊下で、交代の護衛と無言のまま視線を交わす。
閉ざされた扉の向こうからは、蜜月を謳歌する甘い喘ぎが漏れ聞こえていた。
ハクラとリザルフの、幸福の絶頂を分かち合う交わりの音。
だが、今のウォルカの耳には、それは届かなかった。
壁に背を預け、焦点の合わぬ瞳で虚空を見つめる。
騎士服の襟元を整え、乱れた白い毛並みを指先で梳く。荒い呼吸を整えようと拳を握りしめれば、掌に食い込む爪の痛みが、かろうじて彼を現実の岸辺に繋ぎ止めていた。
なぜ、あの男の幻影が網膜に張り付いて離れないのか。
あの日、ティーガを置いて消えたのは、裏切りの痛みから逃れ、新たな主へと魂を売り渡したからだ。
だが、もし、もう一度だけ会いに行っていれば。
――無意味な仮定だ。
今はただ、ティーガが「商品」として競り落とされる光景を反芻するたび、奥歯が軋むほどの歯噛みが止まらない。
そして、己の罪深い熱。それが未だに鎮まらぬことを自覚し、ウォルカは血が滲むほどに牙を噛んだ。
これは、単なる怒りではない。二十年という歳月をかけても殺しきれなかった、あの男への恋慕が、今なお醜く脈打っている証拠だった。
やがて、至福の余韻を纏ったハクラ伯爵が部屋から姿を現した。その後ろには、名残惜しげに主君を見送るリザルフの姿がある。
「オーナーには話をつけておく。……明日、は早計に過ぎるかな。だが、明後日には、必ずお前を迎えに来よう」
ハクラは目元を緩め、慈しむようにリザルフへ口づけを落とす。リザルフもまた、照れ臭そうに、しかし溢れんばかりの悦びを込めてその接吻に応えた。
その光景は、どこまでも純粋で、甘やかで――。
硝子細工のように脆かった心が、不思議と静まっていく。
そこには、もはや嫉妬など存在しない。ただ、主君が報われたことへの、静かな安堵があった。
「ああ、待っている。……だが、無理はするな。
俺にとっては、もう一日や二日の違いなど、どうということもないのだから」
リザルフの柔らかな微笑。漆黒の豹と、純白の馬。寄り添う二人の獣人の姿は、天が定めたかのように美しくお似合いだった。
ウォルカは静かに一歩前へ踏み出し、流麗な所作で深く頭を下げた。
「主様、お帰りなさいませ。
……すべてが万事、円滑に進んだようで、何よりでございます。
リザルフ様、明後日の御帰還を、一同心よりお待ち申し上げております。
……馬車は既に用意してございます。夜風が冷え込みますゆえ、そろそろお戻りください」
魔導馬車の中、ハクラは夢見心地でこれからの未来を語り続けた。
ウォルカは柔らかく相槌を打ち、主の無垢な喜びに触れることで、荒れ狂う己の心を必死に凪へと導こうとする。
邸宅へ到着し、主君の寝支度を滞りなく終える。
いつも通り。万事が完璧。
――だが、自室の扉を閉めた、その刹那。
胸中で押し殺していた激情が、堰を切って溢れ出した。壁に背を打ちつけ、獣のように息を荒げる。股間に集まる熱と、制御不能な脈動。
身体が、答えを出してしまっている。
紅い瞳が、暗闇の中で捕食者の炎を宿して燃え上がった。
「ふざけやがって……! ティーガ、あの野郎……!」
喉の奥から、絞り出すような獣の唸りが漏れる。拳が壁を打ち付け、鈍い音が室内に響いた。
「なぜだ……なぜお前が、あんな場所で……他人に肉を切り売りしてやがる……!」
ベルトを荒々しく引き抜き、スラックスを膝下まで蹴り落とす。
解放された白狼の陰茎が、凶暴なまでの硬度を保って跳ね上がり、先端からは透明な愛液が糸を引いて滴り落ちた。
興奮の極致に、白い毛並みが一本一本逆立ち始める。
「くそっ……あんな無惨な姿を見て、俺の身体が、こんなに……っ」
右手で、根元を力任せに握り締める。
浮き出た血管が指先に伝わるほどに猛り、彼は最初から荒々しく、貪るような速度でしごき始めた。
「ああ……ティーガ……ッ、お前の、あの、身体……!」
瞼の裏で、あのステージ上の虎が踊る。
汗に濡れて妖しく光る黄金の毛並み。薄布を突き破らんばかりの巨根。義足を晒しながら、観客を挑発する淫らな腰振り。
――そして、あの、むせ返るような獣の匂い。
「客どもに……その身体を触らせるな……! 汚い手で、あいつに……ッ!」
呻き声と共に、手の動きがさらに加速する。
太い尾が床を激しく叩き、敏感な耳が快楽と憤怒に震える。
シャツを引き裂き、露わになった胸板を左手で掻きむしる。己の乳首を潰さんばかりに強く摘み、捻り上げた。
「ん、ぐっ……ああッ……!」
野性の喘ぎが、静寂を切り裂く。
ティーガの全身を舐め回す妄想。義足の脚を肩に担ぎ、その奥深くを限界まで貫き、壊す妄想。
――俺が、あいつを奪い返す。
誰にも触れさせず、逃がさず、俺の腕の中に。
「俺の……ッ、俺の獲物だ……!」
腰を激しく突き出し、先走りで滑る手をさらに速める。陰茎が爆ぜる寸前まで膨張し、痙攣を繰り返す。
「あのデカいモノも……俺が握って、俺だけが犯してやる……! 泥に塗れたお前を、俺が喰らい尽くしてやる……!」
嫉妬が、狂おしい支配欲へと昇華する。
彼をあの不浄な場所から引き摺り出し、自分のベッドで、己だけの雌に仕立て上げる。
あの義足を慈しみ、汗ばんだ毛並みを舌で覆い尽くし、ざらついた感触を耳の奥まで刻み込む。
「お前を……俺だけの、ものに……ッ!」
その瞬間、衝動が限界を超えた。
「がっ、ァァ…!!」
獣の咆哮が、壁を震わせる。
熱い白濁が、間欠泉のように何度も何度も迸った。
勢いよく噴き出した精液が、床に、壁に、びちゃびちゃと派手な音を立てて飛び散る。
一波、また一波。狼の血ゆえの長く執拗な射精が、ウォルカの身体を激しく震わせ、強靭な膝をガクガクと屈させた。
荒い呼吸が、静まり返った部屋に響き渡る。
痙攣する四肢を壁に預け、余韻の中で、紅い瞳がなおも執念の火を灯していた。
「……はぁ……はぁ……ッ、くそ、ったれ……」
掌に残った熱を、乱暴に床へ拭い去る。
鏡に映る自分――乱れきった毛並み、汗に濡れた胸、そして、未だ興奮に脈打つ肉の塊。
「……お前は、今も……あの、掃き溜めに、いるのか……」
低く唸るような独白。
主君への忠誠は、岩の如く揺るぎない。だが、それとは別の場所で、眠れる獣が完全に目を覚ましてしまった。
「明後日――主様がリザルフ様を迎え、幸福を掴むその裏で……お前を、俺の腕に連れ戻してやる」
白い尾が、決意を込めて床を一打した。
紅い瞳には、もはや騎士の面影はなく、ただ一頭の飢えた狼の渇望が宿っていた。
ベッドへと倒れ込み、重い瞼を閉じる。
暗闇の向こうで、ティーガの逞しい背中が揺れる。
それはもはや、淡い初恋の残り香ではない。獣の独占欲と、焼けつくような、昏い熱愛の始まりだった。
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