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※3/22 J.GARDEN 頒布本サンプル
※本編+番外編加筆修正+書き下ろしSS
「シンデレラは、すえながくしあわせに、くらしましたとさ、めでたしめでたし!」
ちゃんと読めたよ、と自慢げに本を差し出す子供の頭を、母親は優しく撫でる。興奮で赤らんだ頬でそれを受ける子供はふと思い出したように、あのね、と母親を見上げた。
「すえながくってなあに?」
「末永くっていうのは、ずうっとってことよ。シンデレラはその後、王子様と一緒にずっと幸せに暮らしましたって」
「ホント!?じゃあ、もう、イジワルなおかあさんも、おねえさんも、シンデレラをいじめなかったんだね!」
子供は嬉しそうに絵本を握ったままの腕を上下させる。きらきらとした瞳で物語が終わったその後も続く幸せを信じる我が子に頬を緩めながら、母親はその小さな手をとった。
「うーん、それはお母さんにもわからないなぁ」
不思議そうな顔で見上げてくる子供の瞳を覗きこめば、子供はこてんと首をかしげる。
「もしかしたら、またお姉さんたちがいじわるしてきたかもしれないし、悪い魔女がやってくるかもしれないわ」
「えー!そんなのダメだよ!だってしあわせなんでしょ!?」
「ふふ、あっくんにはちょっと難しいかしらね。……でも、大好きな人と一緒にいられたら、どんな壁だって乗り越えられる。どんな環境だって、大好きな人と一緒にいることが一番の幸せなのよ」
息子から視線を外して、母親はどこか遠くを見詰める。子供は首をかしげたまま何度か瞬きを繰り返してから、ぎゅっと自分のものよりもずっと大きい母親の手を握り返した。
「じゃあ、ぼくもおとなになって、だいすきなひとといっしょにいてしあわせになる!!」
ぼくにもおうじさまがくるのかなと無邪気にはしゃぐ息子を見てあらあらと母親は微笑んだ。あっくんは王子様のほうなのよと語りかけて、また、えーっと文句を言う息子の頭を撫でることで宥める。
握りしめられた絵本の表紙で、お姫様と王子様は幸せそうに寄り添っていた。
【第一話】
国王陛下とシンデレラの結婚式まであと一月。
庭に面した窓を開ければメイドたちのそんな話し声が嫌でも聞こえてくる。その声を聞きながら、俺は流れ込んでくる風を感じて溜息をついた。
窓から程近いソファにぐったりと凭れるようにして座り込んでも、身体に纏わりつく倦怠感が消えることは無い。むしろ、力を抜いたことで今度は屋敷に立ち込める重苦しい空気が身体全体に圧し掛かってくるようだった。
元からプレッシャーや緊張には弱い性質のせいか、胃腸の調子も思わしいとは言えないが、それでも風を感じていられる内はまだいい。爽やかな風が部屋を吹き抜けていくのはひどく心地が良かったし、重苦しい空気が浄化されていくような気になれた。
そうやって身体を休めるために瞼を閉じてから、どれくらいの時間が過ぎただろう。不意に廊下の方からがしゃんがしゃんと陶器の割れる音が響いてきた。ああまたかと項垂れたくなるのを押しこめて、慌てて窓を閉め切りカーテンを引く。幸いこの部屋には天窓もついているし、カーテンを一つ閉めた所で光源には困らない。仮に天窓すらも封じたとしても、窓を開けていたことを理由に陽射しが煩わしいと癇癪を起こされて、部屋の装飾に当たり散らされるよりかはマシというものだ。だったら多少部屋の中が暗くなることの方を喜んで選ぶ。
「アキト!アキトはいるか!」
細かいだけで目に優しくない、とても繊細とは言えない装飾の施された扉が、ある意味それによく似合った品のない音を立てて開かれる。ノックもなく扉を開けた本人は、その身に纏わせた装飾類をがしゃがしゃと鳴らしながら鼻息荒く俺に歩み寄った。その顔は赤らみ、今日も昼から酒を呷っているのが窺えた。
いるかも何も、俺をこの部屋に軟禁状態にしているのは自分だろうに。
「お帰りなさいませ、旦那様」
その機嫌をこれ以上損ねないように即座に分厚い猫を被る。にこにこと笑う俺の髪を乱雑に一房持ち上げると、旦那様は値踏みするようにじろりと俺の全身に視線を向けた。
旦那様。この館の主人、ゲイリー様の視線が気持ち悪くない訳ではないが、癇癪持ちでプライドの高い彼の機嫌を損ねるとどうなるかわからない。手を上げられる使用人も、突然取引を無かったことにされる商人たちも、何人も見てきた。だから、粘着質な視線の意味など知らぬ存ぜぬを貫いて、何も言わずに首を傾げる。
彼の癇癪が俺に返ってくるならまだしも、矛先が他に逸れてしまう可能性を考えれば下手なことはできない。俺の事を商品か美術品のように扱う彼は、俺に傷がつくことを嫌った。だから苛立ちは家具や装飾品、使用人たちへと向けられてしまう。残念ながら俺は、自分のせいで誰かが傷付くことに快感を覚えるような素敵な人間性は持ち合わせていないものだから、どうにか彼の癇癪が起きずに一日が終わることを願っている。胃が痛むのは、ほぼほぼこのゲイリー様のせいだろう。
それにしても、掴み上げられた頭皮が痛い。早く髪を離してくれないかな。
「相変わらず美しい漆黒だ。この美しさがわからないとは、陛下は一体何を考えておられるのか……」
そう言って髪から指を離すと、ゲイリー様は使用人へ酒を申し付けてからソファへ乱暴に座り込んだ。彼のその要求は想定の内だったらしく、すぐさまその手元に赤ワインとグラスが用意され、ゲイリー様は勢いのままそれを一気に呷ってぐちぐちと小言を零す。
口の中で呟くように紡がれるそれを正確に聞き取ることは出来なかったが、十中八九内容は今日の登城のことだろう。首都に本邸を置く事の許された貴族たちの中でも上位に位置するこの家の現当主殿は、どうにかして国王陛下に取り入ろうとご執心らしい。
その原因というのも、家名に対してここ数代身内が城の重鎮に召し上げられないことが気に食わない、という一点につきる。気にするのは見栄や世間体ばかり。見上げても天辺の見えないような自尊心の壺を満たすことだけに必死で、国を良くしよう、陛下を支えようという潔白な理由でない辺り、なんというか三流の悪役の肩書きが良く似合う人だ。そんな性根の集まった一族だから登用されないのだと思うけど。
しきりに貢物として家宝や年頃の娘を差し出しても、陛下はそれに見向きもされない所か、半年ほど前に異世界から現れたという少年を妃として迎えるという声明を発表する始末。しかもその少年が、この大陸において幸運の象徴とされる黒色の髪と瞳をもっているというのだから、国民達もお祝いムード一色だ。
その上、そのお妃さまが陛下と出逢ったのが下町の花屋で、そこで働いていた所からお妃まで辿りつくその道筋があまりにも王道でロマンチックなものだから、庶民たちの間でシンデレラストーリーだなんて囃し立てられているのも仕方ないだろう。最初にその話を聞いた時は、シンデレラという童話がこの世界にも共通だなんて面白いこともあるものだと関係のないことにばかり感心したものだが。
ここまで言えば察してもらえるだろうが、かくいう俺もその異世界の住人だ。というか、俺的にはこっちの世界の方が異世界だった。RPGに出てきそうな街並みに魔法や剣、一見怪しげな薬や道具が普及していることにはじまり、同性同士の結婚から果ては出産まで出来る世界。詳しい理論は知らないし理解できるとも思えないが、不思議な世界だと思う。
何より黒という色を持つ人がいないというのが不思議だ。辛うじて黒に近い色を出す染物の原料もあるらしいが、高価な上毒性も強く肌や髪に使うことは到底敵わない。つまり、黒髪や黒い瞳は、自然に産まれもしないし、人工的にも作る事はほぼ不可能なのだ。そして、その希少な黒を持つ俺を金で買い取ってこの屋敷に住まわせたのがゲイリー様。陛下に取り入る為にどうにか件のシンデレラを蹴落として俺を妃にと考えているらしいけれど、その望みが薄そうなのは登城から帰ってくるゲイリー様の様子を見るだけで多分に窺える。
下町の花屋からお妃へと大変身を遂げたシンデレラと、三流の悪役の元で暮らす俺。どう転んでも俺にシンデレラストーリーなんて程遠いと、また大声で喚き始めたゲイリー様のグラスにワインを注ぎながら俺は一人溜息を呑みこんだ。
◇ ◇ ◇
――始まりは、目の覚めるような青空。目の覚めるというか、真実その瞬間に目を覚ましたのだけど。校舎の中を歩いていたと思えば、いつの間にか草原の上で寝転んでいた。勿論こんな所で寝ていた理由に心当たりはないし、自分が夢遊病患者であるつもりもない俺は、寝ぼけた頭でこれ以上ないくらい混乱した。俺が横たわっていた草原が、俺を拾ってくれた老夫婦の営む農場の牧草地だったというのは、後から教えてもらったこと。その後二人に発見されるまで、そこにいた、羊によく似たもこもこの動物の群れが、やけに俺に構ってきた時の軽い恐怖を今でも俺は覚えている。
もこもこの動物はシルエという種類の動物で、定期的にその毛皮を刈って毛糸などに加工しているらしい。人懐こい性格で、子供を見掛けると集まってくるのだという。他の群れから逸れた動物だと勘違いしているらしい。……つまり俺は、最初、シルエたちに迷子の子供だと思われていたわけだ。
まあ、この世界の平均身長と比べると、元の世界では人並だった俺も小柄の部類に入るから仕方ないのだけど。
黒髪黒目の人間は違う世界から幸運を運びにくる人間だという言い伝えのお陰で、右も左もわからない状態の俺を農村の人たちは皆暖かく迎えてくれた。無一文で常識もない俺に、農場の手伝いをする代わりに衣食住の保証と生活に必要なあれこれを教えてくれるだなんて、どれだけ恵まれた環境だったのだろう。都合が良すぎて夢じゃないかと何度も疑ったが、その度に他でもない自身の五感がこれは現実だと訴えてきた。
暫くはここが異世界だなんて認められなかった。それでも、どうやっても俺の常識では説明のつかないことが平然と行われているのを目の当たりにすれば嫌でも受け止めるしかない。通用しない常識や、見たこともない動植物。農場の手伝いをしていくうちに何度もそういうものを目にして、実際に触れ合って、その温もりを知った。出来が良ければ喜んでくれて、無茶をすれば怒られて、怪我をすれば心配してくれる。
畑作業をすれば日焼けをする。毎日肉体労働をしていれば筋肉も付く。農具を扱う手には肉刺も出来たし、何となくうちの農場のシルエの機嫌もわかるようになってきた。
俺を本当の孫のように可愛がってくれるじいさんとばあさん。生活の知恵を惜しげもなく教えてくれる農村の人たち。たまに遠くの町から珍しい品物を売りに来る行商人のおじちゃん。みんなが優しくて、温かい人たちだった。
本当はずっと、この先どうやって生きていくべきかという現実から目を逸らしていた。それを受け止められたのは、この村があまりにも穏やかで、雄大で、自分の悩みがちっぽけにすら感じるようになったからだった。みんなの優しさに救われながら、ゆっくり元の世界に帰る術を探していこう。そんな風に暢気に考えていた。どこまでもただただ平和なこの生活が続くと、そう考えていた。
あの日、ゲイリー様の私兵たちが来るまでは。
◇ ◇ ◇
「恐れながら、陛下」
不意に穏やかな声が二人の応酬に割り込む。その声に俺の肩がぴくりと揺れた。視界の端で陛下の側に歩み寄る誰かの足元が見える。耳打ちで何事か伝えられた陛下はそれにひとつ頷くとゲイリー様に声をかけた。
「黒髪の君の体調がよろしくないようだが、別室へ案内しても?」
囁くように告げられたその言葉に、改めて周りの視線が俺に集中するのがわかった。ゲイリー様も俺を振り返って見下してくるが何も言わない。仕方ないか。登城の二回に一回はこうして体調不良を起こして別室待機をしている。
温度なんてきっとないだろうその視線を想像して、また胃の痛みが増した。顔を上げることも出来ずにいれば、その間に陛下は何か二、三指示を出している。俺に向けての言葉ではないとわかっていたしそもそも意識を向ける余裕もあまりないので、内容はよくわからなかったが。ゲイリー様は何も言わずに俺を見下ろしたあとただ陛下に是と示したようだだった。
「失礼します」
いつの間にか傍に近寄っていた人影に抱え込むようにして立ち上がらされると、今度は腰を支えるようにして別室へゆっくりと誘導される。陛下はしばらく此方の様子を見守っていたようだが、少しすればまたゲイリー様の俺の押し売りが始まった。今度は喧しく身分制度の話をしている。何だかんだこのやり取りも頻繁に起こることだ。
毎回ここまで体調が悪くなる訳ではないけれど、話が長引きそうになると色々な理由を付けて場を一度遮って俺を連れ出してくれる。それだけでなく結構な確率で歩行を支えてもらっているのも非常に申し訳ない。
そっと顔を上げると、俺を支える宰相様が苦笑いを浮かべていた。本当はこんな雑事を行う立場の人ではない。それでもいつも俺を連れ出してくれるのは、この宰相様だった。……俺が、黒を持っているからだろうか。
入り口とは別の小さな扉を抜けると、不意に彼の歩みが止まる。人気のない廊下に、かつりと靴の踵が当たる音が響いた。腰を支えられてようやく歩けていた俺だから、彼が止まれば当然俺が一人で進める訳もなく、自然と一緒に足を止めた。
「……宰相様?」
「重ね重ね、失礼致します」
少しだけ考えるような間を開けたあと、彼――この国の宰相であるアルヴィン様は少しだけ屈む。そして、そのまま俺の膝の裏に手を回すと一気に、それでもあくまで丁寧な手つきで俺を横抱きにした。
「応接間までの間ですので、ご辛抱くださいね」
文句を言う前に、にこりと笑顔付きで言われてしまえば俺はもう何も言えない。せめて少しでも抱えやすいようにとアルヴィン様の方に身体を寄せる。アルヴィン様が身動ぎしたような気がしたけど、俺はまたずきりと痛みだした胃に意識を持っていかれた。
凭れた胸元と支える腕から伝わる温もり、そして歩くたびに伝わる穏やかな振動が俺の瞼をゆっくりとおろしていく。宰相様は書類仕事ばかさりされているのかと思っていたのだけど、想像よりずっと腕も胸板もしっかりとした筋肉があって、不安定さなど欠片もない。眠気に抗えずに肩に頭を落ち付かせた俺に、少しだけ回された腕に力が籠もったような気がした。
暖かくて柔らかい紅茶の匂いが鼻先を掠めるのを感じて、俺は意識を浮上させた。運ばれている途中で眠ってしまったのかとぼんやりとした頭で考える。また、迷惑をかけてしまった。
「お目覚めになりましたか」
声の方に視線を向ければ、紅茶をティーカップに注ぐアルヴィン様と目が合う。その柔らかな頬笑みに見詰められることに未だに慣れなくて、慌てて視線を外しながら運んでもらったことのお礼を言った。身体を起こしたことで少しだけずり落ちたブランケットも、恐らくはアルヴィン様が用意して身体にかけてくれていたのだろう。この人の優しさに、俺はどれだけ救われているのだろうか。
「まだあちらは長引きそうですので、ゆっくりお休みください」
そう言われて用意された紅茶を手渡された。いつの間にか冷え切っていた指先が、陶器越しの優しい温度に温まっていく。口を付ければ匂いと同じように心地の良い風味が身体を中から温めていくような気がした。
生憎俺は紅茶には詳しくないが、アルヴィン様の淹れてくれる紅茶はいつも美味しくて俺を安心させてくれる味だ。同じ茶葉を使っても、きっとあの屋敷ではこんな風に紅茶を楽しめないだろう。
「美味しいです、とっても」
「それは何より」
文字の上だけで見れば社交辞令のようなやり取りだけど。アルヴィン様の柔らかな笑顔につられて俺も頬笑みを浮かべる。この世界でまともに笑える瞬間を、俺はこの場所以外でまだ見つけられていない。屋敷ではありえない空気の中で、俺たちはただ穏やかに時を過ごしていった。
◇ ◇ ◇
何度この時間を共に過ごせただろう。何度も連れ出して、救い出してくれている以上、彼から俺に悪くはない感情が向けられている自覚くらいはある。だけど、それが憐れみからくる同情なのか親切心なのか、よくわからない。俺を連れ出すことに問題がないわけがないだろうに、それでも助けてくれるその真意が。だから、いつも思う。あと何回この時間を共に過ごせるのだろうと。あとどれくらい彼のことを好きでい続けられるのだろうと。
穏やかな時間はいつも緩やかに流れる。それでもいつかは終わりがくるものだ。
「あっという間ですが、タイムリミットが近いようですね」
胸元から懐中時計を取り出したアルヴィン様が呟く。伏せられたその瞳に見える色に、名残惜しさが滲んでいたのは、俺の思い上がりではないと信じたい。俺の膝に乗ったままだったブランケットを回収すると、アルヴィン様は俺の頬に手を当てて瞳を覗き込んできた。
「……このまま攫ってしまったら、君は困るかな」
いつもより、少しだけ砕けた口調。え、と擦れた声が漏れて、俺は頬に触れるアルヴィン様の手に触れようとする。逃げられるのなら、連れ出してもらえるのなら、俺は。
体温が触れ合う直前に、どたどたとお世辞にも上品とは言えない足音が響いてくる。先程まで暖かな色を宿していたアルヴィン様の眼差しが不意に温度を無くした。自分に向けられたわけでもないのに、すっと背筋に冷たいものが走る。手に持ったティーカップを握りしめて目線を足元に落とした。頬に触れていた手が離れて、俺から数歩距離を取ったところで少しの沈黙の後に騒々しく扉が開かれた。
◇ ◇ ◇
何時だったか、日記が書きたいと強請って手に入れたノートに名前を記す。最後に書くのは、自分の名前。
もうすぐ終わりかもしれない。死にたくなんてないし、そうならないように足掻いてきたけど、ヒーローにも悲劇のヒロインにも、ましてやシンデレラにもなれない俺に、そう簡単に物語の続きが訪れるとは思えなかった。この立場で、居場所で、どうやっても未来が見えない。見えないから、不安だから、どうしても終わりを考えてしまう。
流されるのはやめた。俺の望むように、それに近付けるように動いた。それでもどうにもならなかったなら、そこまでの話だ。後悔は無い。途中からでも自分の意思で歩いてきた道だから。だけど、納得してはいてもどうしても何か残したくて。俺がいた証を。俺のいた意味を残したかったから。
「それがこのノート一冊だなんて、少し情けないけど……」
インクが乾いたのを確かめてからノートを閉じる。この国で使用されている文字が元の世界とよく似ているのは、読み書きの勉強の時に知った。似てはいるけど少し違う。動植物の名前も似たような名前もあれば、全然違うものもある。本当にゲームの世界みたいだと思うけど、俺にとっては好都合なので文句はない。それでも文明はいまいち進歩していないのか、あるいは元の世界とは別方向への進歩を遂げているからなのか、筆記具は羽ペンだったのには少し手間取ったけど。
ペンを置いて、ずっと同じ姿勢だったせいで凝り固まった背中と肩をほぐす。ゆっくりと首を回せば、頬にかかる髪が揺れた。その髪を指で掬い上げながら、この世界に来てから随分と伸びたものだと考える。ゲイリー様に指示される通りに手入れを欠かさなかった髪は、昔よりも大分手触りが良くなった。だけど、いくら見た目に磨きをかけても、俺の元へは誰も来ない。
本当は、誰よりもシンデレラの事を馬鹿にしていたのだ。そんなおとぎ話のようなこと、しかも男なのに、お姫様のように扱われるなんて、と。馬鹿らしい、有り得ない、そう思っていた。だからそんな存在に踊らされる貴族たちも、被った猫の下で間抜けだと嘲っていた。
王に娶られるようにと言われ続けて、ゲイリー様の趣味なのか、女性的な、良くて中性的な服を与えられ、そんな扱いをされ続けて。そのうちに俺の中の何かが崩れていったのか、いつの間にか俺自身がシンデレラの存在を一番意識していた。――違う、そうじゃない。きっと、最初からそうだったんだ。だから一層否定した。でも本当は、いつだって羨ましかった。俺はいつも誰かに助けて、守ってほしかった。自分で動くしかないのに、誰かが手を差し出して連れ出してくれるのを待ってたんだ。
元の世界ならそれでもよかった。いくらそう思っていようと、結局は学校を出て就職をして結婚して、当たり前だと思っていた道筋があった。誰かに教えられなくても、それなりの人生を進んでいく道が見えていた。満点じゃなくても少なくとも間違いではない道が。守られなくても、誰かが引っ張ってくれなくても、その道を行けばよかった。でも、ここはそうじゃない。
どうしていいのかわからなくて、どうするのが正解なのかわからなくて、だから流された。本当は、本当は――。
初めての登城、誰もが冷たい視線を向けてくる中で、痛みと緊張で動けなくなった中で。ただ一人手を伸ばしてくれた、あの空間から連れ出してくれたあの人に。歩けなくなった俺に肩を貸してくれたあの人の温もりに、眼差しに。
俺を救い出してくれる王子様なんじゃないかと期待した。一度だけでも守ってもらえたら、これからも守ってもらえるのものだと安心した。
でも、あの人は宰相で、俺は何の立場もないどころか、謀反を企てる貴族の手駒。それは変えられないしこれからも変わらないのだろう。どうしようもない流れのようなものはどこにでも存在していて、その中心、言うなれば主役は、あのシンデレラと国王陛下だ。俺じゃない。
俺が一番、シンデレラに憧れてた。王子様を、ヒーローを、ずっと待ってたのは、俺だ。現実はそうはいかない。何度考えても何をしても俺は主役にもヒロインにもなれない。それどころか、今なんて三流の悪役の手下だ。それが現実で、現状だ。だから、もういい。王子様は来ないんだとわかったら、むしろ身体に圧し掛かっていた重圧が少しは軽くなった気がする。
俺は、人を騙すことも、自分を偽ることも、平気で出来るような肝の据わった人間じゃない。
だけどもう開き直れたから。何時だって怯えている自分も、自由を夢見る自分も、ヒロインみたいに助けてもらいたかった自分も、それを馬鹿にしていた自分も、全部を受け入れられたから。締め付けられるような胸の痛みも、きっと俺の脚を動かす動力に変えられる。長くは走り続けられなくても、せめて、俺が望む最後まで。
【書き下ろしSS】
「アキトくんは、何処に住んでたの?」
しゃりしゃり、と手元でリンゴの皮を剥きながらハルト様は俺に問い掛けた。リンゴは、この国でもリンゴと呼ばれている。不思議。
俺はね、青森。だからリンゴがこの国にもあって良かったよ。食べ飽きたと思ってたけど、いざ食べられないかもってなったらしんどいもんだねぇ。喋りながら皮を剥き終わり、身を分けて皿の上に盛っていく。一つだけウサギにされたリンゴは俺に差し出された。
未来の王妃に恐れ多い、と遠慮すれば、拗ねたように自分で食べてしまった。皿の上に並んでいた普通のリンゴを有難くいただく。
「俺は東京です」
「わ、都会だ!行きたかったな、修学旅行、東京でさ」
しゃくしゃくと咀嚼をして飲み込んで、口を開く。リンゴが美味しくて、すぐに次の一切れを放り込んだ。
ベッドの脇にある出窓を開け放ちながら、ハルト様がぼやく。
「なんで俺たちここにいるんだろうね」
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