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第4話

 メッセージアプリに表示された珍しい名前に首を傾げながらも返信をすると、すぐに通話が掛かってきた。平日昼間、ソファでくつろいでいる時だった。 「もしもし……?」 「もしもし! 黒瀬、久しぶり! 元気だった? 今何してんの?」  上田の声はあの頃と変わらず掠れていて、懐かしさが込み上げる。軽音サークルでバンドを組んでいた日々のことが、次から次へと脳裏に浮かんだ。上田はドラムで俺はベース。俺たちは特に仲が良くて、2人でしょっちゅう飲みに行っていた。 「今は……あー、たまたま休みで。家にいて」  思い出は、すぐに現実に掻き消される。背後からスノーボールの餌を頬張る音が聞こえてきて、俺は立ち上がると廊下に出た。 「そかそか。急で悪いんだけどさ」 「いや、全然」 「お前、今無職だろ? 俺と一緒に仕事やんね?」 「…………は?」  もたれ掛かっていた壁が小さく軋む。上田は俺の動揺なんて一切気がつかないというように、一気に話し始めた。 「実は俺、デザイナーとして独立しようと思って。そんでさ……なぁ、学祭のポスター、いつもお前が描いてたやつ覚えてる? 実家帰ったらあれが出てきて、うわー俺やっぱ黒瀬のイラスト好きだなーって」  地元の大学を出て、東京に来て2年。仕事を辞めたことは誰にも話していないはずだった。男の家で居候をしていることなんて。 「だから黒瀬、俺と一緒に……」 「ちょ、ちょっと待って! は? 独立? 何で俺が無職って……」  焦った俺が割り込むと、上田は数秒沈黙して、それから心底おかしそうに大声で笑い出した。ひとしきり笑うと、上田はスマホの向こうで咳払いしてから、ぽつりと呟く。 「……やっぱ最高だわ。黒瀬、俺たちさ」 「いや、意味わかんないんだけど……」 「カマ掛けたんだ。お前なんか最近プレイ時間めっちゃ伸びてるから、もしかして……ってな!」  ドアの隙間から目に入った、ゲームの画面。数秒それを眺めて、ようやく上田とフレンドだったことを思い出す。正直、そんなことにまで気が回っていなかった。 「上田、お前マジかよ……。なぁ、このことは誰……」 「マジだよ。大マジ。俺、このチャンス逃したくなくて。カマ掛けが外れてお前に嫌われてでも、今お前に声掛けないと絶対後悔するって」  誰にも言うなよ、そう言いかけた俺を遮り、上田は低い声を出す。 「なぁ、黒瀬。頼む。……俺と組もう。友達としての頼みじゃない。ビジネスパートナーとして。俺、これでもめっちゃ勉強して……だからわかるんだよ。お前のセンスは並じゃないって」  上田の言葉に、俺は小さく息を呑んだ。そういえば、自分の才能を最後に褒められたのはいつだっけ?  薄暗い廊下に立つと、南向きのリビングが随分と明るく、暖かそうに見える。すっかり慣れきってしまったこの部屋の中で、俺は何をやっていた? 少し休んでいるだけ。逃げるのも必要。そう自分に言い聞かせながら。  ふと振り返った玄関ドアは、硬く冷たく無機質だ。これが開くことを心待ちにする日々。口先だけの焦燥感を抱えて、本当は安心していたんじゃないだろうか。 「まぁ、急すぎるよな。気ぃ悪くしたらごめん。お前の事情も知らないのに」  俺を気遣う言葉が苦しい。学生時代には肩を並べて夢を語った上田が遠くにいることよりも、今すぐその手を掴めないことが、何よりももどかしかった。 「とにかくさ、今度久しぶりに飯行こうぜ。俺、来月東京行く用事あるから。……な、黒瀬?」 「……あ、あぁ。でも、ちょっと急すぎて……」 「だからそれは置いといて。フツーに飲み行こ。積もる話があんだろ、お前も」 「上田、あのさ……」 「あっやべ、俺もう行かなきゃ。悪い、じゃあな!」  また連絡する、そんな別れ文句とともに通話が切れた。  俺は壁にもたれたまま、ずるずると床に座り込んだ。手の中にあったはずのスマホが床に触れて、ごつんと鈍い音を立てる。再び訪れた静寂の中で、胸のうちに、何かがゆっくりと込み上げてきた。  玄関には俺のスニーカーがある。洗面台には俺が選んだハンドソープがある。それから、壁のフックには2着のバスローブが。筑紫さんのを羨ましそうに見ていたら、次の日には買ってきてくれたんだっけ。   ここにいれば、欲しいものは何でも手に入りそうな気がする。だからきっと、この話を聞かせたら、筑紫さんは俺のことを応援してくれる。そしたら、俺は……。  その時、フローリングから立ち込める冷気が、ぞわっと俺の背中を撫でた。

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