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第5話

 コルクでできたコースターが、歪な柄のように濡れている。透明なガラスのコップがそれを隠して、長い指がどこか名残惜しそうに側面をなぞる。 「ハルカ、そこの醤油……」 「あ、あのさ」  意を決して切り出したとき、筑紫さんの茶碗の中があまり減っていないことに気が付いた。俺の様子がいつもと違うことを知りながら、この人は俺の言葉を待っていたんだ。その事実に、次に繋ぐ言葉が喉元につかえる。わけもない後ろめたさに、俺は視線を落とした。 「ん? どうした?」 「実は…………その、仕事見つかったかも、しんなくて」  この人と改まった話をするのがこんなに緊張するものだったなんて。いつもの俺じゃない、そう思われるのがなぜか怖かった。  コンマ1秒ほどの沈黙を挟んで、カチャリと控えめな音が聞こえた。筑紫さんの箸が箸置きに触れた音だ。 「すごい! おめでとう!」  パッと華やぐような声に、思わず肩が跳ね上がる。筑紫さんは心底嬉しそうに表情を緩めて、ガッツポーズをしてみせた。 「何言われんのかと思ってビビってたのに。なんだ。そんなこと……いや、すごいことだよ。よかったな、ハルカ」  長い腕が手前から伸びてきて、軽く立ち上がった筑紫さんに頭を撫でられる。大きな手のひらの感触が心地いい。まるで犬か猫のように、俺は素直に頭を差し出した。 「ごめん。なんか、恥ずかしくて……」 「あー、まぁ、その気持ちもわかんなくもない。で、どんな仕事?」  筑紫さんも安心したのか、再び箸を取る。 「大学の時の友達がデザイナーやってて、それで独立するらしくて……。一緒にやらないかって誘われて」 「デザイナー? ハルカが? 何系の?」  そういえば、醤油が必要なんだっけ。遮ってしまった言葉を思い出して卓上醤油を手に取ると、俺はそれを筑紫さんに差し出した。 「俺はアシスタント的な……。今度詳しく聞いてくる。俺、そいつと一緒に学祭のポスター作ってたんだ。俺がイラスト描いたりして。それで、なんか、ビジネスパートナーとしてやろう、って」 「……へぇ。そう。知らなかったな」  醤油を受け渡した時、筑紫さんの指先が、いつものように俺の手の甲をなぞる。擽ったさに顔を上げれば、ちょうど俺を見た筑紫さんと真正面から目が合った。 「それで、ハルカはどうすんの?」 「どうって……せっかくだから、やってみたいかなって」 「いや、仕事決まったってことは、ここ出てくんだろ?」 「えっ?」  思ってもみなかった質問だった。そんな約束してたっけ? そういえば、したかもしれない。  この家に来る前、俺が新卒で入ったのは、そこそこの大手企業だった。しかし、勝ち組だと思ったのも束の間、配属先がいわゆるブラック部署で。パワハラやモラハラは当たり前。最終的には、ゲイであることを誂われたのをきっかけに、上司と大喧嘩して辞めてしまった。社内公募に手を挙げて、ようやく異動が叶いそうだったのに。  その後は苛立ちと不安を誤魔化すように遊び歩いていて、紹介で知り合ったのが筑紫さんだった。学生時代の友達には恥ずかしくて知られたくない自分の現状も、ほとんど赤の他人相手になら話すことができる。それどころか、大袈裟な同情を買いたくて、職を失って食う所にも寝る所にも困っている、確か俺はそう言ったはず。だから、この人は今でもそれを信じているんだ。本当は、今すぐ出ていけるくらいのまとまった金が、ずっと前から手元にあるというのに。  気まずい罪悪感を抱きながら俺が思考を巡らせる間、筑紫さんは何も言わずに飯を食っていた。数秒の沈黙が、やけに重苦しく伸し掛かる。耐え切れずに、俺は俯いて口を開いた。 「あ、あー……えっと、やっぱその方がいい、よな?」 「うん。その方がハルカのためだと思うし。もちろん出て行けとは言わないけど」  間髪を容れずに、筑紫さんは今までと何ら変わらないトーンで言い放つ。  ……俺のため。その言葉に無性に腹が立った。   本当は、俺が出て言ったら困るくせに。俺のことを手放せないくせに。「うちにおいで」と言った筑紫さんの瞳にあったのは、憐憫と慈悲、それから醜い情欲。この人はいつだって本心を隠して、完璧な姿であろうとする。 「……そうだな。うん、そのつもり」  だけど、喉元まで出かかった言葉は、自分が炊いた白米とともに押し戻した。そんなこと俺から言わなくても、いざとなったら筑紫さんは、耳障りのいい言葉で俺を引き留めてくるはず。  半年間毎日のように料理をして、少しはうまくなったつもりなのに、なぜか今は味がしない。初めてこの家のキッチンに立った日も、今日も、変わらずこの人は「うまいよ」と笑うけど。  心の奥底で渦を巻く感情が溢れそうで、俺は奥歯で箸を噛んだ。ガリッという醜い音は、俺の体内で直接響く。

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