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【番外編】月夜の桜の木の下で
軽やかな風が吹き抜けていく深夜、王家の長であるジュオは、静まり返った廊下を侍女のアンナと共に歩いていく。ゆったりとしたローブ姿の彼の足元に、春風によって運ばれて来た桜の花が、ふわりと舞い落ちて来た。深夜の渡り廊下はまだ冷え込むだろうと思っていた二人は、予想に反して暖かな空気に満ちているこの場所に、顔を見合わせて笑い合った。
「存外、温かいものだな」
「左様でございますねえ」
アンナはジュオを見上げながら、ふわりと微笑んだ。温暖な気候のオルサラータの中でも、特に心地よい風を感じる季節がやって来る。それは、忙しく日々を過ごすジュオにとって、束の間の休息でもあった。
「これなら裸足でも良いな」
くすくすと子供の様に声を上げながら、母王は室内履きにしているバブーシュ様式の靴を脱ぎ捨てる。それを受けてぱさりと微かに音を立てた芝生は、その衝撃に命の芽生えを思わせる香りを吐き出した。
命の芽生えの季節、春。それを肌で感じ取り、二人は明日以降の日々へと思いを馳せていった。
「アンナ、彼方へ行こう。月夜の桜は綺麗だ。長くいなければ問題ないだろう?」
彼が指差す先に広がる春の夜の満月の下に、ぼんやりと輝いている大木が一本見えた。
そこは国王だけが入ることを許されている場所だ。本来ならばアンナの立場ではそこに付き従うことは許されないのだが、母王ジュオとその侍従であるアンナには、誰にも知られていない結びつきがある。そのため、アンナはジュオの言葉になんの躊躇いも見せず、小さくひとつ頷いてすぐに彼の言葉に従った。
「ジュオ様、おケガだけはお気を付け下さいませ。祝宴は明日なのですから……」
アンナは自由奔放な母王の後ろを、必死に走って追いかける。ジュオは恵まれた体躯をしていてスラリと背が高く、筋力もある。その彼がはしゃいで走ってしまえば、小柄なベータの彼女には、追いつくだけでもかなりの大仕事になる。
しかも、相手は国王だ。アンナが一緒にいるのに、ケガをさせる訳にはいかないだろう。
しかも、明日は第二王子に領土を分け与えるという重要な儀式がある。正式な場に出るからには、見た目にも細心の注意を払わねばならない。
たとえ私的な時間とはいえ、かすり傷一つ負わせるわけにはいかないだろう。アンナは、青い顔をしながら、必死にジュオを追いかけた。
「大丈夫だ、アンナ。ちゃんと分かっている。ただ、明日からの一年は、私にとっても辛い日々になるだろう。少しは気を抜かねば、とても平静ではいられないのだよ」
ジュオはそう言うと、左手首を自らの右の手で握り込んだ。今夜遅くに、この場所に大きな傷をつけることになる。
それは、オルサラータ王国オメガ母王の使命。
アルファしか生まれない王家にオメガを誕生させるため、代々受け継がれてきた手法による秘薬作りをする上で、どうしても避けて通る事は出来ない道だ。
「それはそうですが……。せめて早足で歩くくらいにして下さいませ。おケガを召されますと、アンナは首が飛びます!」
侍女の必死の訴えに、ジュオは目を剥いた。小さな侍女の必死の訴えに、胸の奥に灯りが灯る様な気がした。
ざあっと音を立てて揺れる桜を仰ぎ見ながら、真摯な彼女の思いに応えようとする。これから先の戦友となるアンナには、最大の信頼を得ておきたい。そう考えていた。
「ああ、そうだな。私の失態のせいで罰を受ける事になるのは、私ではないのだった」
そう言ってニヤリと口の端を持ち上げる。アンナはジュオのその表情を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
「——お分かりでしたら、もう一度きちんとこちらをお召しくださいませ」
そう言ってジュオが脱ぎ捨てたものを差し出す。シルクと革で出来ている室内履きを手に、ジュオに詰め寄った。
「アンナよ、なんと恐ろしい顔をしているんだ。分かった、分かったから。ほら、履かせてくれ」
母王は小さな侍従の顔色に軽やかな笑い声をあげ、その命令に大人しく従う。そして、その足が柔らかく滑らかな革の底にあたるのを待つと、再び歩き始めた。
「ところでジュオ様。明日のことですが……。本当にあの計画でよろしいのですか? イファ様はともかく、何も知らされないイセイ様は、一年間苦しまれる事になるかと……」
「だが仕方がない。いつまでたっても尤もらしい言い訳をうだうだと並べ連ねて、何もしようとしなかった腰抜けどもが悪いのだよ、アンナ」
「それはそうかも知れませんが……。本当によろしいのですか? いくらそうしてこの国が続いて来たとはいえ、お二人が不憫でなりませんし……。それに、私はあなた様の事も心配なのですが。一年間苦しむ我が子を、黙って見ていられるのですか?」
侍女は声と共に身体中を微かに震わせ、ジュオにそう尋ねた。
母王にとって、息子の成人の儀を迎える前の一年とは、人の一生を揺るがすような決定をする時期でもある。何も知らない子供たちに、枷をつけるようなものだ。その行為に、ジュオが苦しまないわけがないという事を、アンナは痛いほどに理解している。
「これに私の血を……。オルサラータの蜜を封じ込めれば済む話だ。その後に起きることは、彼らにとって幸せでしかない。私はそう信じている」
彼はそう言うと、その白く滑らかな肌の側で、深い飴色に輝く小瓶を振ってみせた。
「一方的な愛では苦しいだろうが、好き合っているのだ。問題ない」
アンナは、ジュオの手のひらに黄金色の光を映し出している、その小さな瓶を眺めた。
その中で、何かの液面が揺れていた。
液面に、ジュオがカルールと番い、弾けるような笑顔で自らのもとに報告に来てくれた事を思い出していた。
『生き延びたぞ! 愛の力だな』
ジュオの無事を知って涙を流したことは、誰にも明かしてはいけないアンナの秘密だ。
この残酷な風潮の中で逞しく生き抜いていく王子たちを見守ると、アンナがそう決めてから約三十年が経つ。
アルファに生まれ、恵まれた十代を過ごしたのちに、命をかけてオメガに生まれ変わることを余儀なくされる。その過程で命を落とすものは多く、それはひた隠しにされてきた。
何人もの王子が犠牲になっている。ジュオの兄弟は皆亡くなった。今生きている兄弟は、全て身代わりの者たちだ。
——温暖で鷹揚な国の、隠された秘密……。
「どうか問題なくことが運びますように」
イファとイセイが結ばれて、ジュオとカルールの時のような笑顔を見たい。アンナは、ただそれだけを願っていた。両手を強く握り締める。そんな彼女の背中に、ジュオはそっと手を添えた。
「案ずるな、アンナ。鳳凰が二羽いることは理に反する。すぐさま正した方が良かろう。大丈夫、これは間違いなく皆が幸福になることを約束してくれるものだ。私はイセイの……そして、イファの、更にはそれによってもたらされるサイリューの幸せを願っている。だから、アンナ。その時が来るまでは、明日以降の一年間は、その口を固く閉ざしていてくれ。良いな?」
そう言ってふっと緩んだジュオの表情には、母らしい深い愛が刻まれていた。
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