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「マスター、俺もいつもの」
十年もの月日が流れているとは思えないような自然な動きで、マスターに『いつものように』注文した。
「颯太くん……? な……んで」
僕は驚きながらも、無意識にその場から逃げようとした。
颯太くんのお母さんから、二度と颯太くんの前に現れてはいけないと言われている。僕と会ったなんてバレたら、颯太くんだってまずいはずだ。
けど椅子から立ち上がって、この場を去ろうとした僕の腕を、颯太くんはガシッと掴んだ。
「どこに行く? 久しぶりに会えたんだから、少し話をしよう」
落ち着いた声で優しく言ってるけど、颯太くんは本当は困っているのかもしれない。もう会ってはいけない僕に、偶然会ってしまったんだから。
「……あ、でも、僕これから用事があって……」
「春陽……ごめん……」
やっぱり逃げようとする僕を見て、颯太くんは明らかに気落ちした様子で、僕に謝ってきた。
「え、なんで颯太くんが謝るの? ……僕こそごめんね、急に黙って遠くに行っちゃって」
颯太くんのお母さんに言われた話の内容は、颯太くんには言えない。僕が勝手に遠くに行ったって伝えれば、きっと颯太くんは諦めてくれるはずだ。
「全部、知ってるんだ。母が春陽に会いに行ったことも、手紙を出したことも」
「え……?」
僕は驚いた。まさか颯太くんが全部知っているとは思ってもいなかった。颯太くんのお母さんだって、僕に会いに来てあんなことを言ったなんて、知られたくないことだろう。
「あの日春陽から、ご両親の実家に行くことになったから、しばらく会えないと連絡があっただろう?」
そう、僕はあの日『母が少しの間、祖母の世話をすることになった。僕も同行するから、しばらく会えないし連絡もできない』という内容のメッセージを送ったんだ。
「けど、一週間くらい過ぎた時に、俺は我慢できずに春陽に電話したんだ。そしたら、その電話はもう使われていなかった」
颯太くんの苦しそうな表情に、僕は思わず顔を背けた。
祖母のところに行くと言ったのは、全部嘘だ。実際には、オメガの保護施設に入るために、一人で遠く離れた地に行ったんだ。
もう颯太くんとは二度と会えないから、思い出のたくさん詰まったスマホも解約した。
「さすがにおかしいと思って、マスターに聞いたんだ。そこで初めて、俺の母親が春陽と会っていたって知って。……まさかと思って母を問い詰めたんだ。そしたら母は悪びれもなく、全て話してくれたよ」
「そっか、全部聞いたんだ……」
颯太くんのお母さんに言われたのは事実だけど、颯太くんの前から姿を消す決断をしたのは僕自身だ。
本当は、家庭で対応できるのなら、オメガを保護するのは施設じゃなくても構わない。うちは家庭用のオメガのシェルターもあるし、いざという時の備えもちゃんとしている。だからうちの両親は、僕が施設に入ることを反対していた。
……けど僕は、颯太くんに偶然でも会ってしまわないように、遠く離れた施設に入ることを選んだんだ。
「全てを知った後、俺は親に反発した。けどまだガキだった俺は、悲しいくらいに無力だったんだ。だから俺は親に交渉した。再び春陽を迎えに来れるようにって」
颯太くんはそこまで話すと、昔と変わらず、僕と向かい合った席に座った。そして僕の手を取って、ニコッと太陽のように微笑んだ。
「十年かかって、やっと親を説得することができた。……十年前から、俺の気持ちは変わらない。あとは、春陽の気持ちだけだ」
「え、だって、颯太くんには婚約者が……」
僕は戸惑って視線を彷徨わせた。
颯太くんの言葉はまるで、十年経った今でも、僕たちの夢は変わっていないって言っているみたいじゃないか。
「婚約者なんていない。母が勝手に話を進めようとしたから、俺は断ったんだ」
「でも、僕は颯太くんの前から……逃げて……」
「春陽が、俺のことを考えてくれた上での行動だってわかってる」
「颯太くんには、もっとお似合いの……」
颯太くんは、いずれお父様の会社を継いで、引っ張っていかなければならない人だ。だから僕なんかじゃなくて、もっとお似合いのがいるはずだ。
颯太くんから逃げた僕には、そんな資格はない。
「俺には、春陽しかいない。春陽と一緒になれないなら、誰とも結婚しない」
「えっ! それはダメだよ! 会社はどうするの?」
颯太くんがとんでもないことを言い出したので、僕は驚いて颯太くんの手をぎゅっと握り返した。
「俺と結婚して、春陽がそばで支えてくれればいい」
「け、結婚⁉︎」
「春陽は、嫌なのか? 俺との結婚は」
「嫌とかそういうのじゃなくて……」
「じゃあ、決まりだな。俺と春陽は結婚して|夫夫《ふうふ》になる。これで何の問題もないじゃないか」
「え、でも、だって……」
あまりの急展開に、僕の思考回路はショート寸前だ。
十年の区切りに、颯太くんへの思いを断ち切るためにここにやってきたのに、何でこんな話に……。
「俺は、春陽の本当の気持ちが知りたい」
颯太くんは、先ほどの穏やかな表情とは打って変わって、真剣な表情で僕を見つめた。
この瞳を見たら、颯太くんが冗談でこんなことを言っているのではないことくらい明らかだ。
颯太くんが十年もかけてご両親を説得して、こうやって僕の手を取って思いをぶつけてくれている。
「僕が、もう他の人を好きになってるって、思わなかったの?」
僕は返事をする前に、颯太くんに聞いてみたくなった。十年も会えなければ、新しい恋人ができていても不思議じゃないはずだ。
「それはないな。俺には春陽しかしないし、春陽にも俺しかいない」
自信満々にそう言い放つ颯太くんに、僕の瞳からはポロリと涙が溢れた。
「参ったなぁ……。いつまでも気持ちを引きずっていても仕方がないし、最後にここへ来て気持ちの整理をしようと思っていたのに……」
そう言いながら、僕は再び、握られた手をきゅっと握り返した。
「僕も、十年間気持ちは変わらないよ……。忘れた時なんて、一度もなかった……」
僕の言葉を聞いて、自信満々に言い放っていた颯太くんが、目を見開いて驚いた顔をした。
ふふ。なんだよ、それ。
僕は、思わずぷっと吹き出した。
「よかった……」
安堵した様子で颯太くんが呟いたタイミングで、颯太くんの注文したホットレモンティーと紅茶のシフォンケーキがテーブルに出された。そしてもうひとつ、追加でホットレモンティーも置かれた。
「せっかくですから、温かいのをどうぞ」
そう言ってマスターは、すっかり冷めてしまったレモンティーを下げて戻って行った。
「マスターの気持ちを、ありがたくいただこうか」
「うん」
ふたり一緒にカップを持ち、思い出のレモンティーを口に含んだ。心も体もじんわりと温まる。
マスターのはからいなのか、思い出のあの曲も店内に流れ始めた。
「あの頃に、戻ったみたいだな」
「そうだね」
温かなレモンティーをゆっくりと口に運びながら、しばらく黙って思い出の曲に耳を傾けていた。
◇
僕たちが再会したあの日から、結婚の話はとんとん拍子で進んだ。
喫茶店で他のお客さんがいる中で、颯太くんからの正式なプロポーズを受けた。僕の家族と颯太くんの家族の顔合わせも済ませ、結婚式の準備も進んでいる。
今日は、打ち合わせのために、颯太くんと思い出の喫茶店に来ていた。
「マスターこんにちは。無理言ってすみません」
「いいんですよ。おふたりの晴れの舞台のお手伝いをできるなんて、私は幸せ者です」
マスターはそう言いながら、そっと目元を拭った。
僕たちは無理を言って、二次会は思い出の喫茶店でやりたいとマスターに相談したんだ。
メインの結婚式の準備よりも、二次会の準備の方が楽しかったというのは、ここだけの秘密だ。
「当日が楽しみですね」
「はい!」
今日もいつものように、テーブルの上にはふたり分のレモンティーと紅茶のシフォンケーキ。そして店内には思い出のあの曲が静かに流れていた。
終
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