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第3話

 その夜、悠也が久しぶりに私のマンションに来た。  今まで週末にしか来たことがないのに、平日ど真ん中の今夜を選んだ理由は、私から見てもあからさまだった。  そして私は私で言いたいことがあった。あの後、惑乱する思考をどうにかかき集めた結果、これだけは言わなければと思ったこと。 「大学の敷地内でああいう接触は止めろ」  悠也の後にシャワーを浴び、髪をタオルで拭きながら、私は硬い声で言った。悠也のためにも、きちんと釘を刺しておかなければ。再来月の卒業式までは、周囲に私たちの関係を悟らせるわけにはいかない。 「はい。ちょっと反省してます」  ソファで寛いでいた悠也が、読んでいた本を閉じて私を見上げる。 「でも、圭のあんな顔見ちゃったら我慢できなくて」 「言い訳をするな」  憮然とした。大体、私がどんな顔をしていたというのか。私は基本的にいつも無表情のはずだ。 「――あ。そういえばさ」  私の機嫌を察知したのか、悠也は、床に置いていた自分の鞄を引き寄せ、中から小さな紙袋を取り出した。持ち手にあしらわれたリボン。数日前、図書館前で女性が手渡していたプレゼントだ。 「それは、」  思わず口を開いていた。 「貰い物じゃないのか」 「うん」  機嫌よくうなずいてから、悠也が、あれ、と私を見上げた。 「何で知ってるんですか?」 「――……」  見ればわかる、と即答すれば誤魔化せた。しかし私は言葉に詰まった。その沈黙が答えになる。 「ひょっとして、見てた?」  悠也の瞳が嬉しそうに細くなる。大切なものを見つけた子どものような表情。  たまらず私は視線を逸らした。頬が熱くなる。悠也の前ではいつも拙い反応を見せてしまう。 「圭」  小さく肩が跳ねたのも、悠也はきっとお見通しだろう。 「こっち来て」  こうなると抗えない。言われるがまま、悠也の隣に腰を下ろす。  紙袋から取り出されたのは、つるりとした掌大の容器だった。少し大きいマカロンのような形状で――これは一体何だ? 「俺に似合う香りなんだってさ」  笑う悠也に、小さく胸の奥が軋む。この感覚は何に対してのものだろう。悠也にこれを贈った女性なのか。それとも、悪びれずそれを受け取った悠也なのか。  チョコレート色の容器を開くと、ふわりと甘い香りが広がった。キャラメルのような、しかしもっと深く上品な。  紙袋を差し出した小柄な女性を思い出す。彼女のセンスは素晴らしい。確かに悠也に似合う、いい香りだ。胸の奥が強く軋む。  悠也の指が、ベージュ色の、傷一つない真っ平らな表面を無造作に掬う。空いたもう片方の手が容器をテーブルへ置き、そのまま私の顎を捉えた。 「何を、」 「じっとして」  抗えない。悠也の視線は私の唇へ注がれている。  唇に、甘い香りを纏った悠也の指が触れた。ぴく、と小さく肩が跳ねる。 「乾燥する時期でしょ」  私の唇に丁寧に香りを塗り込めながら、悠也は真剣だった。くすぐったい。 「なのに圭は無頓着だから」 「……うるさい」  頬がまた熱くなる。ふわりと甘い香りが鼻先に触れる。慣れない。 「リップクリームなのか、それは」 「うん。リップバーム、って言ってた。俺もよくわかんないですけど」  悠也は満足そうに微笑むと、指先に残った分を自分の唇にそっとつけた。 「ん、いい匂い」  かたちの良い悠也の唇が鮮やかに艶めく。滑らかに滑る指の動き。つい先刻、私の唇を同じように撫でたその感触を思い出し、ぞくりと小さく息を詰める。 「圭に塗ってあげたくて貰っちゃいました」 「お前へのプレゼントだぞ」  反射的に言い返す。リボンがあしらわれた紙袋。わざわざ選ばれた香り。胸の奥の微かな軋みが蘇る。  悠也は無言で私を見た。そうして、ふ、と笑う。吸い込まれるような微笑。  唇が重なる。むせ返るような甘い香り。触れ合う唇はいつもよりほんの少し執拗な気がした。 「……、っ」  離れた時には、私は情けないほど息を乱していた。 「そんなこと、気にしなくていいよ」  悠也の手が恭しい所作で私の眼鏡を外す。ぼやけた視界の中、至近距離で私を映す悠也の瞳だけがはっきり見えた。 「ん、っ」  反論しようとした唇が、またすぐに優しく塞がれる。はっきりと執拗に、同じ香りを塗り付け合うように。  繰り返されるキスで思考が滲んでいく。何か言おうとしたはずなのに、言葉は意味を成さない喘ぎへ溶ける。 「…ぁ、っ、……ん、ぅ」  甘い香りが口内を満たした。  逃げを打つ舌をなぞられ、腰へ甘く震えが落ちていく。頭の芯が痺れる。もう何も考えられない。  背を抱き締める腕。気づけば悠也の肩に縋りついている指。  いつの間にか、胸の奥の微かな軋みは消えていた。代わりに私の中に悠也の存在だけが満ちていった。 <了>

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