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第2話

 しかし、数日後、さすがに「慣れた」とは言い難い場面に行き会ってしまった。  実験棟の階段だった。三階から四階へ上ろうとして、踊り場の手前で足を止めた。女性の声が上方から聞こえてきたせいだ――「秋吉先輩」と呼ぶ声が。 「すみません、急に呼び止めちゃって」  女性の声は明らかに緊張していた。聞き覚えのない声だ。 「別にいいよ。どしたの?」  いつもの悠也の社交的な声。柔らかくて穏やかな。掌に嫌な汗が滲む。  二人の姿は見えない。私の頭上、踊り場の上で、どんな表情で向き合っているのだろう。 「あの」  意を決した声だった。聞いているこちらまで心臓が跳ねるような。 「秋吉先輩、彼女とかいるんですか?」  本当に心臓が跳ねた。この質問が何を意味するのかぐらいは私も理解している。そして、この問いに対する悠也の返答が、私にとって重要な意味を持つことも。 「いないよ」  胸の奥がずきりと痛んだ。それでも思考だけは明晰だ。確かに、彼女ではない。 「えっ……じゃあ、」  女性の表情は見えなくてもわかった。ぱっと花が咲いたような笑顔だろう。  しかし。 「彼女じゃないんで」 「え」 「俺、男の人と付き合ってんの。だからごめんね?」  軽やかで、明るくて、まるで天気の話でもするような口調。そのあまりの自然さに、思わずぽかんとしてしまう。――今、とんでもないことを言わなかったか?  小さく息を呑む気配がした。「すみませんでした」と小声の後、女性の足音が階段を駆け上がっていく。 「!」  はっとした。別の足音が降りてくる。悠也だ。まずい、と思ったときには遅かった。  悠也は、踊り場で立ち尽くしている私を見ても表情を変えなかった。ただ、私の横を通り過ぎるとき、ほんの少し歩みを緩めた。 「っ、」  一瞬のことだった。頬に触れる唇。頬が熱くなる。 「またあとでね、先生」  耳元に柔らかな囁きを残して、悠也は何事もなかったような顔で階段を降りていった。  頬の熱は去らない。鼓動がうるさい。どういう表情をすればいいのか、何を考えればいいのか、掴もうとするそばから思考が空転する。  悠也の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は棒切れのように突っ立っていた。

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