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第1話

「さァ、さァ。 ー今宵もようこそーいらっしゃいました」 おそらく人型の姿をした者の口元も、目元すらも、はっきりと覚えていない。 だが、たしかに聞こえた言葉も、これ以上ないほど 大袈裟な身振りで示された歓迎が、目覚めたあとも忘れることなく、ずっと頭から離れていかない。  それにしてもここ最近、あの少し変わった夢のお陰で寝覚めの気分は悪くないが…、 全身に溜まった疲労がずっしり重く伸し掛かる。 身体を引き摺るように起き上がるだけで、ため息が溢れていく。 シャツのボタンを留めることすら、だらだらと億劫なまま、どうにか着替えを済ませる。 朝のニュースを流し見ながら、少し焦げたトーストを齧った。 トーストの黒く焦げた端は、硬くガリガリ音を立て噛むのに苦労し、あまり美味しくない。 手のひらについたパン屑をゴミ箱へ払い、鞄を持つ。 まったく、…あの夢とは大違いだ。 くだらない考えに頭を振って、家の鍵を閉める。 まだ、あと二駅ほど停車予定の電車は、すでに沢山のスーツ姿が乗り込み、少しの隙間もない。 毎朝の繰り返しに、うんざりしているのはきっとみんな同じだろう。 ぎゅうぎゅう、密集した狭い中をどうにか押し進み乗り込んでつり革に掴まる。 聞き慣れた音声が流れ、がたがた、音を立て走り出した電車に揺られながら、窓から覗く風景をぼんやり眺めた。 途中、停車した駅で新しく乗り込んできた乗客に、さらに狭く、息を吸うたび両肩がぶつかり擦れていく。 ようやく、着いた駅につかんでいたつり革を離し、ぞろぞろ、電車を降りたあとは改札口を通る。         寝不足の身体には、電車の揺れもあの密集した空間も堪える、、。 だが、休んでいる暇はない。 茹だるような暑さの中、浮かんだ汗をハンカチで拭き、会社のエレベーターに乗り込む。 自身のデスクに鞄から取り出した書類を置き、腰を下ろす。 先ほどまでの焼かれるような暑さで熱された身体が空調の効いた部屋で冷やされ、眠気を誘うほど心地良い。 迫り上がる欠伸を噛み殺し、書類に目を通す。 少しの数字に、書かれている文字。 対してどれも内容に違いはないが、うっかり見逃しては大変なことになる。 そう頭では理解しているが、どこか気が抜けていく。 「おはようございます、…夢乃さん。」 隣のデスクに、のっそりとした動作で、後ろへ撫でつけられた黒髪が跳ね、丸みを帯びた背中で現れた桜井翔(さくらいかける)の気怠げな挨拶は、さらに仕事へのやる気を削り取っていく。 「おはよう、桜井。 今日も遅れたのか…? それともう少し姿勢を良くしないとまた、呼び出されるぞ」 ただ、ほんの少し話をするだけでも部長から「私語厳禁」と注意が飛んでくるため、鞄を置く桜井を横目に仕事を処理しながら小声で話す。 お陰で仕事の内容も、必要な引き継ぎも気軽に話すことすらできない。 効率が悪いうえ、辞めていく人間も多く手に負えない。 「あぁ、…夢乃さんが言われるなら分かりました。 少し電車の遅延が起きまして、…部長にも理由をお話しているので大丈夫です。 それよりも、今日も顔色が優れませんね。 …大丈夫ですか」 丸まっていた背中が、真っ直ぐ伸び姿勢が良くなった桜井は鞄から取り出した荷物をゆったり、机に並べていく。 今も、ちらちら、うんざりする視線をこちらに送っている部長の姿は桜井の意識に毛ほども入らないようだ。 「最近、寝つきが悪くてな…寝不足なだけだ。 心配してくれるのは有り難いが、来てるぞ」 どす、どす大きく足音を立て、今にもはち切れそうなボタンを揺らしながら、近づいてくる部長の姿は書類を見ていても視界に見切れるほどだ。 とくに桜井に目を付けている部長は、桜井が何かするたび、こうしてこちらへやってくる。 だからこそ、誰も桜井の近くで仕事をしたがらない。 「あ~、おはよう…桜井君。 今日も、随分、遅い、出社だね。 いくら、事故による遅延だとしても頻度が多すぎると思わないかね。 真っ当な社会人ならば、どんなに理由があろうと、遅れないように対策をし、遅れたならば他の人よりも仕事を」 椅子から立たせた桜井の前に、仁王立ちで身体の大きさに負けないほどの声量で注意をし始める部長の鼻息が荒く、毎度のことといえど自己主張が煩い。 部長の熱意ある注意のお陰で、先ほどまで効いていた空調のの涼やかさも消え失せ、じっとりとした暑さで汗が滲む。 大人しく話を聞いている桜井は、目の前の部長とは対象的なすんとした涼し気な顔で、静かに頷いている。 しかし、たしかに桜井が乗る電車は、どれほど時間や駅を変えても毎日と言っていいほど、事故による遅延や故障などトラブルで遅れている。 たとえ、交通手段を変えたとしても、今度は違う問題に巻き込まれては遅れてくるため、手のつく仕様がないと言える。 だが、それでもこうして部長が桜井を捕まえるのは 目元は鷲のように鋭いが端正な顔だちに、程良く筋肉のついた身体に案外、ああ見えて仕事の出来も良いからだろうか。 そのすべての良さが、本人の近寄りがたさと無気力な姿勢で相殺しているが…、、。 「とにかく、次からはくれぐれも気をつけて来るように、分かったかね桜井くん! それから、先輩である夢乃くんもいろいろと気をつけたまえ!」 そんなことを考えているうちに、 ようやく、桜井への長い話を終わらせた部長の顔がぐるりとこちらに向き、放たれた注意に短く返事を返す。 「ふん」 荒く鼻を鳴らし、自分のデスクへまた、どすどす、戻っていく部長の姿を見送り、こみ上げてきたため息を飲み込む。 どうやら、今日は一段と機嫌が悪いようだ。 あの様子では、これ以上なにか、ほんの少し話を しただけでもまた、すぐに飛んでくるだろう。 ピリピリとした張り詰めた空気が周囲に漂う。 襲い来る睡魔を払いのけ、気を引き締めなおしたあとは、さっさと仕事を終わらせていく。 良かった…、定時で上がれそうだ。 時間に合わせ、少しずつ荷物を鞄に詰め、時計が鳴るのを待つ。 しかし、退社5分前に追加で運ばれてきた書類に、内心、苛立ちながら取り掛かるが、 結局、退社時間を過ぎた頃に仕事を終えた。 ちらりと見た周囲のデスクには、まだ書類を見ている者や作業している者の姿が見えるが、部長の姿はない。 よし、これなら今度こそ仕事の引き継ぎを受けることなく無事に上がれそうだな。 「桜井、私はこれで上がるが…」 「あぁ、僕も終わりましたので。 それじゃあ、…お疲れ様でした」 周囲に小さく挨拶をし、さっさと荷物を持ち、 エレベーターへ向かう桜井の後を慌てて自分も挨拶をしたあと追いかけた。 多少、マイペースだが、他よりも多い仕事をきっちり、時間内に仕上げられる優秀な桜井が、何故、 さほど優秀でもない自分に懐いてくれているのかも分からない。 もちろん、嬉しいことだがほんの少し、桜井に劣等感を覚える。 ぼんやり、エレベーターの階数表示を眺めている桜井の横顔に浮かんできた暗い気持ちを振り払う。 「夢乃さんには、 いつもご迷惑をおかけしていますので、今日は僕がご馳走します。」 目的の階数に到着し、会社を出たあと通行人の邪魔にならないように、少し先で立ち止まった桜井の隣に並ぶ。 「桜井、迷惑など掛かっていない、…部長のことなら気にするな。 それに、たまには自分の好きなことをしたほうが、良いんじゃないか」 「ありがとうございます。 夢乃さんと過ごしたいのですが、…ご迷惑でしたか」 自分よりも少し背が高いというのに、まるで下から見つめられてるような錯覚を感じ、胸が痛む。 桜井のゆっくり瞬きをし、少し眉が寄せられた 真っ直ぐに見つめてくる月白色の瞳に思わず息が詰まる。 「い、いや。迷惑ではないが…、」 桜井を傷付けないように、うまく断ろうと言葉を考えたが、どうにも丁度いい言葉が見つからないまま、言い淀んでしまう。 「それは良かったです、 さァ、はやく行きましょう」 結局、普段通りの表情で、先ほどより弾んだ足取りで、再び歩き出した桜井の後を歩く。 ここ、一年ほどで通い慣れた飲食店の扉を潜る。 「いらっしゃいませー!お好きな席にどうぞ」 明るくよく通る声に快活な笑顔とともに出迎えられ、丁度、よく空いていた角のコーナー席につく。 この席なら、それほど人目を気にせず食事することができる。 最初は聞き馴染みがなく、耳によく入っていた店内に流れる曲も、もはや、意識して聴かなければ、 ただの音として耳を通り抜けていく。 横に置かれたメニューを眺めても、新しい料理が、あるわけでもない。 だが、つい手に取り違う所がないか、見てしまうな。 「僕は和風定食にします、 夢乃さんはどうされますか」 テーブルにあらかじめ置かれていたポットを持ち、 空のグラスに水を注ぐ桜井は、メニューに目を通すことなく、いつも通りの和風定食を頼むようだが、 味に飽きないのか。 「ん、私も桜井と同じものを頼む。」 これと言って特に食べたいものもない。 たまには桜井と同じものを頼むのも良いだろう。 零れそうになる欠伸を手のひらで押し留めながら、注文を済ませた。 「夢乃さん。 会社では寝つきが悪いと仰られていましたが、 夢見でも?」 桜井の鋭い眼差しに、持ち上げたグラスをそっと机に戻した。 たしかに、何度も欠伸をするのはいくら、親しくとも良くないな…。 「気に障ってしまったか、すまない」 それでも刺さる視線にどう話したものか、 悩みながらも口を開あけた。 「…桜井は、 同じ夢を何度も見たことはあるか?」 手元のグラスについた水滴が、少しずつ下へと伝い落ちていく。 「いえ、すみません。 僕は夢自体、あまり見ないものでわかりません。 なにか、恐ろしい夢でも?」 小首を傾げて答えた桜井の言葉に、落胆から肩を落とす。 気遣わしげな表情を浮かべた桜井は、この悩みを茶化したりはしないだろう。 話を聞いてもらうだけでも、なにかの気晴らしになるかもしれない。 「いや、 ゾンビや空中から投げ出されるようなゾッとする夢ではないんだ。 ただ、なにかからとても良く歓迎されている、、 夢を、この数日眠るたびに見ているんだ。 それで、、」 そうは思ったもののやはり、恥ずかしさから、 ためらいを覚え、はっきりと夢の内容を話すことはできなかった。 店内の陽気な音楽に、少し離れている席のガヤガヤとした話し声が消え、静かになったわけでもない。 だというのにまるで、辺りが静まり返ったような居心地の悪さに座りなおす。 「ーなるほど。 それはたしかに、困りましたね…。」 真剣な表情で頷いた桜井に、内心安堵のため息を吐く。 「お待たせしました〜! こちら、ご注文の和風定食になります」 店員の明るい声とともに届けられた定食を受け取る。 綺麗な焼きめのついた鮭に、きゅうりの漬物が入った小鉢、味噌汁に白米が載った定食の良い匂いが漂う。 「まぁ、偶然、同じ夢を見ているだけだろう。 さぁ、冷める前に食べよう」 「ありがとうございます」 手渡した箸を受け取ったまま、何かを考えている 桜井をよそにきゅうりを口に運ぶ。 「ゔっ」 すっぱい。 手に持った箸を握り締め、お冷やを一息に飲み干す。 おかしい、この店の漬物はここまで口を窄めるほどの強い酸味を感じることはない。 「どうされましたか?」 訝しげに顔を覗き込む桜井に首を横に振る。 「いや、少し噎せてしまった。 それよりも桜井は食べないのか」 「はぁ…、いただきます」 桜井が漬物を口にいれ、咀嚼するのをちらりと盗み見る。 「相変わらず美味しいですね。 バランスが取れた梅と酢の味とこの食感が好きです」 味わいながら味の感想を話す桜井は、とても嘘を言っているようには思えない。 寝不足に溜まった疲労のせいで、普段よりも味が濃ゆく感じたのかも知れない。 もう一度、漬物を舌先にそっと置く。 「美味い、、」 先ほど感じた強い酸味はまったくない、変わらない味付けに少しずつ咀嚼していく。 やはり、たまたま酸味が強く感じたのか、 ほっと一息つき、湯気がのぼる味噌汁を口に含んだ。 「げっ、ほ」 信じられない…。 溶けきれなかった味噌のようなどろりとした舌触り、喉が渇くような塩辛さに何度も咳き込む。 「大丈夫ですか、夢乃さん」 空っぽのグラスに中身を注ぎ、そっと置いてくれた桜井に小さく手を横に振り、器を置く。 納得のいかない様子で味噌汁を飲む桜井の姿を滲む視界で凝視する。 「豆腐とわかめの味噌汁が一番、美味しいですね。 それにこのだしも最高ですね」 ほんの少し緩んだ口元に、満足気に頷く姿に驚きながら、味噌汁の器を手に取った。 振動で揺れた汁が小さな波をたてる。 塊になった味噌が沈んでいるようには見えない。 少し口に含む。 あのドロリとした食感はきっとわかめだったんだろう、今日は一段と疲れているのかもしれない。 「この鮭の皮もぱりぱりで美味しいです。 お米ももよく合うおかげで箸が進みますよ」 「そうなのか…」 一口ずつ食べ進めながら、丁寧に感想を教えてくれる桜井に、気を取り直し箸を手に取る。 美味しそうな焼き目のついた鮭を切り分け、恐る恐る口に放り投げるように入れる。 「…」 柔らかくほどよい塩が効いた鮭も、白米の上品な甘みも、見た目と変わらない。 しっかりとした旨味を感じる。 味や食感が変わらないというのに、 さ妙な舌触りや塩辛さなどがなくなっただけで、 ここまで美味しく感じられるのか。 少しずつ食べ進めていくうちに、 ずっとぼやけていた視界も、頭の中も開けていく。 「あァ、夢乃さん。 ずいぶん顔色が良くなりましたね、安心しました。」 「気にかけてくれていたのか、すまない。」 すでに食事を終え僅かに口元を緩め、顔色を窺う桜井に箸を止め、目元を緩める。 今夜は、はやめに就寝して桜井に気を遣わせないようにしなければ。 「握手をしていただけないでしょうか、夢乃さん。」 「あぁ、構わないが」 残り少ないグラスの中身を飲み干し、 空のお盆を邪魔にならないよう、机の片隅に寄せる。 手のひらについた水滴を拭き、利き手を差し出す。 「ありがとうございます。 それでは、失礼して」 そっと触れた手は、骨ばっていて、とても触り心地が悪い。 空調のよく効いた涼しい店内だったというのに、 まるで焼けるように熱く感じる桜井の体温、 少しも逸らされることのない瞳に、じっとり、汗をかく。

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