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第13話
「ーは、」
ベッドの縁へ腰掛けて、穏やかな笑顔を浮かべる姿に、短い息が溢れ落ちていく。
ーこれは、…きっと、夢だ。
最期の夢を見ているに、違いないんだ
「おはようございます、…夢乃さん。
ー約束通りに、あなたを迎えに参りました」
そんな僅かな期待すらも打ち砕く、淡々とした口調で話す声に滲む悦び。
握られた手の硬い感触に、覗き込む月白色の瞳が
思考を逃避させることすら許さない。
「森山、は」
ぐるりと見渡した部屋に、あの派手な姿はどこにもない。
頭のなかを埋め尽く疑問は、焦燥感に不安を募らせていく。
「あァ、彼ですか…。ご心配には及びません。
ただ、少し荒海くんと遊んでいるだけです」
まるで些細なことだとでも言うように、小首を傾げて頷いた桜井の言葉に、全身に力を込めて起き上がる。
呆気なく解けた手に戸惑いを隠せないまま、ただ、縺れる足をひたすらに動かして部屋から飛び出す。
振り返った先で見えた、桜井の落ち着き払った様子に、拭いきれない違和感が先を急がせる。
階段を転げ落ちるように降っていく。
満足に受け身もとれないまま、床に打ち付けられた身体が、ずきずき痛みを訴える。
激しい息切れに目眩、動悸に視界が点滅して、
まともに立っていることすら、できない。
こうしている間にも、森山は大怪我をしているかもしれない。
ずるずると壁に手をついて、森山の無事を祈りながら、ようやく辿り着いた玄関の扉を開く。
「さァ、さァ。
ー今宵もようこそーいらっしゃいました。
なぁんてね、先輩」
ひんやりとした感触に鼻へ届く海風の香り。
頭上から低く唸るように響く声は隠しきれない興奮と愉悦をはらんでいる。
「は、、」
掴んでいたはずの取手が消え、宙を描く手を取られ抵抗する間もなく、無骨な手に身体を引き寄せられる。
背後にあったはずの家も、辺り一面を覆っていた木々も、すべて足元の水の中へ沈んでいた。
「ー荒、海。森山、は」
まるで、夢の続きを見ているようだ。
だが、降り注ぐ雨粒の感触も冷たい体温も本物だ。
「ん~~?
先輩が大切にしてるんで、壊してはいないすよ。
ーただまァ…、しばらく顔を見ることはないでしょうが、ね」
森山のことを尋ねる間も、荒海の口元へ押し付けられた指先へ鋭い歯が当たり、鋭い針で刺したような痛みがはしる。
痛みに顔を顰めて、指先を引こうとするたびに慰めのつもりか、
押し付けられる冷たく柔らかい唇に、ぬるりと指を這う生暖かい舌が、ー気持ち悪い。
体力の落ちてしまった身体では、
荒海を突き飛ばそうと力を込める動作にすらも息切れを起こす。
「ん…はァ。ほら、先輩。
もう少し頑張らないと…、丸呑みになりますよ」
耳元へと熱を帯びた息を吹きかけ、
カチリと鋭い歯を噛み合わせて、鳴らし囁く荒海はただ、爛々と輝く目をし弧を描く。
「そう思うなら…少しは手加減をしてくれないのか。荒海」
すでに手加減ならしているとでも言いたげな様子で、肩を竦めた荒海に深いため息をつく。
うんざりしながら握られた手をそのままに、半歩ほど下がろうとした。
瞬間、足先が水へと沈んで、ずぶずぶ全身が呑み込まれていく。
「おかえりなさい、夢乃さん。
…荒海くんはあまり困らせないように。」
「あァ。はいはい」
背中へ感じるスプリングの硬さ、見慣れた寝具のベットの側へ置かれた椅子に腰掛ける。
のっぺりとした表情の桜井に握られた手から、伝わる温度が、冷え切った身体をじわじわと蝕んでいく。
壁際に寝台を配置したのは失敗だったな…。
ベッドの縁へ腰を下ろして、獰猛な笑みを浮かべている荒海の姿に、他人事のような感想がよぎっていく。
「ひとつ、教えてくれないか。
なぜ、見つけられたんだ」
「えぇ。
ー荒海くんは案外、足跡を辿るのが得意でして。
…ただ、彼はこの通り、少々手荒なもので」
「酷いっすねぇ、桜井さん」
僅かにため息をついた桜井に、獰猛な笑みを深めながら肩を竦めた荒海は、言葉とは裏腹に愉しげだ。
「――荒海とは、ずいぶん仲良くなれたみたいだな、桜井。
少し……意外だったよ」
「えぇ。無事に狩りを成功させるためなら……
お互い手を取ることも可能です。
もう、鬼ごっこはお仕舞ですよ……夢乃さん」
穏やかな微笑みを浮かべ、駄々をこねる子どもを宥めるように語りかける桜井の熱い手に頬を包み込まれる。
「さァ…、
いま一度、この世界でゆるりと微睡んで…。」
「あぁ、まったくいやになるよ…。桜井」
ぐにゃぐにゃ歪んで霞んでいく視界に、ずっしりと重い眠気に襲われる。
あぁ…、
眠りたくないとこれほど感じたことはない…。
覆われた瞼から流れていく涙が、緩やかに頬を濡らしていく。
ただ、泥濘のなかへと誘われてしまう。
響くアラームの音に片手を伸ばし、ボタンを押す。
ぼたぼた、溢れ落ちていく涙。
言葉にならないほど、胸を締め付けるこの悲しみは、いったい、どうしたのか…。
よほど…夢見でも悪かったのかもしれない。
呻き声を上げながら、のそのそと身体を起こして朝の準備を進めていく。
鏡に写った自分の瞳は、普段通りの灰色の色彩だ。
だが、どこか付き纏う違和感に原因のわからない深い悲しみが頬を濡らす。
頭を振って乾いたタオルで顔を拭う。
簡単なひとつ、ひとつの日常動作にも、伸し掛かる疲労に重怠い身体では時間が掛かってしまう。
昨日の記憶は、朧げで思い出そうとするたび、
頭がずきずき、割れそうなほど痛む。
仕事でミスをしてしまったのか、それとも部長関係のストレスでとうとう記憶に異常が、、?。
原因を考えれば考えるほど、際限なく思い浮かぶが、…どれもそこまで普段と変わりない。
スッキリとしない気分のまま、
飼育ゲージにペタリと両手をつけて、張り付く深緑の身体に金の瞳で見上げてくる、ヤモリの森山にも挨拶を済ませる。
自然と口から溢れ落ちていく安堵のため息に、首を傾げながら焼き上がった食パンを取り取りだした。
相変わらず全体が黒く焦げたパンは、一口齧るたび、ガリガリ鈍い音を立て、苦く硬い。
…少し前にこんがりと焼けたトーストを、、どこかで食べたような…。
また覚えのない記憶に、頭を振って齧りつく。
普段通りの朝食を半分ほど食べ終えた所で、顎が疲れ、どろりと胸焼けがする。
今日はずいぶん、身体の調子がおかしい。
だが、それよりもはやく出勤しなければ、
半ば押し込むように食べ終えて、鞄を持ち駅へと足早に向かう。
軽い息切れを起こしながら、珍しく乗客の少ない車内へと乗り込む。
ガタ、ガタ音を立て、流れていく風景に沸き起こる深い懐古の念に、僅かに震える指先。
そんな自分に首を傾げながら、会社へと向かう。
見慣れた建物が立ち並ぶなか、真新しく見慣れない会社の建物、海鮮食堂までぽつりと建っていた。
いつの間に工事が行われていたんだろうか…?
毎日と言っていいほどこの道を通り、
会社へ歩いているのに、少しも変化に気が付かなかった自分に呆れながらエレベーターへ乗り込む。
「おはよう。桜井、荒海。」
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