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第12話

「おはよう、夢乃くん。 問題は特に見当たらヘんかったし、大丈夫や。 ご飯、食べよか。」 ふと耳に届いた声に、勢いよく目蓋を開けてベッドの傍らに立ち、こちらを見下ろす森山と目が合う。 しまった、身体を少し休めようとしただけで、眠るつもりはなかったというのに…。 しかし、夢を見なかったのはいつぶりだろうか…。 それにそれなりの時間を寝ていたはずだが、森山は、いったい、いつからベッドの傍らに立っていたんだ? 「特に腹も減っていない…。大丈夫だ…。」 ひとまず、頭に浮かんだ疑問を片隅において、眠気で重たい身体を背中から引き剥がし、起き上がる。 「ほな、あれは…」 静かに大きく肩を落として、いつもの様に姿を消して去るのではなく、 とぼとぼ、と扉の方へゆっくり歩いていく森山の姿は、何処となく罪悪感を抱かせる。 「いや、すまない。やっぱり…、 先に降りて待っていてくれないか、森山」 …たとえ記憶の再現だとしても、 せっかく用意してくれたものを戴かないのも悪い…。 「いや〜夢乃くんなら、そう言うと思っとったわ。 ほな、待っとるで」 そう声をかけた途端に、軽薄な笑みを浮かべて、ひらひら、片手を振りながら去っていた 森山の後ろ姿に、 僅かにでも罪悪感を抱いた数分前の自分へ深い後悔する。 不本意な気持ちを押さえ込んで、傍らに置かれた白のシャツ、紺色のデニムパンツを渋々手に取って、着替える…。 全身に纏わりつく倦怠感に疲労が、この些細な動作ですら億劫にさせていく。 ずるずると足を動かして、急斜面の階段を少しずつ降りていく。 開かれたままの扉を潜り抜け、笑みを浮かべて机に頬杖をつく森山の正面へ腰掛けた。 白い陶器の皿へ載せられたこんがりと焼けたトースト、グラスに注がれた牛乳。 脳裏を過ぎる書類や電話に、覗いた壁掛け時計は、あるはずの秒針すらない…。 足先から駆け上がっていく焦燥感、 冷えていく指先で胸元にあるはずの携帯を手繰り寄せるが、、…ない。 「キミ、ほんま社畜やな。 いや、あかんわ…。それはさすがに耐えられん。」 突然、耳に届いた喧しい笑い声にハッとして我に返る。 「ー森山、、、。」 視線の先で大袈裟に腹を抱えて、膝を叩きながら、笑い転げている姿は、、、あの場所には ない。 ほっと胸をなで下ろす間も、ひたすら笑い続けている森山を横目に、深いため息を押し込んで温かいトーストへ齧りつく。 慣れ親しんだバターの僅かな塩味と食パンの甘みが、じんわりと口のなかに広がっていく。 濃厚な牛乳の味がそれを上塗りしていくのが、堪らなく癖になりそうだ。 「そんな急いで食べんでもパンは逃げヘんで、夢乃くん。」 姿勢を正して机に頬杖をついたまま、逸らされることない森山の生暖かい眼差しに顔を背ける。 最後の一切れを名残り惜しさとともに、ゆっくりと咀嚼して手を合わせた。 「そろそろ、深い眠りにつくことも多くなるやろ。 その前に、ちょっとボクと散歩でも行こか」 ひとり頷いた森山が指を鳴らした瞬間、 止める暇もなく何処からか蛍光色の粘液が、全身を覆い尽くす。 「ほら、夢乃くん。これが先やで」 口のなかや全身に張り付いた粘液を引き剥がし、 振り払う間も、けらけら笑いながら声を掛けてきた森山に重たい目蓋を開く。 ー至る所に立ち並ぶ建物に、騒々しく行き交う人々の姿。 鼻に届いた慣れ親しんだ排気ガス、町中を漂う様々な食べ物の匂い。 少し前まで当たり前だったというのに…、 まるで、鼻を覆われたようにまともに息ができない。 忙しない雀の鳴き声に、自信に満ちあふれた商品の説明。 目の前を通り抜けていくスーツ姿が、懐かしくて堪らなかった。 「…あの時からどれほど経ってしまったのか。 …分からないが、それほど変わりないな。」 少なくとも誰も森山の様に、奇抜な姿をしていない。 平然と、ただの青と白色のシンプルな空の下を歩いている。 「ー森山、悪いが…、散歩するような気分じゃないんだ。」 まともな色をした太陽が眩しく、建物の反射にすらクラクラと目が眩む。 じっと隣に並び立つ森山の混ざり合った、 派手な色を見て、落ち着くのを認めるのは癪だが…、安心してしまう。 「まあまぁ、街でも歩いてみよか。」 「…」 そう言って軽快に歩き出した森山に、尊重してくれるんじゃないのか…、悪態をつきそうになるのを押し留めて後ろを歩く。 しばらくして気が付いたが…、どうやら、 森山と自分の姿は、誰にも見えていないようだ。 それでもふとした瞬間、通行人へぶつかってしまうたび、少し不思議そうな顔をして立ち去っていく。 なにかにぶつかった感触があるのかもしれない。 短く謝罪の言葉と頭を下げて、悠々と歩く森山を追い掛ける。 立ち並ぶビルは、どれも大きく高い。 それに全面ガラス張りで建てられている…。 道中、見掛けたスマホは、紙切れのように薄く細長い。 地面に落としてしまったら、あっという間に壊れてしまいそうだ。 壁に貼られた広告には、 〈ーこれであなたも最新! 脳の脳波であらゆる日常が簡単、楽にー〉 デカデカと描かれている。 頭にチップを埋め込むというのもゾッとするが、 今は、、…脳波をいじるのか。 「高いけど、そのぶん楽になるらしいで。 しかも最新やから人気なんやて。 まぁ、ボクは遠慮しとくけどな。夢乃くんは試してみる?」  「ー遠慮しておこう。」 電子ポスターを指さして、頭を軽くコツコツ叩いた森山に首を横に振り道を歩く。 映画のポスターへ描かれているジャンルごとの内容は、知っているものとそれほど違わない。 だが、通行人が足を止めると、立体型の主人公が飛び出して予告をしていく。 空飛ぶ車なんてものはないのに…、こういった些細なところがまったく違う。    軽い息切れと目眩に、近くの壁に寄りかかる。 道路を挟んだ公園の遊具は、 すべて真新しく危険のない高さに、必要な金具や支柱以外は鉄に木の素材が見当たらなかった。 甲高い声とともに走り回る子供たちの姿に、 風に吹かれて飛んでいく袋、あふれているゴミ箱は 記憶と変わりない。 ーまさか、虫一匹すらも見掛けないことに、これほど違和感を覚えさせるとは…予想外だが。 ぽた、ぽた、地面に雫を降らせて、 黒い染みを始めた空をどんよりと重たい灰色が覆い尽くす。 ーもう、どこにも青く美しい空は見えない。 ゴロゴロ、唸るような音に慌てた様子で、 建物の下へ避ける人や足早に何処かへと立ち去っていく後ろ姿をじっと眺める。 ふわふわと未だに現実味を帯びない思考が、 自身のかえる場所を思い出させて、ため息をつく。 じっとり、水分を含んで重たく濡れていく服が、 残された内側の体温すらも冷ましていった。 「ほな、最後に一つだけ聞いとくわ。 あの選択…、ほんまにそれでええんやな、夢乃くん」 静かに歩み寄ってきた森山の顔には、 いつもの軽薄な笑みはどこにもない。 力強く引き結ばれた口元に、熱烈に訴えかける瞳。 ーそれが、どうにもおかしくて堪らなかった。 きっと、最大限の選択を与えてくれたー。  「あぁ、もちろんだ」 差し伸べられた森山の冷たい手を握りしめて、 いつになく頼りない、華奢な体を強く抱き寄せた。 「ーありがとう。 最期まで…、よろしく頼むよ。森山」 社会の動きに、たいした変わりはないんだろう。 ー働いて、食べて、休んで、また働く。 しかし…、どこかでズレというのは、致命的な浮き彫りになっていく。 社会に馴染む努力をするほど、よりすべてが遠くかけ離れていくだろう。 ぼたぼた、滴り落ちていく涙を拭う。 溢れていく淋しさに、さらに強く森山を抱き締める。 「あ~、…今のキミをもうちょい、見守っときたいって欲が出てしもうてな…。」  「ーせやけど、それやと夢乃くんを尊重するんと、ズレてまうわ。 …次のキミも、また見守りたいんやけど…、許してくれるか?」 わざとらしい咳払いのあと、か細く耳元に問い掛けてくる森山に、ほんの一瞬、断ってしまおうかという悪戯心がよぎる。 「次は見守るんじゃなくて…、会いに来てくれないか、森山。 ー今度は、ともに歩いて、いろんなことを経験してたくさん話をしよう」 「それは…、楽しそうやな。 ありがとう。夢乃くん。」 心底、安堵した様子で囁きかけてきた森山に、 堪えきれなかった笑い声が、口から溢れていく。 酷い土砂降りの雨に、忙しなく通りゆく人々の隅で、いったい、自分たちはなにをしているんだろうか。 ーこれじゃあ、…まるで愛の告白だな。 「これでも緊張しとったんやけどな…。 夢乃くん、笑いすぎやで」 「すまない。このおかしな状況が面白くてな。 それに…、もし断ったとしても…、ー森山は傍にいてくれるだろう?」 「はぁ、夢乃くん。」 どっと疲れ切った様子でため息をつく森山が、手を打ち鳴らす。 再び、同じ粘液に全身を包まれて、見慣れてしまった光景が視界に飛び込む。 「おかえり、夢乃くん」 「ただいま、森山」 最初は気乗りしなかったが、、案外、楽しめたな。 玄関の扉を開け、ずぶ濡れの靴と靴下を脱ぐ。 「ほな、ゆっくり風呂に浸かって温まってきぃ。」 すっかり、普段通りの笑みを浮かべて立ち去っていく森山の後ろ姿に肩を竦める。 ずっしりと重怠い身体で、温かい湯気が立ち込める浴室へ足を踏み入れた。 雨に打たれて冷え切った身体には、どうにもお湯が熱くて堪らない。 それも湯船に浸かるうち、じわじわと馴染んでいく。 滴る水気を払い、新しい服に袖を通し二階への階段を登る。 鈍い音を立て開いた扉を潜り抜けて、ベッドの上へ身体を横たえる。 枕元に置かれたままのオルゴールを引き寄せて、限界までネジを巻く。 耐え難い眠気に、目蓋を閉じて流れだした音楽に耳を澄ませた。 ゆったりとした微睡みのなか、時折、目を覚ましたときは森山と静かにお茶を飲み、ともにこの世界を歩く。 意識だけがはっきりとするなか、身体が動かない日には、森山の巻いたオルゴールが耳に届く。 じわじわと焦りに恐怖が薄れ、また意識が落ちる。 ふわふわとした意識のなか、力のはいらない片手をぎゅっと力強く掴まれた。 普段の森山は傍らの椅子に腰掛けたまま、 投げ出された手を握ることはしない。 鈍い鼻を掠めていく、どこかで嗅いだ独特な匂いに、暖かな体温。 重たい目蓋に力を込めて、瞬きを繰り返す。

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