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第11話

つるりとした硬い床の感触に、倒れ込んだまま、ゆっくり目蓋を開ける。 どうやら、無事に戻ることができたようだが…、ー身体も、気分もこれ以上ないほど最悪だ。 「調子、どう? まあ、たぶん、相当悪いやろうけどなぁ。」 傍らに屈んで、頬杖をついて覗き込んでくる森山の 楽しげな問い掛けに、残された気力すらも失っていく。 「まぁまぁ、落ち着きや。 無理やり塗り替えなんかしたら、そらそうなるんよ。 せやけどまぁ…これでもう、キミがあそこに行くこともなくなるやろ。」 素知らぬ顔で他人事のように呟く森山に、込み上げるため息を呑み込む。 「とにかく…、森山…、 重要なことは話しておいてくれないか」 「いや〜、次からは気ぃつけるよ。 薬はあそこやで、ほな」 軽快な笑い声を上げ、片手を振りながら何処かへ姿を消した森山に、今度こそため息が溢れ落ちていく。 酷い頭痛に、くらくら歪む視界に壁に手をつき、 何度も立ち止まりながら、癖のあるドアノブを捻り扉を開けて入る。 畳と埃が混じり合った部屋の空気に、止めた足を踏み出してタンスの上へと置かれた古びた木製の薬箱を震える手で手繰り寄せる。 綺麗に整理された箱に、取り出した錠剤に書かれた達筆な字、は祖父の几帳面な性格を想い起こさせる。 この薬を飲んでも安全なのかすら、分からないが…、、森山を信じるしかない…。 水もなく錠剤を飲み込むのは、ひと苦労だった。 薬が効くまでの間、近くの壁にもたれ掛かり部屋を見回す。 ガラスケースへ並べられた民芸品に、埃かぶったボードゲームに少し破れた障子。 些細な部屋の物の形、色すらもやはり、記憶の通り変わらない…。 どれほど、時間が経ったのか。 ようやく、少しはましになった身体を起こして、 廊下の左側にある、もう一つの部屋へ移動する。 水の滴るシンクの蛇口に、稼働している電化製品、 大きな食器棚には、いくつものガラス製食器が積み重なって収納されていた。 すぐ傍に置かれた冷蔵庫のなかを覗き込む。 ぎゅうぎゅうに詰められた食材に、ストローのついた懐かしいジュースのパック。 もう何処にも見掛けない、販売を終えた少し前のパッケージに、手前に置かれたタッパには、祖母お手製の漬物が詰められていた。 思い出の品々に心惹かれながらも、冷蔵庫の扉を閉め、次の部屋へと移動する。 家族で囲んだ大きな木製のテーブルに、 古びたブラウン管テレビ、窓から覗く生い茂る盆栽の数々。 棚に飾られた写真立ての埃を払う。 ただ、笑顔を浮かべた家族写真に胸を押さえて、元の場所へ戻す。 テーブルへ置かれたままのリモコンを手に取って、 電源ボタンを押したが、どの番組もざらざらと灰色の表示され、他に映像はない。 部屋の柱へ刻まれた成長の記録は、腰ほどの所で、線が止まっていた。 二階へ続く急斜面の階段を踏み締めるたび、ぎしぎしと音を立て、不安を駆り立てていく。 右手の扉には、子供の頃に飾ったジグゾーパズルが、当時のまま、埃を被って掛けられていた。 左手の部屋には、祖父が集めた骨董品や天然石などが所狭しと並んでいるのが見えた。 家の取り壊しの際に、手放したものも多い…。 少し悩んで、右のドアノブを捻り、キィキィ軋む扉を開けてなかに足を踏み入れる。 年季の入った学習机、壁際に寄せられたベッド。  唯一、違うのは窓から覗く森林の景色だけだろうか…。 枕元へぽつりと置かれたオルゴールを手に取り、椅子に腰掛けネジを巻く。 タイトルすら知らない、この歌を何度も繰り返し聞いていたが、そのうち、何処かへ仕舞ったまま、忘れていた…。 ーただ、ぼんやりとしている間にも、何度も日差しが窓に入り込んでは、落ちていく。 あっという間に、過ぎ去っていく太陽の光も、 訪れる夜空を惜しむ暇すらない。 ー森山はきっと、時間の流れを教えてくれるだろうが、今さら、時間を気に留めようとも思わなかった。 そっとオルゴールを机に置き、椅子から立ち上がる。 ふと目に入った指先は、いつかのように蛍光色が塗られていた。…森山の影響だろうか?。 ーいくら旅立つとはいえ、…全身が蛍光色で彩られるのは、、嫌だ。 ドアノブを捻り、急斜面の階段を手すりを掴んで、 ゆっくり降りていく。 脱衣場にも足を踏み入れようと考えたが、 いまはまだ、全身を蛍光色に染めた自身の姿を鏡で見る決心が…、つかなかった。 そのまま、真っ直ぐに靴を履き玄関の外へと出る。 丁寧に整えられた盆栽を眺め、ぐるりと家の周りを歩く。 道中、見掛けた綺麗に整えられた土道を歩きながら周囲を見渡す。 季節が入り混じった木々に、少し歩いた先で聞こえてくる蝉や鈴虫などの鳴き声。 目の前を飛んでいく美しい蝶の姿に、頭を押さえて頭を振る。 ー知ってはいたが…、何度、見ても頭がおかしくなりそうだ。 明暗を繰り返していく頭上の空は、まだ、まともに見える…。 再び、足を動かして見つけた、木製のパーゴラと、その下に置かれた椅子に腰掛けた。 ここへ辿り着くまで、空を飛ぶ一羽の鳥すら見掛けなかった。 …普通なら聞こえるはずの鳴き声すらもしない。 ー森山の世界には、虫しかいないのだろうか…。 しかし、思い返せば、本人、?もヤモリのようなものだと話していたのだから、天敵である鳥は存在しないのか…? 考え込む間も袖の先から変わっていく服の色は、相変わらず派手な蛍光色だが、少し気分を変えてくれる。 見下ろした足元では、せっせと歩く隊列をなして、歩く働き蟻を眺めるのは、ずいぶん、久しぶりだ。 その少し先では、小さなカマキリがこちらを見上げ、左右にゆらゆら、揺れてぴょんと勢いよく飛び掛ってきた。 靴の上に登った勇ましい姿に、感動しているうちに 両手の鎌を下げて、とぼとぼ去っていく後ろ姿を見送る。 空が明るくなったうちに、照らされた道を進んでいく。 知っている森とはだいぶ、姿も色も違うが、 それでも新鮮な森の空気に、記憶にない場所は気分を変えてくれる…。 それも高く積み重なった石を伝いながら流れていく沢で、道が途切れてしまった。 見渡した周囲は、木々に覆われ他に道はない。 辺りには木の葉で翅を休めている赤とんぼに、 よく見れば石のような蛙もいる。 だが、他に魚や沢蟹は何処にもいないだろう。 そう思い、踵を返そうとした靴先を一匹の蟹が足早に横切っていく。 そのまま、水面に向けて横向きに走っていった沢蟹が急斜面をころころ、転げ落ちていった。 一瞬の間に石の隙間で出来た、かろうじて中が覗ける小さな穴へと吸い込まれていく。 たしか…、この蟹は壁を登ることができる。 そう聞いた気もするが、本当にそうなのか、確信が持てない…。 近くで拾った長い木の枝を持ち、穴のなかをぐるぐる回る蟹へ少しずつ、近づけて鋏で枝を力強く挟んだ瞬間に引き上げ、枝ごと水面の方へ置く。 いくら、小さな蟹だとしてもあのハサミに挟まれるのはごめんだ…。 しばらくの間、頻りに辺りを見渡した蟹が、無事に水へと帰っていく姿を見送って、満足感とともに踵を返した。 ようやく、辿り着いた玄関の扉には、角の立派なカブトムシが張り付いていた。 …つけた覚えのない玄関灯に、飛行虫が何度も体当たりを繰り返している姿から目を逸らす。 そっと玄関扉の取っ手に、手を掛けて素早くなかに足を踏み入れたあとは扉を閉める。 家のなかに一匹も入り込まなかったことに、胸をなで下ろす…。 「おかえり、夢乃くん。 どうやった?ボクの世界、なかなか楽しめたやろ」 「ーただいま。 たしかに景色は…。気晴らしになったが、、」 笑みを浮かべて、自信満々に声を掛けてきた森山には悪いが、虫の数が多すぎる…。 「いや…。 それで…また、なにかあったのか」 しかし、真っ直ぐに見つめてくる森山の瞳に、 視線を落として靴を脱ぐ。 こうして森山の姿を見るのもあの時、以来だが…、。 「ひとまずご飯でも食べながら、ゆっくり話そうや」 大袈裟に肩を竦めて、先を歩く森山の後ろ姿に、 ため息を呑み込んでついて行く…。 食卓のテーブルの上には、湯気の立ち昇る緑茶に、紅梅色に染まった塩のついた梅干しに、豆腐とわかめの味噌汁。 綺麗に盛り付けられた肉じゃがに、ポテトサラダ。 懐かしい料理の数々に、少しばかり喜んでしまったが…これも森山が用意したのか…? 正面の席に腰掛けた森山をちらりと見つめ、用意された箸を手に取るべきか…。 「心配せんでも、ちゃんと食べられるで。 まぁ、お腹は空かへんやろうけどな。 美味しい食事ってのは、気分変えてくれるええもんや。」 すでに箸を手に取って、食べ進めていく森山の姿に、気は進まないが大人しく箸を持つ。 「ーこの、ポテトサラダも卵焼きも、母の味だが…、。私の記憶から再現したのか?」 一般的な卵焼きは、甘く砂糖の味付けのものが多く、母の作る塩と少々の隠し味が入った甘くない卵焼きに、 ポテトサラダの卵の甘みに、新鮮な玉ねぎの食感に細かく刻まれたきゅうりの歯ごたえ。 どこを探しても、何度も再現を試みても、この味付けはもう、記憶にしかなかった…、 自身で調理した味気ない、ごろごろと少し硬いじゃがいもの食感を思い出して、顔を顰める。 「いや〜、ボクは料理なんてせえへんからなァ。 こっちのほうが、キミもボクも美味しいもん食べられるやろ」 軽快な笑い声をあげて、熱いお茶を冷ます森山の姿に諦めて、黙々とひたすらに食べ進めてく。 どうにか、すべての料理を食べ終えたところで、のんびりと寛ぐ森山の軽く振られた手によって、すべての食器が跡形もなく消えていく。 まるで、おとぎ話の魔法を見ている気分だ…。 「そういえば、魚や鳥は見なかったが…、 沢蟹はいるのか」 じんわりと温かい湯呑を片手に、ふと思い出した沢蟹について尋ねる。 「虫以外はおらヘんはずなんやけどなァ。 うーん…、ちょっと様子見てくるわ。 夢乃くんは湯船に浸かって、ゆっくり休んどき」 僅かに眉を顰め、首を傾げたまま、姿を消した森山に少しの不安に苛まれながら、脱衣場へ向かう。 ーあの、沢蟹は……。 ぐるぐる、渦を巻く思考に頭を振って内装に意識を向ける。 昔ながらのメーター式の体重計に、くるくる丸められたバスタオル。 青いタイル張りの床に、横幅は狭いが底の深い蛇口の付いた湯船。 独特な白檀の香りを漂わせるお湯は、白濁で底も見えない…   鏡に写り込んだ変わりない自分の姿に、安堵のため息をつく。 ー全身が蛍光色に覆われるのだけは、嫌だ…。 のそのそと身体を洗い流し、熱いお湯に身体を沈めていく。 天井の雫が顔の上にぽた、ぽたと落ちてくる。 浴槽の縁へ置いた両手の爪は、いつの間にか、 別々の暖色系で彩られ、手のひらには白いヤモリの足跡がついていた。 少し悩んで、どうにか擦って落とそうとしたが…、 皮膚が赤くなっただけで、消えそうにない。 ため息とともにそのまま、浴槽から立ち上がった…。 脱衣場に置かれていた黄色の水玉模様をしばらくの葛藤と羞恥心と戦って、着替えたが…、、。 …森山と少し話をするべきかもしれない…。  廊下の床がひんやりと丁度、良い。 階段に備え付けられた木製の手摺りに、掴まりながら一段ずつ登っていく。 酷い疲れのなか、残された気力でベッドの上に倒れ込む。 少しずつ、些細な動作ひとつすら、ずっしりと重たく億劫になっていく。 …案外、旅立つ日は近いのかもしれない…。 このまま、問題なく…、すべて上手くいくと良い…。 頭によぎっていく小さな姿に、力強く目蓋を閉じる。

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