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第10話

形容しがたい独特で鼻につく臭いに、咳き込みながら、顔にへばりついた粘液を振り払う。  「おぉ~…まさか、 ほんまにうまいこといくとは…、思てヘんかったわ。」 大袈裟に手を叩き、じろじろと全身を上から下まで眺めたあと、感嘆の呟きとともに差し伸べられた森山の手を掴んで立ち上がった。 「それで…、次はいったい、何が起こったのか。 ー教えてくれないか、森山」 見渡した部屋には森山と自分以外には、なにもない。 足元では趣味の悪い配色の床が波のように揺れ、 じっと見ているだけでも、気分が悪くなる…。 頭上からは筆を何度も洗ったような、混じり合った汚れた水がぽた、ぽた滴り落ちてくる。 ーこれ以上ないほど、最悪な場所だ…、、。 「おっと…、こら失礼。 まぁまぁ、そこの椅子にでも座りぃや、夢乃くん。」 瞬きの間に木製の椅子が現れ、軽い動作で腰掛けた森山に続いて座るが…、どうにも座面が湿っている気がしてならない…、。 「キミが持っとったお守りも羽根も、ちゃんと弾いとるみたいやね。 ……羽根だけに、ってな。ふ。」 さらりと放たれた言葉に、着ている衣服のポケットに震える指先で中を探したが…たしかに何も、入っていない…。 「ー森山…、。」 自身の放ったくだらない冗談に、笑い転げる森山に 眉間の皺を揉んで、苛立ちを抑え込む。 だが、呼び掛けた声はあまりにも低く、怒りが滲んでしまった。 「ごめん、ごめん。 ……うーん……まぁ、この場所はとりあえず、 ボクの部屋、っちゅうことにしとこっかなぁ」 小首を傾げ、顎に手をあてた森山が少しの間を空けて、歯切れ悪く話す。 あの森山自身も説明に困ることならば…、たとえ聞いたところで理解できないだろう…、。 「そうか…。ーそれで、森山は…。 あの時、桜井に消されていなかったのか…?」 あらためて、目の前の森山に視線を向けたが、 どこにも欠けた様子はなく、五体満足で何事もなかったかのような呑気な顔をしている。 …冗談も言えるほど、元気な森山を心配するだけ無駄だったか…。 「――いや、あれも半分くらいはホンマやで。 あの子がボクを駒みたいに弾き出すことも、 荒海くんより警戒されてへんことも、だいたい分かっとったしな。」 空中に現れた3つの駒が、勢い良くぶつかり合って1つだけどこかへと飛ばされた。 だが、その間も回り続ける2つの駒には、簡易的な鳥と、魚のような姿が描かれている。 「せやから一応、それっぽい演出のために…… 尻尾、切り離しといたんよねぇ。」 「ーは、尻尾…」 人間にいつからそんなものが、、? 理解が追い付かないまま、森山の言葉をただ、反芻する。 「そっ。 まぁ、分かりやすう言うたら、元々の姿はヤモリに近いんよ。」 自身の頭を指先で軽く突付き、けらけら笑う。 仮にも自身の一部を切り離したとは、到底、思えない軽薄な森山の姿にため息をつく。 「断面図もな、もし見たいんやったら見せたるけど……、 まぁ、やめといたほうがええと思うで? 」 視線を落とし、ごそごそと背後に手をあて軽く笑う森山は見たいと言えば、見せてくれるのかもしれない…。 「…遠慮する…」 ーだが、何であろうと傷口を見るのは、嫌だ。 よく考えれば…、荒海も、桜井も人間ではないのだから…当然、森山も違うだろう。 「ー森山の目的を、教えてくれないか…。」 今日の自分は質問してばかりだな…。 そんな、どうでもいいことを考えながら、椅子へ深く腰掛け、からからに渇いた口を動かす。 ーこの先、どう生きていくべきなのかも、 再び、喪った家族のことも…、なにひとつ、考えたくはないが…、 少なくとも、森山の目的を知らなければ…、。 「ボクはなぁ、夢乃くんの人生を見届けられたら、それで十分やったんよ。 ほんま、それだけでよかったんやけどな。」 変わらない声音で、柔らかく笑い掛けてくる森山の瞳から視線を逸らす。 森山自身の匂いも、眼差しも懐かしい田舎を思い出させる。 だが、森山の顔も、声も姿もすらも、記憶のどこにもない。 「けどあいつ、キミをボクから取り上げてもうてさ。 羽ん中に隠して、見守ることすらさせてくれへんかった。」 頭のなかで桜井の引き結ばれた口元が開かれ、 『夢乃さん…』呼び声すらも聞こえてくる。 「……まぁ、せやからちょっとした仕返しやね。 ーだってキミ、ボクにとって唯一やし。 代わりなんて、どこ探してもおらへん宝物やからな。」 まるで、子供のような無邪気さと残酷さを含んだ森山の言葉にそっと息を吐き出す。 結局、森山も失くしてしまった、お気に入りの宝物を取り返しただけだった。 「あぁ、どいつも、こいつも…。 嫌になるほど、重たいな…。」 握りしめた指先が、白くなっているのに気がついて手を緩めた。 「ボクはなぁ、、 桜井くんより縛らへんし、 荒海くんよりはだいぶ穏やかや思うで。」 ぺらぺらと回る口に、胡散臭さ…。 その点だけなら、たしかにあの二人よりも上だろう。 …ただ、黙って眉間の皺を指先で、ゆっくりと引き伸ばした。 「夢乃くん、キミには3つの選択肢があるで。 1つ目は、 このままボクの世界で桜井くんの浸食をゆっくり、減らして死を迎えることや。 そしたら桜井くんとも荒海くんとも、さよならや」 森山が軽い調子で片手を振ると、空中に浮いていた駒がどこかへと消えて行く。 ごそごそと胸元から取り出し、手渡された丸いガラス製の容器を覗き込む。 淡い色の桜に、先端まで真っ赤に染まった紅葉、所々に点在する青々とした木々…、。 季節の入り混じったなかは、統一感がまるでない。 たが、この空間と、比べたらずっとまともに見えてしまう…。 「2つ目は本来の世界で別の人間として生きるんや。 これはもちろん、ボクがついてるから生活は、 何も心配ないけど、 ただ、2人に見つかる可能性は高いかもしれんな」 顎に手を当て考え込んだ森山が、少しの間をあけて、指を鳴らす。 その瞬間、足元に写し出された忙しなく行き交う人々の姿、見たことも聞いたこともない商品のcm。 自分が使用している機種の何代も先のモデルを宣伝するポスターに、僅かな期待すらも消え去っていく。 「3つめはただ、ボクの世界でゆっくり休んで、 戻りたい場所を考えるか。」 もう、自分が、たしかに歩いていた時間は、どこにも見当たらない…。 ーいつの間にか、こんなにも置いていかれた。 それなのに、名前すらも失くしてしまったら…、。 「一つ目を、選びたい。 ーもう、誰かに、取られるのは…ごめんだ」 それでも生に縋ろうと僅かな可能性を模索し始める思考を止めて、情けなく震える手を握りしめて口を動かす。 「ーキミの意思を尊重するで、夢乃くん。 さァ、ほな行こか」 どこまでも軽い調子で頷き、笑みを深めた森山が差し伸べる、ひんやりとした手を掴む。 ずぶずぶ、と地面に足を取られそうななかを森山の先導でどうにか、歩いていく。 ようやく、辿り着いた真っ黒な扉を森山とともに、潜り抜けた頃には、疲れで足が引き攣りそうだった。 ざぁ、ざぁ吹き抜けていく、少しひんやりした風に踏みつけた枯れ葉が、乾いた音を立てて攫われていく。 近くの草むらには向日葵やチューリップなど花が咲き、頭上の枝には桜に梅など見知った名前の花から見たこともない花が咲き誇っていた。 懐かしさを思い出させる春のような気温も、気分を落ち着かせる森林の匂いが辺りを漂う。 「ほら、キミのお家やで」 ふと耳に届いた声に、周囲を見渡すのをやめ、こちらに振り向いた森山の指差すほうへとじっと目を凝らす。 もう、ずいぶんと昔に取り壊されて、記憶すらも、徐々に薄れていった。 形も、壁の色すらも朧げにしか、思い出せない、 祖父母の家がぽつんと一軒だけ、木々に囲まれて建っていた。 玄関の周囲に置かれた盆栽も、足元の敷かれた煉瓦も記憶と何も変わらない…。 目頭を押さえ、子供の頃は重たくて堪らなかった重厚な玄関扉を開けて森山とともに中へ入る。 ーあぁ、懐かしい…。 立て掛けてある靴べらも、靴箱の上に置かれた蛙の置物も…、すべてが懐かしくて堪らなかった。 「おかえり、夢乃くん」 「本当に…、なんでも知っているんだな」 まさか、家の外装だけでなく、内装すらもすべてが完璧な状態で目の前に存在することが気持ち悪い。 唯一、当然のように出迎える森山だけが記憶と違う。 「そらもう。 あとは夢乃くんの好きなように過ごしてな」 皮肉を込めた言葉にすら、平然と頷いた森山に張り詰めた息を吐き出した。 「ーあぁ、わかった。…ありがとう」 今さら、何を言った所で森山には理解できない。 手を振ってどこかへと去っていく、森山の後ろ姿を見送る。 そのまま玄関へと倒れ込み、ごろりと天井を見上げ、流れ落ちる涙を拭う。 二階へと続く少し急な登り階段に、 玄関隅にぽつんと置かれた大きな古時計を ぼやけた視界で眺める。 「ーよく来たねぇ。 ほら、はやく…、いらっしゃい」 ただ、穏やかに優しく手招きして、出迎えてくれる。 温かなぬくもりは、ーもう、どこにもいない…。 それでも諦めることすらできないまま、いつまでも待ち望んだ。 「ーはぁ」 ひたすら、溢れていく涙に、吐き出す息だけが熱くてたまらない。 腫れ上がった重たい瞼を閉じて、ずるずる鼻を啜りゆっくり息を吸う。 ふと感じたざらざらとした感触に瞼を開けて飛び込んできた景色に、静かに身体を起こしてじっと息を潜める。 立ち並ぶ大きなビルの数々に、遠くに見える様々な店の看板、赤から緑へ移り変わる信号機。  これは…どういうことだ…あれはすべて夢だったのだろうか…? だが、あらためて辺りを見渡しても、どうにも様子がおかしい。 通りかかる人も車の姿もなく、全体が所々に溶けたようにぐにゃぐにゃと歪んで見える。 【しーっ…夢乃くん。 言い忘れとったけど、だいぶ強引に連れ出してもうてん。 今回だけは桜井くんに引っ張られとってや、堪忍なまぁ、そのうち目ぇ覚めるやろ。】 頭のなかに響く、森山の軽快な謝罪に苛立ちながら周囲を見渡すのをやめて、こめかみを押さえる。 どうして、そこまで重要なことを教えないんだ…。 心底、今ここに森山の姿がないことに安堵する。 【特に声とか音出しても、あの二人にはバレへんで。キミのことは見えてへんけど、 さすがに触れたら気づかれるやろうし、そこだけ気ぃつけとき。 まぁ、なんかあってもボクがおるし。助けたるよ、夢乃くん。】 到底、信じられない森山の言葉に、返事を返すことなく、ひとまず、足首ほどまであった水が跡形もなく消えた道を歩く。 ー桜井の世界から荒海は姿を消したのか、? …だが、森山は2人と言っていたな…。 まだ、この世界のどこかにいるのかもしれない。 通りかかった店の名前に、飾られたサンプルすらもぐにゃ、ぐにゃと面影だけを残して歪んでいるが、 この店は…、いつも仕事帰りに桜井と通っていた定食屋、なのか? じっと眺めているうちに、ガラガラと大きな音を立て入り口が開かれていく。 〈いらっしゃませー!!〉 聞き慣れた明るい挨拶に、ガヤガヤとした話し声、食欲をそそる匂いが鼻を掠めていく。 そのうち、閉められた扉がもう一度、開いて、 まるでテープの焼き回しのように、先ほどと同じ場面を何度も繰り返す。 「これも、…舞台なのか」 あらためて、ここが記憶もとに桜井が作り上げた世界なのだと実感がした。 【いや〜、よう手ぇ込んどるやん。 キミのために季節もんの料理まで、わざわざ定期的に仕入れとったんやろ?】 ずきずき、痛む頭のなかを無邪気な称賛の声が、横切っていく。 たしかに記憶を思い起こせば、季節が変わるごとに限定メニューが載っていた。 年月の違和感すら抱かなかった自分には、必要のない店の品や季節の入れ替え。 ー桜井は、手抜きをしてしまったと話していたが…。 「あぁ、そうかもしれないな…」 たしかに森山の言うように、手が込んでいるのかもしれない。 店から目を背け、ぼんやりと会社へ続く道を歩き始めた。  しばらくして着いた見慣れた建物に、つい、腕時計の針を覗き込もうとして止めた。 会社を出入りする人間も、周辺にいるはずの鳩や、雀の姿すらも見当たらない。 このまま、静かに見知った光景を眺めていると…、 頭がずきずき、割れそうなほど痛む。 そっとその場を離れ、通りかかった建物の階段へ座り込む。 慣れ親しんだ舗装された道の匂いに、穏やかな風。 ろくに休憩も取っていない身体は、多大な疲労を訴え、ゆっくりと意識を微睡ませる。 ぽた、ぽた、耳に届く雨音に、じんわり下がっていく気温が肌寒く、膝を抱えて蹲る。 重たく伸し掛かる目蓋を開けて、移動することすら億劫で堪らない。 【あちゃ〜…、だいぶ力技でいこうとしてるやん…。 ー脳筋ってのはほんま困るわ】 唐突に耳に届いた呆れを含んだ森山の囁き声に、 風船のように微睡んでいた意識を手繰り寄せる。 どくどく、大きく鼓動する心臓とは、 反対に血の気が引いていく身体に、縺れる思考をどうにか動かす。  強まっていく雨音のなか、コツ、コツと革靴の足音がじわじわ、距離を詰めてきている…。 ーまさか、、。 「さァ、出し惜しみせず、 一刻も早く街を水で満たしてください。荒海くん」ずっしりと伸し掛かる、怒気を含んだ聞き慣れた声に、 「ー俺もそうしたいところですがねェ…。 怒り狂って暴れたアンタのおかげで、色々と難しいんですよ…。 しっかし、本当にこの辺りで間違いないんですか」 返事をするのも億劫だと言いたげな声が聞こえてきた…。 ーあぁ、間違いない…。 薄目で辺りを見渡すまでもなく、薄汚れてぼろぼろの服に、ぼたぼた、雨水と混じり合った赤い雫が、滴り落ちていく指先。   「いまは、あの半端者の影響で…、干渉には至りませんが、元々は僕のものです」 ー桜井に、荒海が、すぐそこまで迫っていた。 階段下にはすでに水が溜まって、足先を着けた瞬間、水紋が広がるだろう。 …この建物へ侵入し、上へ登っていたところで、 なにか策を考えなければ…、ただ、追い込まれていく。 【街を水で満たして塗装を剥がすつもりみたいやな。 いや〜ボクがこの街に手ぇ出すと、居場所バレてまうんよね。 せやけど、さすがに悠長に待っとる暇もないよなぁ。】 悠長に森山が気の抜けた声で、独り言を話す間も、階段の1段目へと差し迫る、雨水に焦りと苛立ちが募っていく。 「つまり、なにか策があるのか、ないのか。 …森山、もし、あるのなら…」 どちらにしても、このままでは明確な逃げる道が、あるとは思えない。 ひとまず、水から遠ざかるために階段を上り詰めたが、ここもすぐに浸水していくだろう。 【ーほな、少しだけ目ぇ瞑っといてな。夢乃くん】 脳裏に響く出し渋る声に、途方もない不安に駆らていく。 だが、いまは森山の秘策を信じるしかない。 突然、経験したことのない、渦を巻くような吐き気に、強烈な眠気、激しい頭痛に襲われ、まともに立っていることすらできない。 【____】 閉じた目蓋では、チカチカ、ありえない光に目が眩む。 酷い耳鳴りのなか、 聞こえてくる軽薄な音は、 何を言っているのか、さっぱり分からないが…、。 ー森山に手を借りたのは間違いだったかもしれないという後悔だけが頭を占めていく。 「ち、惜しかったなァ。 次は逃がしませんよ、先輩」 「ー迎えを待っていてください。 必ず、あなたを 」

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