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第9話
「無論、可能なことです。
そして、最も夢乃さんにとっても最善だと…。」
鷹揚に頷いた桜井の瞳には、少しの疑問も不安すらもない。
本当に、なにひとつとして間違いではないようだ…。
「ー2人の顔を忘れる事も…、ただ、過ぎ去ってしまった日々を憂うこともない…」
伝えたかったはずの言葉も、ともに過ごしたかった時間を思い浮かべて、項垂れることがない。
…それは、たしかに良いことなんだろう…、
ーまさに、奇跡のような出来事だ。
たとえ、代償を求められても叶えたくなる願いだ…。
普段の鋭い目つきを丸くして、優しく頬を包み込む桜井の尖った指先で、不器用な手つきで、拭われる雫は、いったい、だれを思って流れているのか。
「しかし、
すでに彼らは夢乃さんへいくつもの異変を与え、
この世界へと侵入し、僕から…あなたを奪い去ろうとしています」
眉間に僅かに皺を寄せて、一度、小さく息をつき話し始めた桜井の声には、隠しきれない怒りが滲んで
いた。
「ー異変、」
桜井の言葉に脳裏をよぎっていく。
眠るたび、現れるおかしな夢。水に沈みかけている
街を平然と歩いていく同じ顔の人々。
そして…突然、桜井の手によって何処かへ消えていった森山。
「彼らは夢乃さんの夢に現れ、
…何度、蹴落としても往生際悪く、…懲りない」
「…?」
突然、涙を拭う手を止めた桜井に、力強く腕を引き寄せられて、抱き締められる。
スーツ生地のような感触ではない、柔らかな感触に熱を帯びた体温、シナモンやカエデ糖に近い独特な甘い香りが漂う。
見上げた桜井の瞳は、瞳孔が大きく開かれ、鋭い眼差しで何処かを一心に見つめている。
どうにか自身の身体に力を込めて、桜井と離れようとするたび、背中に回された腕が力強くなっていく。
「ーあ~、酷いじゃないすか、桜井さん。
せっかく、これからもっと夢乃先輩と仲良くなれるってぇのに、」
着崩したスーツ姿で、片手で頭を掻いた荒海は、
鋭利な歯を覗かせたまま、ゆっくりと足を踏み出して、水面を揺らす。
「はぁ、…その必要はありません。
ー君も、森山くんとともにお帰り頂いて結構です。
あァ…もしかして帰り道すらもわかりませんか?
それなら、送って差し上げましょう。」
大袈裟に肩を竦め、わざとらしい、優しく媚びを含んだ甘ったるい声で荒海へ語りかける桜井の眼差しは、どこまでも冷え切っていた。
桜井から視線を逸らした先で、街灯に照らし出された荒海の影は、荒海の背丈をゆうに超え、形もとても人形には見えない…。
「そいつぁ、ご親切にどうも。
ま…、でも、いまは遠慮しときますよ、桜井さん。」
毛ほども感謝していない明らかな声音で桜井へ断った荒海との距離がじわじわと縮まるたび、鼻を掠める潮風の匂いが強まっていく。
「なァ、夢乃先輩。
最初は、アンタを気長に手に入れようと考えた。
ーだが、そうもいかなくなった」
心底、困り果てているとでも言いたげな声とは、
裏腹に獰猛な笑みを浮かべる荒海にも…、ー息が詰まりそうだ。
「ー荒海も、桜井も…。…なぜ、、…そこまで…」
わざわざ、ここまで精巧な街や、日常を作り出して閉じ込めた桜井も…。
多大な労力をかけて、この世界から奪い去ろうとする荒海のことも、何もかもが…わからない。
「ただ、この身が滅ぶまで…、
ーあなたとともに添い遂げたい…。それだけです。」
私の肩へと弱々しく縋るような手付きで触れる、
余裕綽々な様子の桜井も、。
「ー俺はなァ、夢乃先輩の愛する家族にも、
親しい友人、頼れる同僚、
ーアンタのすべてを俺で満たして、世界をともに漂いたい。」
まるで、世界の正しさを主張するような、自信に満ち溢れた荒海の声も、ずっと遠く響く。
ーあぁ、どこで、間違えたのかすらもわからない。
頭のなかを反芻する言葉を片隅に、取り出した小瓶のコルクを静かに捻る。
「ご心配には及びません、…夢乃さん。
ー荒海くんが消えてしまえば、すべて、完璧に元通りになります」
見当違いな優しさを耳元で囁き、舞い散る羽根を水面に浮かべ、小さな丸い囲いを足元へ作り出した桜井の背中。
「いえ、夢乃先輩は、俺を選びますよ。
さァ、今のうちに別れの挨拶をどうぞ、桜井さん」
挑発的な笑みを浮かべ、筋張った手を差し伸べる荒海からも目を逸らす。
ーもう、この場所にはいたくない、ただ誰もいないところへ逃げ出したい。
間抜けな音を立て外れたコルクが、水面に浮かぶ。
ぼちゃり。
抑えるものをなくした瓶から、粘ついた絵の具のような粘液が滴り落ちて、大きな音を立てる。
「ーそれは、、森山の」
「あァ、うまくいかねぇな、どれも…、これも」
水を浸食し広がっていく色、振り向いた桜井の見開かれた瞳、口角の下がった荒海の顔。
「おかえり、夢乃夜くん」
もう顔を上げることすらなく、ただ目を瞑る。
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