8 / 11
第8話
こそこそと周囲に人がいなくなった頃合いを見計らい、退社する。
昼間、歩いた道を思い出しながら辿って行く。
目印になるような店や、物を思い出そうとするたび、あの特徴的な男しか浮かばない…。
とにかく、たしかにこの辺だったような気がする…道へ着いた。
取り出したスマホで通報画面を開き、周囲を見渡したが…、やはり、どこにも見当たらない。
そもそも、時間の待ち合わせすらしていないというのに、再び会うことは無理か。
肩を落とし、握りしめたスマホを仕舞おうと鞄を開く。
「おお~!ほんまに来とるやん」
突然、背後から聞こえてきた声に、
思わず、通報ボタンを押してしまいそうになるのをギリギリのところで抑え、振り返る。
「もう少し、普通に声をかけてくれないか…」
昼間と変わりない男の姿に、張り詰めた息を吐き出す。
「いや〜、ごめん、ごめん。
あそこのベンチにでも座ってゆっくり話そか?」
けら、けら笑いながら、近くの寂れたベンチへと真っ直ぐ歩いていく軽薄な男の背中を追い掛けていく。
通報画面を開きなおして、男の隣に渋々、距離を空け腰掛けた。
時折、通り抜ける風の肌寒さ、少しずつ薄暗く色を変えていく空は…、秋よりも冬に近い。
今年も紅葉シーズンはあっという間に過ぎていくんだろうか…。
ぼんやり逃避していく思考に頭を振って、あらためて男を横目に見る。
知りたいことは、もちろん…、たくさんあるが、そもそも、本当にこの男に答えられるのだろうか…?
「ボクの名前は森山 秋喜
気軽に秋喜くんって呼んでええで、夜くん。」
「まだ、名前を教えてないが…」
目元を緩ませ、差し出された片手を尻目にスマホを握りしめ、足先に重心をかけた。
「そらぁボク、キミのことなんでも知ってるからなぁ。
真っ暗でも寝られるようになったんは、高校生ん時 からとか、人生で初めて買った写真集の名前は…どうする?」
「…いや、これ以上いい」
息をつく間もなく、ぺらぺらと男が話し始めた、誰にも話していないはずの秘密に、頭を抱えて項垂れたまま、降参する。
そっと見渡した周囲には、人影ひとつない。
どこでどう、調べたかはさっぱり、分からないが。
少なくとも本当に自分のことを知っているようだ…。
だが、男が名乗った名前にも、この奇抜な姿にも、心当たりがまったくと言って良いほどない。
「あぁ…ボクのこと思い出そうとしても、そんなん気にせんでええよ。
この姿、ほんまのんちゃうし…たとえ本物でも、気にかける必要あらへんよ。
ほな、ちょいと手ぇお借りして…失礼〜」
軽やかな動作で手を打ち、頭をかいた森山へ承諾する前に、スマホごと両手を力強く握りしめられる。
最近は、こういう握手が…、流行っているのか?
そんな現実逃避の考えも、すぐさま指先が押し潰されたような激痛で掻き消えていく。
引き抜こうと藻掻き、暴れる動きすらも平然と抑え込む、森山のこの細い腕のどこにそんな力があるのか。
「はい…終わりぃ。
気分はどう?」
「ー最悪だ…。気持ち悪い…」
ぐわん、ぐわんと絶え間なく揺れる視界を自由になった両手で頭を押さえる。
酷い運転の車に乗ったあとのような、気持ち悪さが襲い、せり上がってくる胃の内容物を渡された袋の中へ吐き出す。
汚れた口元を取り出したティッシュで拭い、液体と溶けきれなかった固形物の詰まった袋の中へ入れ、口を縛る。
「それ、邪魔やろ? ほれ。」
森山が、懐から取り出したガラス瓶の中身が、
一滴垂れ落ち、ぽとりと袋に当たった瞬間、
たしかにあったはずの袋が消え失せていた…。
「今のは…、、…いや。」
ますます現実とは思えない光景に、吐き気と頭痛が
する。
「あぁ、気になるんやろ。
ええよ、じっくり見たらええ」
その様子に、なにかを勘違いした森山が笑みを深め
先ほどの瓶を手のひらに載せ、受け取るのを待っている。
仕方なく震える指先で、慎重に瓶を受け取ったが、
もしこの中身が…、一滴でも垂れたら、自分があの袋のように消えるのか…?
「ー気色悪い…。いったい、どうなってるんだ…。」
たくさんの蛍光色が、ずっしりと瓶のなかへ詰まっている。
しかし、どの色も僅かな振動で、瓶が揺れても混ざり合うことがなく、まるで磁石のように反発していく。
「ポクの睡液や。
…これな、必要になった時に使いな。夜くん」
軽薄な雰囲気のまま、伝えられた言葉にため息をつく。
瓶の内側を流動する色をじっくり眺めたが、到底、唾液には見えない。
そもそも人間の唾液は、透明じゃないか…。
たしか、桜井も似たようなことを話しながら、
あの羽根を渡してきたが、、。
「最近は…、その手の冗談が流行っているのか…?」
思わず覗き込んだ森山の真っ黒な瞳に、赤と青の光点がチリチリと瞬く、幻覚すらも見えてしまう…。
「いや、いや…。もう、見えとるはずやで。
ほれ、足元でものぞいてみ」
身振り手振りで否定する森山の胡散臭さに、冷えた眼差しを浴びせてしまう。
しかし、ゆっくり森山の瞳から自分の足先へ動かす。
ー見えた光景にベンチから身体を起こし、立ち上がった。
「ーは、」
まるで、夢の続きのような足首までの浸かるほどの水が街一面に広がっている。
だというのに、まったく服や靴は濡れていない。
ベンチの背もたれに両手を掛け、腰掛けたまま、
けら、けら笑い続ける男の胸ぐらを掴むことすらできない。
いまは、この異常について…、森山へ聞くことが優先だ…。
目蓋を力強く閉じて、回らない頭を動かす。
「それよりやなぁ、夢乃くん。
ほんまにキミが過ごしとった街って、こんな街やったっけ?
ほら、記憶ええ加減に盛ってへん?」
「何を…、言っているのか。
いつもと変わらない、…街だ」
まるで旧友のように肩を組み、鼻先が当たりそうなほど顔を近付け、明日の天気を尋ねるような声音で囁きかけてくる森山に血の気が引いていく。
「それとな、いつから"桜井期"なんて後輩、湧いてきたん?」
少し建替はしたが、記憶となにも変わらない、
普段の通りの街だ…。
だが、こんなにも一寸も同じ建物が並んでいる?
どうして、建物に掛けられた会社の名前の一つも、ぼやけて見えない?
頭を抱え、考え込む間も問い掛ける森山の声が、
思考のなかへ入り込む。
「ー桜井、さくらいは、、、」
いつから桜井は、自分とともに働き、日常を過ごしていただろうか。
「ほな、今からキミにかかってくる電話の内容。
教えたろか?」
森山の腕を振り解き、とっくに水面に落ちて水没してしまったはずのスマホを掬い上げ、表示された応答ボタンを押す。
「『元気に過ごしてる?
体調には気をつけて過ごすんだよ、なにかあったらいつでも戻っておいで』」
目の前の口からも、スマホからも、聞こえてくる母さんの声に込み上げてきた胃液を地面に吐き出す。
そっと取り上げれたスマホからは、…もう、母さんの声は聞こえない。
「ーかぁさん…」
ーあぁ…、母さんはもう、とっくにどこにもいないじゃないか。
白い棺のなかへたくさんの花とともに、納められた母の姿が脳裏を過ぎ去っていく…。
「いやぁ〜、ほんま困ったで?
ボク、ずっと見守っとったのになぁ…。キミ、どっか消えてもうて。」
「ようやっと見つけた思たら……まぁ、えらい幸せそうにしとるやんか。
その間、ずっと、変な魚やら鳥やらがチョロチョロ邪魔してきよるし…、ほんま、最悪やったで。
なぁ、キミは気ぃついとらんかったんやろ?」
たいして困った様子もなく、薄ら笑いを浮かべて、ぺらぺらと話し始めた森山の胸ぐらを掴み上げ、
鮮やかな遊色の瞳を睨みつける。
「ここは、どこで。お前は…、いったい。」
絶え間なく溢れていく涙が頬を伝い、流れ落ちていくことすらも、もはや、どうでもいい。
「ん、あァ、…肝心の説明、まだやったな。
今な、夢乃くんがおるんは」
指を鳴らして大きく頷いた森山に、耳を澄ませ続きを待つ。
「ーまったく。
…ここ、最近の問題にはほとほと困り果てたものです。
あの狼藉者にも、あなたのような無作法者にもー」
不意に耳に届いた低く濁った声に、身体が強張っていく。
ゆっくりと歩み寄ってきた桜井に、森山の胸ぐらを掴んでいた手をそっと解かれる。
だが、柔らかな動作で桜井に掴まれた手は、
力強く握りしめられたまま、離れない。
「ー桜井、どうして…、ここに?」
ただ、目の前に立ち塞がった桜井の背中に、問いかけた声は弱々しく届くことすらなかった…。
誰よりも頼りにし、…親しくしていたはずの後輩が、いま、何を考えているのかすらもわからない。
「いやぁ、その面の皮、えらい分厚いなぁ。
その分厚さ、ホンマ見習いたいわ…、いや、羨ましなるぐらいやで。」
まともに息を吸うことすら許されない、重苦しい威圧感を漂わせる桜井と視線を交わしたまま、軽口をたたく森山に冷や汗が背中を伝う。
「ま、落ち着きぃや。
ボクと夢乃くん、そろそろキミのとこからお暇させてもらうさかい。
ー無理に伸ばした手って、だいたい誰も得せぇへんねん。
せやし……見送るだけで済むうちに、さっさと楽になっとき。」
「いえ、お帰り頂くのはあなただけで…結構です。
それでは」
「桜井、!森山にはまだ…、」
絡まった糸が解けていくように、一つ一つ色が失われていく森山の姿へ伸ばした手を桜井が覆う。
どくどく、激しく鳴り響く鼓動が煩わしい。
力が抜け、崩れ落ちそうな身体を桜井に支えられ、ベンチへ座らせられる。
「こそこそと…、あれが動いているのは理解していましたが、 …その爪先。
もう少し時間を惜しまずに、念入りに処理を行うべきでしたね。」
まるで、小さな子供を心配する親のような眼差しで
見下された自分の両手の指先には、蛍光色で彩られ、森山を思い出させる。
だが、それもじわじわと黒と白色に、少しずつ侵食されていく。
「ー桜井、…君は、だれなんだ、、。
…それに、この世界は」
ぼたぼた、流れ落ちてい涙も、吐き出した息すらも熱くて堪らない。
からからに渇いて痛む喉が、これは現実だと打ちのめしてくる。
「この世界について…?あァ。
ー僕は夢乃夜さんの可愛い後輩で、
この世界は、夢乃さんの記憶をもとに作成した、
いわば、舞台のようなものです」
小さくため息をつき、淡々と語り始めた桜井の言葉が、ただ、耳を通り抜けていく。
激しい頭痛と、吸っても、吸っても足りない酸素。
無意味に吐き出されていく呼吸音が、どこか遠く聞こえる。
「あァ、しかし…。
やはり、手抜きをしてはいけませんね…。
こうして、付け入られる隙となってしまいました」
ふと些細なミスをひとつ、してしまったとでも言いたげに眉を顰め、口角を下げた桜井の姿も。
乗り込むことすら大変な満員電車、あの、鬱陶しい
部長の様子だって、なに…、ひとつ、、。
…桜井なんて、…後輩はいないと…。
もう、知っているはずじゃないか。
「ーなぜ、質問に答えてくれるんだ…?
君は…、私の記憶を変えることもできるんだろう。…桜井、、」
滲んだ涙を手の甲で拭い取り、月白色の瞳を
じっと見つめる。
真実を知るのは、足元が崩れていくように怖くて堪らない…。
ぶるぶる、震える右手をもう片方の手で、押さえる。
ともだちにシェアしよう!

