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春陽のお茶会事情 前編
『春陽のお茶会事情』
碧生にとって、瀬野家は初めての場所だ。けれど、妙に懐かしい気もする。
翔と碧生たちの母は、もともと育ての親が一緒なのだ。だから「お祖母ちゃんのお家へ行くよ」と言われると、決まって陽太たちも一緒だった。碧生は幼い頃から、皆と面識があったのだ。
上下関係もない年頃だったから、陽太のことも雅明のことも、親戚のお兄ちゃんか何かだと思っていた。達臣だって、父の友人だと、そんな認識だった。
久しぶりにあった達臣には、「大きくなったね」と言われた。まるで父親みたいに。
陽太たちが兄なら、陽月と春陽は弟みたいな存在だった。あの中で唯一、碧生より年下だったからかもしれない。
「あおいくんに、おれのたからもの、みせてあげるね」
幼い春陽が、そう言いながら碧生の前に缶を差し出す。子供の手のひらには大きすぎるそれの蓋を開けて、春陽は屈託もなく笑った。
「じゃーん! かわいいでしょ」
缶の中に入っていたものは、きれいな色のお菓子の包み紙だった。それから、シールやおもちゃの宝石。
かわいいね、と碧生が答えると、春陽は機嫌よく碧生の膝に乗って来た。宝物の包み紙を掴んで、一つ一つ、どんなお菓子だったか教えてくれる。
とても人懐っこくて、愛らしい。可愛い弟だった。
それなのに……――。
「碧生さんって、嫌いな事はなんですか?」
唐突に聞いたことがそれだった。今思い返せば、とても失礼だったかもしれない……と、春陽は思う。
誰だって、嫌いなことより好きなことを答える方がいいし、気が楽に違いないのに。
それでも春陽は聞いてしまった。自分は、あまり察しの良い方ではない。なら、嫌な気分にさせる前に、知っておいて避ける方が良いと思うから。
春陽の前に紅茶を置きながら、碧生はきょとんと春陽を見た。まさかそんなことを聞かれるなんて、碧生は思ってもいなかった。
あんなに明るい子だったのに、今の春陽は萎縮していることが多い。もちろん、春陽のこれまでを考えると、それも十分理解出来るのだけれど……。少しだけ、寂しさを感じてしまうのだ。春陽が、自分を覚えていないことにも。
碧生は少しだけ視線を落とすと、そうですね……と口を開いた。
「では、お互いに、嫌いな事を教え合いましょうか」
「えっ?」
「私も、春陽様の事を知りたいので」
にこり、と碧生は瞳を細めた。
春陽が覚えていないなら、新しい関係を築けばいい。少しでも春陽が安心できるのならば、それに合わせよう、と碧生は思う。
そしてまた、春陽も。碧生になら、素直になっても良いのかもしれないと思う。碧生の柔らかな雰囲気は、春陽の意思を肯定してくれるから。
「じゃあお茶でも飲みながら……!」
春陽は席を立つとお菓子が仕舞われている棚へと走った。山霧が用意してくれているお菓子の中から、可愛い動物が描かれた缶のビスケットを選ぶ。
テーブルに戻り、座って、と碧生に促す。
「では、お言葉に甘えて」
言いながら、碧生は自分の紅茶も入れて、春陽の向かいに座った。
「これね、中もすっごく可愛いんだよ」
ぱか、と缶の蓋を開けて春陽は笑う。淡い色のアイシングで色付けられた、動物の形のビスケット。碧生は嫌いじゃだろうか……と、ドキドキしながら春陽は碧生を見た。
けれど、碧生は缶のビスケットには目もくれず、じっと春陽を見つめていた。
「……あの、碧生さん……?」
「……失礼しました」
春陽の呼びかけに、碧生は意識をここに戻した。そして「本当に。可愛いビスケットですね」と同意を返す。
碧生の視線を不思議に思いながらも、春陽は話を続けた。
「ねっ、食べるのがもったいないよね」
なんて。本当は、このままずっと取っておきたい気持ちもある。しかし、
「でも、お菓子ですから」
と碧生が言ってくれるから
「食べちゃうよね」
そう言って、二人して笑った。
当初の話のテーマは、お互いの嫌いな事だった。けれど、すぐにその話題になることはない。
ビスケットを見ながら、どの動物が好き? とか、なんの色が好き? とか、なんの味が好き? とか……。
碧生との会話の中で、春陽は改めて自分の好きなものの事を考えた。こんなふうに、自分の好みについて考えたのは久しぶりだったかもしれない。
母が亡くなって一人になってから、いつも自分に余裕がなくて、好きなものも、嫌いなものも、いつの間にか意識することがなくなっていた気がする。そんなことを考える暇もないほど、生きるのに精一杯だったとも言える。
瀬野の家に迎えられてから……もとい、帰ってきたと言うべきか。それすら正しいのかは分からないけれど、少しずつ心にゆとりができ始めて、自分の感覚が戻ってくる。
執事長として悟志がいた頃は、しっかりしなくてはという気持ちが強かった。けれど、達臣や颯真の前では、どちらかと言えば緩みがちになる。立ち振る舞いが上手くいかなくとも、あの二人は怒らないから。
それから、碧生の前でも。きっと自分らしくいられる気がする。だから碧生にも、あまり気を使ってほしくないと、そう思うのかもしれない。
「春陽様は可愛い物がお好きなのですね」
「うん、たぶん」
碧生の質問に苦笑しながら、部屋の定位置に鎮座するカンガルーのぬいぐるみに視線を向けた。そして、その隣のライオンのぬいぐるみにも。
新入りのライオンのぬいぐるみは、陽太がプレゼントしてくれた。カンガルーに負けず劣らずの等身大で、ふさふさの鬣が気持ち良い。
「どうしましょうかね……これ」と頭を抱えていたももを思い出す。もちろん、春陽は可愛いので気に入ってはいる。けれど、ももが部屋を整える際には邪魔になるのかもしれない。
ももと碧生と、色々な案を出し合って、薄緑色の絨毯の上に二匹を並べた。部屋の中に作られた、即席の小さな自然。サボテンでも置いてみたらなお良いかもしれない、と春陽は思う。
甘いお菓子も、ぬいぐるみも、移ろいゆく自然も、春陽は好きだ。毎日身に付ける髪飾りも、今の自分を象徴するものの一つのように感じる。
シュンとして生きていた頃は、仕事とはいえど、普通にスカートを穿いて、化粧をして、か弱い女の子のようにも振る舞っていた。
男なのに……と思うことはもちろんあった。けれど同時に、本当の自分はこんなふうに弱いのだとも分かっていた。仮面を被って虚勢を張ることでしか、自分を守る方法を知らなかったから。
でも、今は違う……。
「男らしくないよね」と呟けば、「そんなことありませんよ」と碧生は言う。
「私とは真逆ですね」
「えっ」
「こう見えて、私は男っぽいところがあるんですよ。というか、内面はほぼ男なんです。正直、兄よりずっと男っぽいって言われるので……」
「そうなの?」
外見が女性だから、華やかさと品があるように見えるのだろうか……。それでも、自分よりもずっと、上流階級の空気感が碧生にはある。
「それは、執事としての立ち振る舞いをちゃんと学んだからですよ。……あー……っていうか、学ばざるを得なかったというか……」
「……実は無理してたりする?」
「無理してたりします」
春陽の問に、碧生は迷わず返した。それが何だかおかしくて、春陽は笑った。
「無理しなくていいのに。俺の前では普通でいいよ」
「いや、そういうわけには……。立場を弁えないと怒られますよ」
「誰に?」
「誰……ええっと…………兄、とか」
迷いながらも、碧生は唇を尖らせて答えた。加谷さん? と聞き返せば、「ええ」と碧生はため息を吐いた。
「そのうち兄弟喧嘩しそうなので、春陽様には初めに謝っておきます。煩いんですよ、あの人。ちゃんとやってるのか、とか。間違えたことしてないか、とか。すぐ指摘してくるんですよね。そんなんね、俺だって執事になったばっかりなんで、完璧に出来るわけないんですよ。いや、もちろん春陽様に対しては、真面目に頑張りますけど」
腕組みをしながら愚痴を吐く碧生の姿は、春陽がよく知っている執事の姿とはだいぶかけ離れていた。けれど……
「俺は……そっちの碧生さんの方が好きかも。俺と対等に話してくれるところ。真面目な執事の碧生さんは格好いいけど、今の素直な碧生さんの方が、気が楽だなと思った」
ふふっ、と春陽が笑いをこぼすと、碧生はばつが悪そうに視線を流した。
「あー……っと、今のはなしで。兄には内緒にしておいて下さいね。怒られるんで」
「分かった。でも、俺と二人の時はこんなふうに話してくれると嬉しいな」
「うーん……でも、すぐに切り替えられるかなぁ……。陽太様や陽月様の前で、春陽様に対してこんな態度で接してたら即首ですよ。俺下手なんですよね、取り繕うのとか」
「分かるー。俺も下手くそだよ、しっかりするのとか。だから大丈夫! 俺はこっちの碧生さんの方が好きって、ちゃんと言うから!」
「けど……」
「俺がいいなら、いいの! だって、碧生さんは俺の執事なんでしょ?」
ね? と同意を求めると、碧生は観念したように苦笑した。
「あははっ……。分かりました、俺は春陽様の執事ですから。春陽様の仰せのままに」
言いながら、碧生が品良く頭を垂れた。格好良い、と春陽は碧生を褒める。
「では、春陽様。俺からも春陽様にお願いがあるんですが……一つだけ、良いですか?」
「うん? なあに?」
「碧生“さん”、ではなく、碧生と呼んで頂けたら嬉しいです。もし、呼び捨てが気になるなら、碧生“くん”が良いです。ちゃん呼びはどうも……女扱いされてるみたいで嫌なんですよね」
それはもちろん、碧生の本心からだった。けれど、どこか奥底では、あの頃のような関係に戻れたら……と、そんな希望もあったのかもしれない。
「分かった。じゃあ……碧生、くん」
少しだけ、気恥ずかしさを含む声で春陽は碧生を呼ぶ。ああ、懐かしいなと思いながら「はい」と碧生は返事をした。
「あ、碧生くんが良いかな……? それとも、碧くん?」
「どちらでも、春陽様の呼びやすい方で」
「……じゃあ……」
碧くん、と春陽が呼ぶ。碧生はさっきよりも少しだけ軽やかに「はい」と返事をした。
※※※※※
「碧くーん!」
下校する生徒に混じって昇降口から出た春陽は、碧生の姿を見つけると、声を上げながら手を振った。鞄に付けた犬のキーホルダーが左右に揺れて、首輪の小さな宝石が陽の光を反射して煌めく。
これまで、春陽の迎えは陽月の役目だった。けれど執事が就いたのなら、それは碧生の役目になる。もちろん、陽月は不服そうではあった。けれど、碧生の仕事を奪う程子供ではない。代わりに、「御守り」とくれたのがそのキーホルダーだった。
「お帰りなさいませ、春陽様」
「ただいま! 待たせちゃった?」
「いいえ。私も少し前に来たばかりです」
春陽に気を遣わせないよう、碧生は答える。良かった、と春陽は胸を撫で下ろした。
車に乗り込むと、春陽は鞄の中からメモ紙を取り出す。授業中にこそこそと書いたそれには、これから購入したいもの。
碧くんとももちゃんと、もっと仲良くなりたいな――そう二人に話をすると、ももは
一つ提案をしてくれた。それが、“手作りのお菓子でお茶会をしよう!”というものだった。
三人で話し合って、たこ焼き器でベビーカステラを焼こう、と決めた。
「きっとわいわい楽しいですよ!」
そう、ももが笑っていた。インターネットでレシピを調べて、春陽と碧生で材料を購入して帰ることになったのだ。
「じゃあ、スーパーまでお願い」
「かしこまりました」
車に揺られながら、春陽は今日の碧生の話を聞いていた。
春陽が学校に行っている間、碧生は執事としての学びのため、陽太の仕事に同行しているそうだ。緊張はするけれど、雅明の教え方が上手だから為になる、と碧生は言う。
ただ、気になる点もあるらしい。
「陽太様も雅明さんも、俺のこと、妹扱いするんですよね……」
言いながら、碧生は昼食にファミリーレストランに入った時の事を思い出す。
「今は仕事の時間じゃないから気楽にね」
どうぞ、と陽太は碧生にメニューを渡してくれた。
「いえ……私は後で」
丁寧に断りを入れると、「良いから良いから」と陽太は笑う。
「遠慮せず、碧生ちゃんの好きなものを頼んで」
雅明もそう言ってくれたので、じゃあ……と碧生はメニューを開く。
うーん、と考え込む碧生の姿を、二人はにこにこと笑って見ていた。
「はい、決めました」
碧生が声を上げると、雅明がベルを鳴らす。
注文を終えてメニューを片付けると、「意外と食べるね」と陽太に言われた。
遠慮せずにどうぞ、と言われたので、ハンバーグが2枚セットになったものと、ご飯の大盛りを頼んでしまった。
「すみません……」
「良いんだよ。遠慮されるより、好きなもの食べてくれる方が嬉しいな」
にこ、と微笑まれたので、思わず、“おぉ……”と碧生は仰け反った。これぞまさに、いい男ムーブというやつか。
「デザートは良かった?」
「デザート食べるなら、ポテトとかの方が……」
「ポテト、頼みます?」
「いえ、そこまでは……」
「いらないの?」
「はい……」
そう答えて、碧生はしばし黙り込む。
なんと言うか……ぞわぞわする!!
普段なら「食べ過ぎ」と言われるのが碧生の常で、大食いを否定してこない陽太と雅明に、違和感を覚えてしまうほどだ。
一番にメニュー表を渡されることも、デザートを勧められることも、碧生にとっては無いことだ。まぁ、我先にメニュー表をぶん取る事はあるけれど……。
お水いる? とか、気を使われることにも慣れなくて、思わず「あの!」と声を上げた。
「その……その扱いは……なんでしょうか……?」
おずおず尋ねると、二人とも首をかしげながら碧生を見た。
「その扱いって?」
「あ、いろいろ言い過ぎたかな?」
雅明の問いに、そうです、と答えようとした。けれど「加谷くんに悪かった?」と先に続けられてしまう。
「いえ、兄に悪いとか、そういうわけではありませんが……あの、私ももう“大人”なので……」
碧生の言葉に、陽太も雅明も「なるほど」という顔をする。
「そうだよね、碧生も立派な“大人のレディ”だもんね」
「子供みたいな扱いだったかな? 失礼」
紳士的にそう言われ、思わず「違ぇよ」という突っ込みが喉元まで出かかり、碧生は取り繕うように小さく咳払いをした。
「そうではなくて。せめて“妹扱い”だけでもやめて頂けると助かります」
碧生としては、丁寧に、はっきりと伝えたつもりだった。
子供の頃は、確かに兄だったかもしれない。けれど、今は違う。上下関係がはっきりしていると、碧生“は”分かっている。職務と私情を一緒にするのは、些か間違っているのではなかろうか。
そう思うのに、陽太に「なんで?」と聞き返される。
「もちろん、立場上は碧生の事をちゃんと一人前の執事だと認識してるよ。でも、プライベートでは妹と同じでしょ?」
「だから、仕事と私情を一緒にしないでほしいって言う話なんですけど。……まぁ、気楽にってことなら、今は良いのかもしれないですけど……」
「うん。気楽にってことは、プライベートとほぼ同じでいいんだよ? 僕にとっては、みんな弟みたいなものだから……颯真はもちろん、加谷くんもそうだし、なら、碧生ちゃんもそうだし」
雅明に困ったように言われ、陽太も
「そうそう。プライベートでは、僕も雅明の弟みたいなものだしね」
なんて、全く気にしていない様子だったので、碧生はもう考える事を放棄した。そしてベルを鳴らすと、店員を呼んで告げる。
「すいません、フライドポテト三人前追加で。あと、ドリンクバーも」
少しばかりふてぶてしい態度での注文も、店員は気にした様子もなく、丁寧に聞いて去って行った。
陽太も雅明も遠慮がないなら、碧生だけ遠慮しているのも馬鹿らしくなってくる。だからもう、素のままでいいや、なんて投げやりになった。緋津希に知れたらこっ酷く怒られるかもしれないけれど。
「あと、女扱いも嫌。俺が男らしいの、昔から知ってるくせに」
「あはは。そうだね。じゃあ、妹はやめて、弟ってことにしようか」
「そうだね。そうしよう」
もういいよ、それで。と碧生は現状を飲み込む。二人共長男なのだから、どうしても兄としてのクセ出てしまうのは碧生も理解が出来る。が、間違いなくこの兄たちは緋津希とは正反対のタイプで、違和感が半端ない。だから、
「文句があるならちゃんと言ってよ?」
とお願いもしておく。「文句?」と二人の声が揃う。
「何に対して?」
「俺に対して!」
はっきりと答えると、陽太と雅明は顔を見合わせた。
「その……なんて言うか……二人とも優しいから、変な感じなんだけど……」
「……優しいかな?」
「普通だよ?」
「いやいやいや……文句の一つでも言うだろ、兄弟なら。ほら、欲張りすぎとか、食べ過ぎとか、空気読めとか」
で、緋津希とは兄妹喧嘩に発展するのだ。いつも。
「いや……言ったことないな」
「言ったことないねぇ……」
「“言ったことないのかぁ”って、思わず天井仰いじゃったしね」
長々と、碧生は昼食の事を思い出しながらも、春陽の負担にならないよう、かい摘んで話をした。
「兄弟喧嘩しないことなんてあるんだって……」
「あははっ、分かる! ひな兄も雅明さんも甘やかすの上手だもんね」
春陽は流されやすいから、あの二人の言うことならまぁ間違いないだろうと思ってしまうのだけれど、芯のある碧生ですら、あの二人の前だと萎縮してしまうのか……。
それを聞いて、春陽は少しだけ安心した。
スーパーに到着して買い物をする。かごはもちろん碧生が持ってくれた。春陽が持ち歩こうとすると「譲れません」と碧生が言ったので、ここは大人しく甘えておく。
惣菜コーナーの前を通り過ぎた時、値引きシールの貼られた寿司が目についた。
以前なら、ラッキーと思いながらかごに入れていたそれ。今の春陽には、入れるかごすらなくて、少しだけ寂しくなる。
「お寿司、食べられますか?」
春陽の視線に気付いて、碧生が聞いてくれる。
「明日でも良ければ、料理長にリクエストを出しておきますよ?」
「あっ、ううん。そういうわけじゃなくて……」
首を横に振って、春陽は惣菜のコーナーを離れる。お菓子のコーナーでチョコレートを取って、他は素通りした。部屋に戻れば、ちゃんと用意されているから。
「春陽様」
「ん?」
碧生に呼ぼれて振り返る。もし余計な事でしたら言って下さいね、とそう前置きをして、碧生は言葉を紡ぐ。
「遠慮なさらずとも、欲しいものは購入なされたらいかがですか? その……確かにお菓子はお部屋にありますけど、好みがあったり、気分があったりするでしょ?」
「あ……」
気にしたつもりはなかった。けれど、春陽が少しだけ他のお菓子に目配せをしたのを、碧生は見逃さなかったのかもしれない。
「で、でも…………いいのかな?」
「いい、とは?」
「自分で、買っても……いいのかな……?」
しどろもどろに答えながら、床に視線を落とす春陽に、碧生は首をかしげた。
自分の物は自分で選ぶのが当然ではないだろうか。それすら疑問に思う春陽の心情を察することが、碧生には難しかった。
いや、やろうと思えば出来たのかもしれない。一人になってからの春陽のことを、碧生は誰よりも知っていたから。
本当なら、碧生の初仕事は「春陽を探す事」になるはずだった。優実と春陽を瀬野家に連れ帰る……それが、翔の望みだったから。けれど、碧生が執事の養成学校を卒業する直前に春陽が見つかったことで、碧生の役目は変わった。
翔の指示で探偵のように春陽の身辺を洗い、よく行くスーパーや、日常的に購入するものも分かっていた。疲れた日にご褒美として買う、ファーストフードの小さなバニラシェイクも。隣に座って、一緒に飲んだことだってある。
もちろん、そんな碧生の存在を春陽は気付いていない。春陽は、人前であまり顔を上げようとしなかったから。
碧生の目の前で俯いてしまった今の春陽が、あの日々を生きていた頃の春陽と、哀しく重なる。春陽は決して、周囲に興味がない子ではなかった。逆に、周囲が春陽を受け入れようとしていなかったのだ。春陽は、それをちゃんと感じていたのだと、碧生は思う。
言葉をなくした碧生に、春陽は「あのね……」と、弁解するように静かに口を開く。
「家って……ちゃんとしたお家だから……それなりの物を、買わないと、いけない気がして……」
「それなりのものって? だって、お昼は購買のパンとかじゃないんですか? たかが数百円でしょ?」
「えっ、あ……うん……」
「それに陽太様だって、毎日三食高級なものばかり食べてるわけじゃないですよ? お昼は普通にファーストフード店使いますからね。そっちの方が手っ取り早いからってこともありますけど」
「そっ、そう……だよね」
ごめん、と春陽は苦笑した。
瀬野家に戻ってから数か月。周りは春陽の意図せぬものまで高級品で整えられて、快適さはこれまでの比ではない。もちろん、それを否定するわけでも、嫌だというわけでもない。ただ、……境界線が分からなくなる。今までと生活の質が違いすぎて、自分が選ぶものが“正しい”のか分からない。
一度、インスタントラーメンが食べたいと言って、作ってもらった事がある。春陽にとってのそれは、ただ麺を鍋で煮て、付属の調味料を入れるだけのものだ。焼豚よりもハムで良い。ネギがあったら完璧。
まさに、カップラーメンよりも料理をした感が在るだけのものなのに、瀬野家の料理長は、わざわざ野菜炒めと味付け卵を乗せてくれた。焼豚だって、「何枚付けましょうか?」と聞いてきてくれた。焼豚なんて、乗っているだけで十分だ。既に春陽の思うそれとは、違うのだから。
そんなこともあって、自分の感覚で物事を選ぶのは、この階級社会では些かずれているのではないか、と不安になる。
「ああ……悟志さんに“瀬野家の人間として”って、口煩く言われてきたから、怒られそうな気がするんですよね?」
「えっ?」
「どっちみちもう居ないんだし、お菓子買っていきましょう」
ほらほら、と碧生に誘われて、もう一度お菓子コーナーの通路に入る。
「春陽様は何がお好きですか?」
にこ、と笑って問われる。
そういえば、自分はどんなお菓子が好きだっただろう……。
「そう……だな……、ポテチは好きかな」
「じゃあ買いましょ。味はどれが良いです?」
「えっと、塩……かな?」
「普通のと、のり塩とありますよ」
碧生と並んで物を選ぶ。よく見ると、塩味と言っても、メーカーも種類も多様だ。とりあえず、一番の有名どころをかごに入れる。
「他には?」
「他には……」
ちらりと視線を動かすと、食玩が目についた。可愛いキャラクターのおまけが付いたそれ。昔はたまに買って集めていたけれど、最近はさっぱりだった。
久しぶりに集めてみようかな……?
そう思い、手に取る。隣では、碧生がミニカーの箱を取り上げていた。
「昔からありますけど、最近は本当に出来がいいですよね」
「ミニカー好きなの?」
「よく集めてましたよ。あと、列車とかも。コース繋いで走らせて。ただぐるぐる回ってるだけなのに、楽しいんですよね」
「あはは、分かる。じゃあそれも買っていこうよ」
春陽が無邪気に笑い、碧生はほっと胸を撫で下ろす。罪悪感も、必要性もない、ただ春陽が“欲しい”と思うものが、かごに入って行ったから。
「あとは……ジュースとかもいるかな」
「あっても良いですね」
「じゃあ、ジュースコーナーへ行こう」
春陽が一歩踏み出して、碧生はその後へ続いた。
帰宅した春陽の耳に届いたのは、工事をする重機の音だった。出先は祖父の部屋だ。取り壊して、オープンテラスにするらしい。
それを決めたのは翔で、陽太も陽月も異論を唱えなかった。だから、自分も口を出すことではないな、と静かに聞いていた。
見上げたそこには、もう部屋の壁さえなくて、これまでよりも広い空がある。
「いかがなされましたか?」
「あ……随分風通しが良くなったなって……」
「一気に壁が取り壊されちゃいましたからね」
春陽の横顔か少しだけ憂いを帯びている気がして、碧生は「寂しいですか?」と聞いた。春陽が静かに視線を戻す。……どうかな、と言葉に迷った。
良い思い出など一つもない場所だった。取り壊されて清々するかとも思ったけれど、不思議と、そうではなかった。昔から、変わらずあったものがなくなって……そのせいかもしれない。
迎えてくれる従者たちに、いつものように返事をする。前を歩いてくれていた陽月がいないから、少し緊張した。きっと、すぐに慣れてしまうのだけれど……。
「「お帰りなさいませ」」
江崎とももが並んで頭を下げる。ただいま、と春陽は笑った。そして、小走りにももに駆け寄ると「買い物してきたよ」と伝える。
「ありがとうございます」
「ちゃんと揃ってると思うけど、確認してもらえると嬉しいな」
部屋へ誘うと、ももは一度、江崎を見た。視線を受けて「大丈夫ですよ」と江崎が答える。
「では、このままお部屋までご一緒してもよろしいですか?」
「うん! 一緒に来て」
嬉しそうに春陽が笑う。ふんわりと、温かな空気がその場を包んだ。
部屋に戻り、碧生からショッピングバッグを受け取った。テーブルの上に買ったものを並べていく。
「買い忘れなさそう?」
「大丈夫だと思います。……お菓子やジュースも買われたんですね」
「あ……うん。駄目だった?」
そう聞いてくる春陽に、ももは首を横に振る。
「とんでもございません。いや……ポテチなんて、食べられるんだなと思って」
「あ、食べるよ普通に! ……えっと、二人には黙っててね」
なんとなく怒られそう、と苦笑する春陽に、碧生が口を開く。
「そんなに警戒されなくても大丈夫ですよ。陽太様も陽月様も、そこまで口出しはされないでしょうから」
「そうかな……」
「そうですよ。……まぁ、春陽様がどんなお菓子が好きか分かれば、いろいろと買い込んで来られそうですけど……」
誰が、とは名言しなかったけれど、十中八九、陽太の事だろう。陽月は「さすがに買いすぎだろ」と言いながら、一緒に食べてくれそうな気がする。
「最近はご当地ポテチとかも増えてますから、喜んでお取り寄せされるんじゃないですか?」
「あー、それ、ありそうですね」
「えぇ……」
さすがにそこまではしないだろう。陽太だって暇ではないのだから……と、春陽は思ったのだけれど……。
「ひな兄、ポテチは当分いらないよっ!」
悪いと思いながらも、そう抗議することになろうとは……まだ知る由もなかった。
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