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待夜駅
階段の入り口には、電柱に隠れるように、小さな看板が出ていた。
『待夜駅』。看板には、そう書かれていた。看板はトタンでできていて、文字は凝った涙のような字体で、ペンキで丁寧に書かれていた。
地下に潜ると、店の灯がこぼれ、ドアのすき間から音楽がもれ聞こえてきた。
ドアの入り口に赤地に黒で店の名を織りこんだ絨毯が敷かれている。待夜駅。まちやえき。プラットホームで電車を待つように、男は、扉の前に黒い磨かれた艶々の革靴の足を揃えて立った。
男は、真鍮の丸いドアノブに手をかけて回した。ギイと蝶番が鳴る。
音が流れ出す。光のまばゆい洪水。ざわめきと音楽のまじりあった空気が、わっと耳と目にとびこんできて、たちまち、いっぱいにする。ざわざわという音と食器やグラスの触れ合う音。きぬ擦れと甘いささやき。
人の影と実像が、赤いびろうどの布地張りの椅子や、英国製の白緑に白と金色の模様のある壁紙の上で揺れている。椅子の脚と背もたれのアールデコの曲線と直線。黒いハイヒールとスリットの深く入ったドレス。赤い口紅。つけまつ毛。クララボウみたいな女性。ふくらはぎ。
猫が飛び出してきて足元で男の顔を見上げニャァと鳴いた。
男は帽子を脱いだ。
デキシーランドジャズのような陽気なひしゃげたトランペットの音。ユーモラスでどこか悲しいピエロのような音。
仮面で隠した泣き顔。涙の仮面で隠した無表情。無表情の仮面。耳まで裂けた口と目に星がついた仮面。
いろんな人がいる。
さざめきが聞こえる。
子音が舌打つ言葉で、舌を巻いた言葉で、音楽が歌う。
無言の人がいる。無言で見つめ合っている人がいる。
ささやき合っている人がいる。
「お客さま」
美少年のボーイが男に声をかけてきた。
「ようこそいらっしゃいました待夜駅に」
美少年は、男のトレンチコートに手をかけた。
男は、美少年の顔を覗きこんだ。
「私のことを知っているのか?」
「もちろんです。お客さま」
美少年は、にっこり微笑んだ。
「ほんとうに?」
男は、美少年の整った顔に顔を近づける。
少年の顔は、さっと赤くなって、脱がせたバーバリーのトレンチコートを折りたたんで腕にかけ、じっと男を見つめ返す。
「私は、年老いてしまった」
男は言った。
「いいえ」
少年は答えた。
「君を夜通し愛することもできない」
「いいえ、ここは、夜を待つ駅です。ずっとずっと、あなたを待っていました」
二人の間で、濡れたコートの雨が降った。
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