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猫と鈴と夕暮れの神社1

「待てよ、ルナ。帰ってこいってば!」  大学から帰ってきて玄関を開けたら、その隙に飼い猫のルナが脱走した。咄嗟に名前を呼んだけれど、返ってきたのは小さなチリンという鈴の音だけだった。ああ、やられた!  大学からの帰り。満員電車と課題のプレゼンでぐったりしていた俺は、玄関の鍵を開けながらぼんやりしていた。それが悪かった。いつもならルナに気をつけて玄関ドアを開けるのに、ぼんやりして開けたら脱走されるに決まってる。  ルナは甘えん坊の家猫にもかかわらず、玄関ドアの向こうに外が見えるたびに尻尾をピンと立ててスタンバイしている。いつでも、飛び出すぞ、と言わんばかりに。だから、完全に気を抜いた俺が悪い。それに、猫だから身が軽く、逃げ足も速い。  だけど早くルナを捕まえないと。もう外は薄暗い夕暮れ時。ルナは黒猫なので、外が暗くなると姿がよく見えなくなるので(目だけは光っているので見える)、完全に首輪の鈴を頼りにしなくてはいけなくなる。だから俺は玄関に鞄を放り投げて、そのままルナを追いかけて飛び出した。 「ルナ! 待ってくれってば!」  辺りは徐々に暗くなり、オレンジ色の街灯がつき始めた。やばい、ほんとに見えなくなる。  いつもルナは自宅マンション裏の駐車場辺りで遊んで、飽きたら家に帰ってくる。だけど今日は違った。住宅街を抜け、路地を渡り、街の外れの古びた神社の鳥居の前に立っていた。嫌だな、入りたくないな。古いだけでなく、寂れていてなんだか怖いのだ。  手入れされていない木々の間から、夜が覗いているようなそんな場所だ。近所の子供達には「幽霊が出る」「祟られる」なんて噂が絶えない神社。そんな神社だから俺も普段は近づくことは避けていた。そんな神社にこんなに薄暗くなってから来るなんて普通ならしない。だけど、今はそんなことを言っている場合じゃない。ルナを捕まえなくては。  俺がヨロヨロと走っているのに、ルナは身軽に飛び跳ね、その黒い影が鳥居の向こうへ消えたのが見えた。マジかよ。 「おい、ルナ! 帰ってこい。ほんと怒るぞ。俺が帰ってもいいのか」  石段を駆け上がると、境内は思った通り静かで誰もいない。なんでこんなところに来るんだよ。空気は冷たく、木々の間を抜ける風が鈴の音のように高く鳴る。  薄暗い空の下、社の奥には、ひときわ大きな木が立っていた。幹は太く、根が地面を這うように広がっている。俗に言う御神木だろう。その根元でルナがちらりとこちらを振り返った。 「ルナ! ほんとに帰るぞ!」  まん丸な金色の瞳が、薄暗闇の中で光っていた。呼び止めた瞬間、ルナはするりと木の裏へ回り込む。まるでなにかに導かれるように。 「ルナ。そっちは危ないってば」  俺はルナを追いかけてヨロヨロと走り、木の根の間に足を取られてバランスを崩した。体が前のめりに倒れる。咄嗟に手をついたけれど、滑るように土が崩れた。その瞬間、チリンという鈴の音がまるで世界の中心で鳴り響いているように感じた。ほんの一瞬の音なのに、鼓膜ではなく頭の中で鳴ったような感覚だった。目の前に白い光が広がり、まぶしさに目を閉じた。光は雪のように柔らかく、けれど確かに熱を持っていて、触れれば溶けてしまいそうなほど近かった。どこかで風が止まり、音も消える。代わりに、ルナの鈴の音だけがずっと鳴り響いていた。  足元の感触が消えた。落ちているのか浮いているのかもわからない。ただ、なにかが俺を包んで、どこかへ運ばれているような気がしていた。怖い。でも、どこか懐かしい。懐かしい? そんな感情が胸をよぎった瞬間、耳元でルナの鈴がもう一度鳴った気がした。  ――チリン  そして全てが光に溶けた。

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