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貴族院の嵐5
寝ようと思ってベッドに入っているのに、なかなか寝付けなかった。昼間聞いた、あのヴァルター侯爵の声が頭の中で何度も蘇るから。
「貴族は義務で婚姻するものだ」
その冷たい響き。ヴァルター侯爵にとって情とはなんなのだろう。同じ人間なのだから貴族だって情はあるだろうに。それなのに義務で結婚するとか。じゃあ好きな人がいる場合はどうするんだ? 愛妾にする? 相手が庶民の場合はまだそれでいいかもしれないけれど、相手も貴族の場合はどうするんだ? 貴族の女性で愛妾になるような人はいないだろう。そうしたら諦めるしかないのか。そうなんだろうな。結婚ひとつ自由にできないのなら、庶民の方がいい。人間、情を消すことはできないと思うから。
そう思って胸の奥がざわついている。ただの客人である俺が、こんなふうに心配するのはおかしいのかもしれない。でも、夕食の席でのレオニスさんは苦しそうな表情をしていた。それが頭から離れなくて、気がついたら廊下に出ていた。
屋敷はもう寝静まっていた。外は雲が薄くかかっていて2つ並んだ月が霞んでいる。ルナが足元にすり寄ってきて、にゃと小さく鳴いた。
「お前は寝てていいんだぞ」
そう言うけれど、ルナはなにも言わずに俺の足元にいる。
俺は音を立てないように廊下を奥へと歩く。行き先はレオニスさんの書斎だ。角を曲がると重厚なドアの隙間から淡い光が漏れていた。こんな時間まで起きているのか。書類でも整理しているのか。でも、なぜだかただの仕事の灯には見えない。気のせいかもしれないけど。
ドアの前でノックをしようか迷う。こんな夜中に客人が主の部屋を訪ねるなんて無礼にもほどがあるだろう。それでも心配だ。
ルナもドアの前で立ち止まり、首を傾げている。鈴が小さくチリンと鳴った。その音が静まり返った廊下に溶けいく。
俺はそっとドアに近づいた。耳を寄せると。微かな紙の擦れる音がする。それに混じって低く押し殺した声が聞こえる。
「理想を掲げるほと、守りたいものが遠ざかっていく……」
レオニスさんの声だ。その声を聞いてしまっては、ドアをノックするのはためらってしまう。
「私のしていることは誰のためなんだ? 私は、正しいのか?」
苦しそうな声だった。あんな威圧感のある人間に言われたら、そう思っちゃうよな。
ドアの前に立ち尽くしていると、足元のルナが小さく鳴いた。馬鹿! レオニスさんに聞こえちゃうだろ! そう思ってルナを睨むけど、どこ吹く風だ。ドアが開いたら、ルナを追いかけてきたって適当に言おう。そう思っているけれど、ドアが開くことはなかった。仕方なく、俺はしゃがんでルナの頭を撫でてやる。すると満足げな表情をする。俺が相手をしなかったのが気に入らなかったのか? でも今はルナの相手をしている場合じゃない。レオニスさんが気になるんだ。
俺がそうしていると、部屋の中の気配が動いた気がした。椅子の軋む音。そして大きなため息がひとつ。届いただろうか。なにもしてないけれど、ここで、レオニスさんの孤独が和らげばいい。そう願っている。
「そろそろ寝るか……」
そう聞こえて、俺は慌てて部屋へと戻る。黙って立ち聞きしていたことは内緒にしておきたいから。
「ルナ。行くぞ」
そう小さく言うと、ルナは尻尾を立てて歩き出した。鈴がまた小さくチリンと鳴る。まるで「よく頑張った」と言わんばかりに。
月明かりの下廊下を歩きながら、俺は小さく息をついた。不思議と胸の奥に温かいものが残っている。俺はなにも出来なかったけど。そしてレオニスさんもそれを望んでいないだろうけど。それでもいつの日か、レオニスさんが1人で抱えているものを俺も少し抱えてあげることができる日は来るのかな? 半分……とは言わない。ほんの少しでいいんだ。レオニスさんが抱えているものを少しでも俺が抱えて、レオニスさんが少しでも楽になってくれたらいい。そう思う。俺はただの客人なのに、そんなことを思ってしまうのだ。1人で抱えるにはあまりに重いと思うから。
「貴族って大変だな。な、ルナ」
俺がそう話しかけると、首を傾げて俺を見る。なんだ? と言わんばかりに。
部屋に戻ると、ベッドに横になる。神経が冴えているので眠ることはできないから、レオニスさんのことを考える。今レオニスさんが苦しいのは、昼間ヴァルター侯爵に会ったからだ。いや、会わなくても国会があるから、なかなか心が安まることはないのかもしれない。庶民の暮らしを楽に。それは理想論なのだろうか。でも、ヴァルター侯爵は貴族による貴族のための政治を取るんだろうなと思う。でもレオニスさんは違う。庶民のことも考えている。それはこのエルドランド王国全体のことを考えているんじゃないか。そう思った。自分たちのことしか考えない貴族は、国のことなんて考えてないんだ。だから、庶民の俺はレオニスさんに頑張って欲しいと思う。俺はこの国の国民じゃないけど。でも庶民であることに変わりはないから。
そんなことを考えていると、夜は更けていった。
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