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静かな夜の扉7
ヴァルター侯爵が屋敷を訪れてから、書斎に籠もるようになった。自分が無能でどうしようもない人間になったような気がして使用人たちと顔をあわせるのが怖くなったからだ。
『お前が庶民に手を伸ばそうとするほど、貴族たちはお前を切り捨てていく。気づけば何も残らんぞ』
私は庶民を守りたいと思う。今の私が望んでいるのはそれだけだ。
机の上の書類は、どれも私が願い、求めた改革のための証だ。貴族院であれだけ正面から否定されたあとでも、なお捨てられずにいた自分が愚かしい。破り捨てた紙は床に散らばっている。それを見てもなにも変わらないことはよくわかっているのに、つい目をやってしまう。
「貴族たちから切り捨てられる、か……」
確かに改革派は人数が少ない。いないわけではない。それでも少ないことは確かだ。そして多分、ヴァルター侯爵は改革派たちを潰していくだろう。もしかしたらこの屋敷に来たのと同じように他の議員のところを訪ねているかもしれない。最悪は私1人になるかもしれない。庶民を助けたいと最初に声をあげたのは私だった。だから、他の議員が降りてしまっても仕方がないかもしれない。けれど、私1人になってしまったら、守りたい庶民が遠くなってしまう。
「理想を掲げるほど、守りたいものが遠ざかっていく」
その言葉が口をついて出たとき、我ながら呆れるほど弱っていると思った。誰に聞かせるつもりでもなかった。誰かに弱った姿を見せるタイプではない。それは貴族としてのプライドも含まれている。しかし、どうしてここまで自分を追い詰めるのか。なぜ反発ばかりを受けるとわかっていながら止まれないのか。思えば、きっかけは単純だった。幼い頃、屋敷の外で見た”現実”。高価な服も靴も、名のある家名もない。皆、一様に疲れた顔をしていた。生活をしていくのがやっとなのだろう。それは幼い私にもわかった。貴族たちがパーティーをやっている間も、庶民は皆、そんなことをしている余裕などないのだろう。けれど貴族たちはそんなことを知らない。いや、知っているのかもしれない。知っていながら知らないふりをしているのか、知っていても自分には関係のないことだと思っているのか。幼い頃にそんなことを知ってから私は、議会に出られるようになる歳をひたすら待った。そして議会に出られるようになると庶民の暮らしを楽にとの改革を進めた。最初は本当に賛同してくれる議員はいなかった。それでも、根気強く進めていくうちに1人、また1人と賛同者が増えてきた。でも、ヴァルター侯爵の訪問があったら、それはどうなるか。侯爵に逆らうことができるのは公爵、侯爵しかいない。伯爵以下は逆らうことなんてできない。それをわかっていて来たのだろう。それでも私は、意見を撤回することはできなかった。幼い頃からなのだ。そう簡単に大人しくはできない。目指すものはただひとつ。”救えるはずの人間を救う世界”。ただそれだけだ。青臭い理想。笑われようと馬鹿にされようと、それでもそれを手放す気はなかった。それでも、ヴァルター侯爵の言葉は胸に突き刺さった。
「お前が庶民に手を伸ばそうとするほど、貴族たちはお前を切り捨てていく。気づけば何も残らんぞ」
その言葉があの日からずっと頭の中を回っている。
「……っくそ」
喉奥に自嘲が滲む。ヴァルター侯爵の言葉は癪にさわる。だけど的を得ているから腹立たしい。私はなにを守りたいのだろう。改革か、家か、それとも未来か。
それだけでも頭が痛いのに、もっと頭が痛いのはヴァルター侯爵の姪との婚約の話だ。昨年の秋の貴族院の頃に紹介された。そして、もういい歳なのだから身を固めろと言われて紹介されたのだ。しかし、いい歳だからと言うのは建前だろう。その姪と結婚することで私を抑え込もうというのだろう。そんなのは見え見えだ。それでもそれを口にすることはできない。だから紹介を受けたものの会うことなどしていない。相手も会う気などないのだろう。なんの音沙汰もない。それをいいことになにもしていなかったが、ヴァルター侯爵もさすがに苛立ってきたのか、話を進めろとせっついてきた。貴族の結婚は義務でする。そんなの冗談じゃない。父は子爵の母を娶った。義務での結婚ではなかった。ダンスパーティーで知り合っての結婚だった。だから私も適齢期になればそんな相手と巡り合うのだろうと思っていた。けれど現実は貴族院のことで精一杯だった。私には、父にとっての母のような人との出会いはないようだ。最近はそう思って諦めている。
机の上の山になっている書類を目に、そんなことをつらつらと考えていると、ちりんと廊下から鈴の音が聞こえた。この屋敷の中で鈴を鳴らすと言ったらタクヤが連れている黒猫だけだ。猫だけがいるのか? それともタクヤもいるのか? タクヤもいると考えた方が良さそうだ。そう思って私はドアを開けた。
「タクヤ?」
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