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静かな夜の扉9
パタリとドアが静かに閉まる音がした。去っていく足音は軽やかで、でもどこか急いでいるようだった。私はと言えば、書斎の紙の山を片付けてからと思い、残った。しかし、しばらく椅子に座ったまま動けなかった。胸の奥が落ち着かなくて、静かな夜だというのに私の鼓動だけが妙にうるさい。目の前には破り捨てられた書類の山。足元にも紙は散らばっている。今、私が片付けなくとも屋敷の者に言えば、明日の昼間のうちに片付けてくれる。それはわかっている。けれど、自分の心を落ち着かせるために私は書斎に残った。とてもこのままでは眠れそうにないから。
先ほどのタクヤを思い出すと心が軋むように疼く。タクヤは言ったのだ。
「痛そうでした」
政治の議論も権力争いも、侮辱の言葉さえ私はいつも受け流していた。なにを言われても平気なわけではない。心は痛むし、重なれば心は滅多刺しになる。それでも議場にいるときはそれを顔に出すことはなかった。誰になにを言われても、ただの”理想だけの若造”だと言われても、感情を表に出すことはなかった。屋敷に帰り、書斎へと入ってから感情を表に出した。けれど、先ほどは言葉を失った。反応をするのが遅れた。
「痛そうでした」
私の表情を見てそう言ったのはタクヤが初めてだった。あのときのタクヤの瞳には恐れも憐れみもなかった。ただまっすぐに私という人間そのものを見ていた。それが、怖かった。自分が丸裸にされているようで。
私は立ち上がり、窓辺へと行く。月光が床へ淡く流れ込み、静寂が波のように揺れた。
どうしてあんなに胸が熱くなる? 庶民の青年。この世界に突然送り込まれ、一緒に飛ばされた黒猫以外身よりもなく、頼れる者さえいない。自分のことで精一杯だっておかしくはないのに、私の弱さを見て目を背けることもなく、蔑むでもなく、ただ受け止めてくれた。
「怖いって思っていいと思います」
その言葉が耳から離れない。私はいつから自分の弱さを誰かに見せなくなったのか。父に、師に、同士たちに。子供の頃、父に言われてからだ。
「貴族たるもの、弱音を見せるな。感情を出すな」
そう教わってからだろう。だから、まだ小さかった頃のことだ。自分の感情は自分の内にしまうようになった。理想を語るなら迷ってはいけない。前に立つものは涙を流してはいけない。そう自分に言い聞かせ続けてきた。なのに――。タクヤの前では強がりも建前もひどく滑稽に思えた。
「ああ。私は……」
言葉が胸で止まる。認めたい気持ちと認めてはならないという気持ち。認めたら終わりだという恐怖が胸の中でぶつかりあっていた。けれど、ごまかしなど利くのだろうか。タクヤの瞳は私の心の奥底に触れてしまった。誰にも見せない、触れさせない場所へと躊躇なく踏み込んで来て触れた。
窓へ手を添えると。窓ガラスはひんやりとしていた。その冷たさに自分の体の体温だけでなく、心までもじわりと温かくなっていることに気づいた。
「……」
今の自分の感情を言葉にしてはいけない。認めてはいけない。そう思うと胸が締めつけられた。みっともない。貴族に生まれ、国の改革を担おうとしている私が、異世界から迷い込んだ1人の青年に、心を乱されている。許されることではない。正しいことではない。私には名ばかりとはいえ婚約者のいる身で、彼は救世主ではあるけれど、庶民の、いやそれどころかこの世界の者でもない。それでも。あの小さな声で名前を呼ばれた瞬間を思い出すと胸の奥でどうしようもないほどの温度が灯る。救われたのだ。たった一言で。まっすぐな視線ひとつで。彼に近づいてはいけない。そう思うけれど、縮まった距離はもう戻らない。
私は目を閉じた。月明かりがまぶた越しに滲む。なにをしているのだ、私は。
――彼を失いたくない。
ただそれだけだ。その想いに向き合ってしまった以上、もう今までの自分ではいられない。それでも気づいてしまった以上、もう戻ることはできなかった。ならば、誰にも気づかれないように静かに胸の奥深くにしまっておこう。それなら、この気持ちを持っていてもいいだろうか。それくらいは許して欲しい。明日からまた今までのように表情を出すことはしないから。誰にも見せはしないから。今だけ。せめて今だけは……。
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